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第34話「揺れる言いなり召使い」

「……なんだ、あいつ……」


 貴聞きぶんは、これまで味わったことのない敗北感に(さいな)まれていた。


 頭にはまだ、泥でも塗りたくられたような、あの不快な指の感触が残っている。


 白黒しろくろきいろ。


 あんな奇妙な無名画家を、自分が押し上げてしまったというのか。


「生意気だ……!」


 吐瀉物(としゃぶつ)のように、呪いの言葉が喉元まで込み上げる。


 奥歯を噛み締め、握った指の関節すべてへ力が入り、そのまま戻らない。


「ねえ、手、痛いよ」


 隣にいた君野きみのが、子どものように唇を尖らせ、眉をへの字へ曲げた。


 堀田ほったも、2人の来賓もいなくなり、吉郎よしろうの部屋に残っているのは貴聞と君野だけ――。


 そう思っていた。


 君野は強く握られた左手を、貴聞の右手から抜こうとしている。


 その動きに気づき、貴聞は一瞬だけ力を緩めた。


 だが、膨れ上がった感情までは抑えられない。


 君野の身体を引き寄せ、その背中をアンティーク調のクローゼットへ押しつけるように、強く抱き締めた。


 耳元へ唇を寄せ、低く粘りつくような甘い声を流し込む。


「吉郎は、僕のものだよ」


「わかってるよ……どうしたの?」


「あの人たちは、吉郎が思っているほど良い人じゃない」


 貴聞は、逃がさないように腰へ腕を回した。


「吉郎には、あの2人と過ごした記憶が何ひとつ残っていないんだから」


「でも……嫌な感じはしなかったよ」


「あの男を見たよね?白黒きいろさん」


 あえて丁寧に呼びながら、貴聞は声をさらに低くする。


「威圧的で、命令口調で、怖かったよね。吉郎もそう思わなかった?」


「でも、ほら。あの絵を見て!」


 君野はあっけらかんと笑い、クローゼットよりも高い位置へ指を伸ばした。


「僕ね、ここへ来てからずっとあの絵を見てるんだ。だから、心の中ではもう友達なんだよ!」


 ひまわりのような笑顔が、絵を見上げる。


 その横で、貴聞の嫉妬心は禍々しい黒い太陽のように燃え上がった。


 あの絵は、美術館デートを成功させるための踏み台にすぎなかった。


 吉郎へ良いところを見せたくて、展示会のパンフレットを一晩かけて暗記した。


 当然、あの作品についても頭へ入れていた。


 画家名は、B Klyleビー・クライル


 作品に題名はない。


 一度描き上げた人物の上から、何色もの絵の具を乱暴に塗り重ね、ほとんどすべてを潰している。


 辛うじて残っているのは、そこに男が立っていたことを示す足元だけ。


 花火のように飛び散った色彩に覆われているのに、絵全体は暗く、何を表しているのかもわからない。


「何が良いんだ……」


 吉郎が惹かれた理由も、あの後になって評価された意味も、貴聞には理解できなかった。


 ただ、今はあの絵が憎い。


 それだけだった。


 壊してしまえばいい。


「くっ……!」


 今すぐ膝を叩き込み、真っ2つに折ってやりたい。


 だが、そんな衝動を押し止める存在がいる。


 父だ。


 頭に浮かべただけで、燃え盛っていた怒りがわずかに萎縮する。


 あの絵には、すでに価値がついている。


 父まで投資を始めた以上、燃やすことも、壊すこともできない。


 腹立たしいが、その事実だけは認めざるを得なかった。


「貴聞くん、身体が熱いよ。湯気が出そう。熱でもあるの?」


 一向に離れようとしない貴聞へ、君野は優しく声をかける。


 両手を伸ばし、きいろに乱されたままだった貴聞の髪を、指先で丁寧に整え始めた。


