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第35話「あの頃の天使」


「え?アトリエ?この屋敷のをもらったのか?」


 桜谷さくらたにのクローゼットを確認し、はしごを使って君野きみのの部屋からきいろの絵を外したあと。


 堀田ほったは今度は、その絵を描いた本人に呼び出された。


 白黒(しろくろ)は桜谷と出会う前に、すでに白戸家(しろどけ)当主と話をつけていたらしい。


 愛用の筆や絵の具、画材、使い込んだイーゼルまで、本人より先に屋敷へ送り込まれていた。


 堀田が案内されたのは、白戸家の地下室だった。


 屋敷の規模に反して、ほとんど使われていない区域らしい。


 照明をつけると、暗闇の中から、がらんとした広大な空間が浮かび上がった。


 壁も床も冷え切っている。


 声を出せば、遠くまで反響しそうだった。


「ここ、全部使っていいのか?」


「そう聞いてる」


 きいろは短く答え、搬入された荷物の箱を開け始める。


 堀田は照明の位置や水場を教えながら、画材や道具を運ぶのを手伝った。


 やがて、部屋の中央へ置かれたイーゼルへ目を向ける。


 木部には傷が多く、脚の接合部もわずかに揺れていた。


「これ、結構使い古してるよな。新しいもん買ったらどうだ?」


「いや、それでいい」


 白黒は学生時代と変わらず、多くを語らない。


 それでも堀田は、その立ち姿を見るだけで少し感動していた。


 あの白黒しろくろきいろが、本当に画家になった。


 高校時代は、天邪鬼で、何を考えているのかわからない危なっかしい自由人だった。


 今ではそこへ、大人の色気まで加わっている。


 つまり――。


 最大限に大人びた、天邪鬼で何を考えているのかわからない危険な自由人だ。


 どうやって今まで生きてきたのか。


 どんな経緯で絵を描き続け、個展を開くところまで来たのか。


 聞いてみたいことは山ほどある。


 だが、きいろはそんな話をする暇など与えないと言わんばかりに、堀田へ目もくれなかった。


 部屋の奥には、先に召使いたちが搬入していた巨大な木枠が立てかけられている。


 ドア2枚分はありそうな、人間よりも大きな四角い骨組み。


 まだ布も張られていない、キャンバスになる前の姿だった。


 きいろはその前へ立つ。


 これから儀式でも始めるような、妙に静かな顔をしていた。


 床へ広げられた白い布が、ぱさりと音を立てる。


 そのまま白い海のように波打ち、冷たい床を覆った。


 きいろはシャツの袖を(まく)る。


 露わになった腕で布の端を掴み、木枠へ押し当てた。


 片手で強く引きながら、もう片方の手でタッカーを握る。


 バチン。


 乾いた音が、地下室へ大きく響いた。


 位置を変える。


 布を引く。


 また、バチン。


 絵を描くというより、大工仕事に近い。


 大胆に見えて、指先の動きには迷いがなかった。


「堀田、そこ持て」


「ああ」


 指示された布の端を、堀田が両手で掴む。


「もっと引け」


「破れねえか?」


「破れない」


 堀田が力を込めると、緩んでいた布が一気に張った。


 その瞬間を逃さず、きいろがタッカーを打ち込む。


 バチン、バチン。


「へえ……絵描きも大変なんだな」


 堀田は太い眉を上げ、張られていく布を眺めた。


 これほど巨大なキャンバスを用意するということは、相応の目的があるはずだ。


「なんか、コンテストにでも出すのか?」


「個展をすることになってしまった」


「個展!?」


 堀田は思わず布から手を離しかける。


「本当か?すごいな!お前、やっぱ才能あるんだな!」


 その瞬間。


 最後のタッカーを打ち込もうとしていた、きいろの手が止まった。


「才能?」


 低い声が落ちる。


「そんなものはない」


「いや、でも個展だろ?」


「ましてや、お前のせいで、俺は自分の絵の価値がわからなくなった」


「俺のせい?」


 堀田は首を傾げた。


 すぐに脳裏へ浮かんだのは、きいろがこの屋敷へ来られた理由だ。


 貴聞きぶんが絵を買い、白戸家当主が投資を始めた。


 それによって、きいろは白戸家の賓客として迎え入れられた。


「お前、もしかして俺のために来たのか?」


 きいろは止めていた手を再び動かし、タッカーを木枠へ当てる。


「パトロンってやつも、この屋敷に入るために受け入れたとか」


 バチン。


「お前、そういうのに乗っかるタイプじゃないもんな」


 もう1度、バチン。


「それに、桜谷も守ってくれたよな」


 最後の音が、地下室へ響いた。


「何を美談にしようとしてやがる」


 きいろはタッカーを床へ置き、冷たい目を堀田へ向けた。


「気持ち悪い」


「あ……」


「言っておくが、お前のためじゃない」


「ああ、そうだよな……」


 少しだけ肩を落としながら、堀田は木枠の片側を持つ。


 きいろも反対側を持ち、2人で完成したキャンバスを壁へ立てかけた。


 真っ白な布が張られただけの巨大な平面。


 これから、そこへ何が描かれるのか。


 堀田は子どものように目を輝かせ、キャンバスを見上げた。


 その背中を、きいろがじっと見つめる。


 白戸家の召使い服。


 貴聞から与えられた高級時計。


 シャツの下には、外せないリング。


 あれほど自由だった堀田が、今では誰かの命令を待つようにそこへ立っている。


「……俺は、狂気を選んだ」


「は?」


 堀田が振り返る。


「それだけだ」


 きいろは腰へ手を置き、白いキャンバスへ視線を戻した。


「お前の無様さ」


「おい」


「白いワンピースを着た君野」


 きいろの口元が、わずかに持ち上がる。


「それから、頭のおかしい御曹司」


「……」


「俺は、その隷属(れいぞく)の画家になる」


 きいろは楽しそうに笑った。


「面白いだろ」


「面白いって……面白いのか?」


 堀田の背中へ、冷たいものが走る。


 相変わらず、何を考えているのかわからない。


 しかも以前と同じように、平穏よりも破滅的な生き方を自分から選んでいる。


 どうして、そんなに楽しそうに笑えるのか。


「お前、本当に大丈夫なのか?」


「何がだ」


「いや……もういい」


 心配しても、こいつには届かない。


 堀田は諦めるように白いキャンバスへ向き直った。


 その時、ふと、先ほど君野の部屋から外した絵を思い出す。


「なあ」


「何だ」


「あの絵って、どんなコンセプトなんだ?」


「どの絵だ」


「貴聞が買った、お前の絵」


 きいろは一瞬だけ堀田を見る。


「知るか」


「はい?」


「勝手に見て、感じてろ」


「……」


 その答えに、堀田は妙な懐かしさを覚えた。


 ああ。


 こいつは、そのまま大人になったのだ。


 身なりは格段に良くなった。


 画家として評価もされ、個展まで開く。


 それでも根っこの部分は、何ひとつ変わっていない。


 あの老人の思いをそのまま受け継いだ、個性的で不可解な生命体のまま。


「堀田」


「今度は何だ?」


「きれいなバケツと、水」


「はいはい」


「あと、布」


「わかったよ」


 次々と飛んでくる命令に、堀田は素直に従った。


 結局、白黒の前でも召使いのように動いている。


 だが不思議と、貴聞に命じられた時とは違い、首筋がぞわつくことはなかった。


 堀田は空のバケツを手に取り、地下室の水場へ向かった。




 堀田ほったときいろが地下室で作業をしていた頃。


 桜谷さくらたには、雲ひとつない青空を窓越しに見上げていた。


 部屋の空気を入れ替えようと窓へ手を伸ばしたものの、古い屋敷らしく、見慣れない構造をしている。


 初日は召使いに開けてもらったが、自分で触るのは初めてだった。


「……どうなってるの、これ」


 取っ手らしき金具を動かしてみても、びくともしない。


 無理に力を入れて壊すわけにもいかなかった。


「誰か呼ぶしかないわね」


 ベッド脇に置かれた内線電話へ手を伸ばした、その時だった。


 コンコンコン。


 ドアを叩く音がする。


 ちょうどいい。


 そう思い、相手を確認せずに扉を開いた。


「きゃっ!?」


 目の前に立っていた人物を見て、桜谷は思わず声を上げた。


 すぐに表情を整える。


 ドアスコープを覗いてから開けるべきだった――。


 そんなふうに、ただ驚いただけのように自分の動揺をすり替えた。


 そこには、白いワンピース姿の君野きみのが立っていた。


 大きな瞳をきらきらと輝かせ、今にも飛び跳ねそうなほど興奮している。


「あ、あの!こんにちは!」


「……こんにちは」


「僕、ファンなんです!」


「え?」


 思いがけない言葉に、桜谷は瞬きをした。


「私の?」


「はい!」


 君野は勢いよく頷く。


「僕、不審者じゃないんです!こんな格好してるけど……!」


「それは見ればわかるわ」


「今日、スマホゲームをしてて思い出したんです!あ、この人だって!」


 ドアを開けたまま、君野は興奮冷めやらぬ様子で話し続ける。


 桜谷が圧倒されていると、彼は口元をもごもごと動かしながら、何かを必死に思い出そうとした。


「あの……何だっけ。保険だったかな?ビジネス?」


「何の話?」


「スマホを触ってると、よく出てくるCMです!桜谷さん、あの人ですよね?」


「……ああ」


 ようやく話が繋がった。


「WEB広告のCMなら、いくつか出たことはあるわ」


「やっぱり!」


 君野の顔に満面の笑みが広がる。


 次の瞬間、白いワンピースの裾を揺らしながら、その場で突然踊り始めた。


「友達が~できたよ~、ランラン♪ きのこともやし、もやしときのこ♪きののこもやし、もやのこしもや~♪」


「……」


「きのこともやしは、しもやのこき~♪ランランラン♪」


「ああ。それ、スマホゲームのCMね」


 桜谷が言うと、君野は嬉しそうに踊り続ける。


 独特な振り付け。


 撮影当時、何度も練習させられた動きを思い出し、桜谷もつられるように片腕だけを動かした。


「あ!桜谷さんも踊ってる!」


「振り付けを覚えているだけよ」


 そう答えながらも、口元には自然と笑みが浮かんでいた。


 自分が出演した短いCMを、ここまで一生懸命覚えてくれた。


 しかも、目の前にいるのは君野だ。


 その事実が、胸の奥へ静かに染み込んでいく。


 同時に、もう鎮まったはずの感情が動き始めた。


 中学生の頃、自分を壊すほど膨れ上がった独占欲。


 長い間、心の底へ埋めていたはずの熱が、掘り当てられた源泉のように溢れ出してくる。


 君野に再び引っ張り上げられている。


 ただし、今の彼は過去の自分を知らない。


 その事実だけが、どうにか桜谷の理性を繋ぎ止めていた。


 踊り終えた君野へ、桜谷は控えめに拍手を送る。


「どう?踊れてた?」


「ええ。上手だったわ」


 本当は抱き締めたいほど愛おしい。


 それでも、ただの女優として微笑んだ。


「わざわざ覚えてくれるほどファンだなんて、嬉しい」


「うん!」


 君野は屈託なく笑う。


「僕にとっては、どんな俳優さんより桜谷さんが1番好き!」


「……」


「これからも応援してます!あの、握手してもいいですか?」


「もちろんよ」


 お世辞だったとしても嬉しい。


 桜谷は素直に右手を差し出した。


 君野の手が重なる。


 柔らかく、温かい感触。


 その瞬間、胸の奥へ別の感情が押し寄せた。


 彼は今、自分を舞台女優の桜谷瑠璃子としてしか知らない。


 それでいいはずだった。


 過去の執着も、傷つけた記憶も、すべて忘れている。


 なのに。


 どうして、こんなにも寂しいのだろう。


「あのね、君野くん」


「何?」


 呼び止めたものの、言いたかった言葉は喉の奥で止まった。


 ――昔、私たちは恋人だった。


 そんなことを今ここで告げるわけにはいかない。


 桜谷は窓へ視線を逸らした。


「……窓の開け方がわからなくて困っているの」


「そんなこと?」


 君野は得意げに胸を張る。


「僕に任せて!」


 そのまま桜谷の横をすり抜け、部屋へ入っていく。


 正面の窓へ食らいつくように近づき、金具へ手をかけた。


「これはね、先にここを上へ動かすんだよ」


「そこ?」


「うん。それから、こっちを押しながら引くの」


 ガチャリと音が鳴り、重かった窓があっさりと開く。


 涼しい風が部屋へ流れ込み、カーテンと2人の髪を揺らした。


「ほら。開いたよ」


 君野は振り返り、誇らしそうに笑う。


「理解できた?」


「ええ。ありがとう。助かったわ」


「ほかにも困ってることある?」


 何の警戒もなく、真っ直ぐこちらを見ている。


 桜谷は少しだけ迷ったあと、唐突に尋ねた。


「……君野くんって、今、幸せ?」


「え?」


 君野は小首を傾げ、目を何度か瞬かせる。


 質問の意図を疑う様子もない。


「うん!幸せだよ」


「そう」


「美味しいものもいっぱい食べられるし、動物たちもいるし、貴聞くんも優しいよ」


「堀田くんが、召使いのままでも?」


「ああ、堀田さん?」


 その呼び方に、桜谷の胸が大きく揺れた。


「本当に良い人だよね。いつも助けてもらってるんだ」


「……堀田、さん」


 思わず、声に出していた。


「うん。焼きおにぎりも美味しいし、困ってるとすぐ来てくれるよ」


「……そう」


 桜谷はどうにか表情を崩さず、静かに答えた。


 だが、内心では衝撃が走っている。


 今までとは違う。


 堀田の存在そのものを忘れたわけではない。


 だが、恋人だった堀田は消え、ただの親切な召使いとして認識されている。


 あの御曹司は、ただの変態ではない。


 君野の記憶だけでなく、人との関係まで書き換えようとしている。


 そんな疑念が、桜谷の中ではっきりと形を持ち始めた。



「吉郎。おいで」


 その声とともに、貴聞きぶん桜谷さくらたにの部屋へ姿を現した。


 ドア枠にもたれ、腕を組んだ黒いスーツ姿。


 甘く優しい声で君野きみのを呼ぶ。


 その声を聞いた瞬間、君野は嬉しそうに振り返り、一目散に駆け寄った。


「ねえねえ!僕、窓の開け方教えてあげたんだ!」


「そっか。とっても偉かったね」


 貴聞は優しく抱き寄せ、愛おしそうに頭を撫でる。


 年下の高校生へ甘えるように身を預ける君野。


 その光景に、桜谷は肌寒ささえ覚えた。


 貴聞は君野へ向ける甘い笑顔とは対照的に、桜谷へだけ湿ったような視線を向ける。


 まるで銃口を突きつけられたような、冷たい緊張感だった。


「ほかにわからないことがありましたら、内線から召使いが24時間対応します。なるべく女性の召使いを手配するよう伝えてありますので」


 一拍置き、柔らかく微笑む。


「もちろん、僕に直接言っていただいても構いません。すぐ対応しますので」


 言葉だけを聞けば、非の打ちどころのない青年だった。


 君野の後頭部をいやらしく撫で続ける、その仕草以外は。


 整った顔立ち。


 長すぎるほどの脚。


 もし俳優やアイドルになっていたなら、間違いなくトップスターだっただろう。


 だからこそ、桜谷は業界人としての嫉妬まで覚えてしまう。


「失礼を承知で言いますけど」


 貴聞は微笑んだまま言った。


「桜谷さんって、もっと無愛想な人だと思っていました。でも、可愛い人なんですね」


「可愛い?」


 桜谷は静かに笑い返す。


「それはどういう意味かしら」


「吉郎のことが好きなんだろうなって」


 貴聞はあっさりと言った。


「隠しきれていませんよ。もちろん、女優さんですから、どこまで本心かはわかりませんけど」


「そんな大人をからかうものじゃないわ」


 桜谷は目を細める。


「青二才が生意気でした。でも、吉郎は今、とても幸せですよ」


 そう言って君野を見る。


「ね、吉郎」


「うん!」


 君野は嬉しそうに頷いた。


「僕、貴聞くんも桜谷さんも好きだよ! 堀田さんも召使いのみんなも、ヴンちゃんも、みーんな!」


 そう言って貴聞の胸へぐりぐりと顔を押しつけ、子どものように甘える。


 違う。


 私が知っている君野くんは、あんな子じゃない。


 神聖だった思い出が、目の前で踏みにじられているようだった。


 私の天使は。


 もっと穢れがなくて。


 もっと静かで。


 もっと、誰にも染まらない子だった。


「……では」


 貴聞は桜谷へ向き直る。


 2人は恋人のように寄り添ったまま部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 静寂だけが残った。


 桜谷はその場に立ち尽くした。


「あれは本物じゃない……絶対に」


 抑え込んだはずの嫉妬も、焦りも、苛立ちも、一気に燃え上がる。


 全身から汗が噴き出す。


「君野くんは、私のもの……」


 桜谷は太腿の横へ下ろした両手を、爪が食い込むほど強く握り締めた。



 その日の午後。


 部屋へ戻った君野は、チョコレートケーキを食べる前に再び眠りへ落ちた。


 まるで眠り姫のように。


 夜まで、一度も目を覚ますことはなかった。

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