「あの絵は、もうこの部屋にふさわしくない」


 貴聞は絵を睨みながら答える。


「吉郎の視界にも、入れないほうがいい」


「えっ。でも、もうここにあるのがお馴染みだし……」


 君野は困ったように絵を見上げる。


「あ。どこか違う場所へ移すとか?」


「そもそも、あの絵はもう、僕たちの思い出ですらない」


 貴聞は君野へ視線を戻した。


「吉郎は、僕と美術館へ行ったことさえ覚えていないでしょ」


「……ええっと……」


「ほら。良くない影響があるんだよ」


 返事に詰まった君野へ、さらに言葉を重ねる。


「僕は、あの絵が好きじゃない。吉郎の記憶には、生身の僕だけがいればいい」


「確かに暗い絵だけど、お化けは出ないよ」


 君野は貴聞の髪を撫でながら、なだめるように笑った。


「もしかして、怖い夢でも見たの?よしよし」


 その優しい手に触れられるだけで、辺り一面を焼き尽くそうとしていた黒い太陽が、少しずつ勢いを失っていく。


 貴聞は君野の白いワンピース越しの胸元へ頬を寄せた。


「貴聞くんが怖いなら仕方ないね。ほかの場所へ飾ってもらえないか、聞いて――」


 君野が穏やかに話していた時だった。


 貴聞は突然顔を上げ、その唇を熱烈に塞いだ。


「んっ……!」


 あまりにも唐突なキスに、君野の肩が跳ねる。


 それでも拒むことはなく、激しく重なる唇の隙間から、2人の熱い吐息が漏れた。


 長いキスがようやく終わる。


 貴聞は嫉妬を剥き出しにしたまま、赤く染まった君野の頬を両手で包んだ。


「一度、全部消す」


「……え?」


「あの絵を知っている吉郎は、僕にふさわしくない」


 濡れた唇を見つめ、熱に浮かされたように囁く。


「僕だけを好きだった、あの真っ白で美しい君が欲しい」


「真っ白?僕、もっと白くなるの?」


「そうだよ」


 貴聞は優しく微笑んだ。


「吉郎は、潔白の眠り姫なんだよ」


 君野は意味を完全には理解できないまま、熱を帯びた瞳で貴聞を見つめている。


 眩いダイヤのリングをはめた君野の右手へ、黒いダイヤをはめた貴聞の指が絡みつく。


 すべてを消し去り、もう1度最初から始めるように――。


 2人が再び唇を重ねようとした、その時だった。


 ドサッ――!


 真後ろで、重い何かが絨毯へ落ちる音がした。


「……!」


 2人が振り返る。


 そこには、出ていったと思っていた堀田がいた。


 部屋の奥で作業をしていたらしく、手元から分厚い本を落としている。


「あ……悪い。邪魔したな」


 堀田は目を逸らし、落とした本を慌てて拾い上げた。


 貴聞は君野の身体から腕を解くと、堀田へ歩み寄る。


 そして、壁の絵を一瞥した。


「堀田。今すぐ、あの絵を外して」


「あ、ああ。わかった。はしごを持ってくる」


 堀田ほったが立ち上がろうとした、その時だった。


 貴聞きぶんは突然、その身体へ抱きついた。


「っ!?」


 拾い上げたばかりの分厚い本を、再び落としそうになる。


 目を見開いた堀田の視線は、貴聞の黒い肩越しに、その先にいる君野きみのへ向けられていた。


 しかし貴聞は、吉郎よしろうには聞こえないほどの声量で、堀田の耳元へ囁いた。


「堀田は、僕の味方だよね」


「……」


「そうだよね。僕より、あの白黒しろくろきいろを選ぶなんてこと、ないよね」


「別に、そういうふうには考えてない」


 堀田は視線を逸らした。


「俺は、ただの召使いだ」


「へえ……そんなことを言うんだ」


 貴聞の声から、わずかに温度が消える。


「でも、元凶は堀田だよ。どうしてくれるの?」


「元凶って……」


「あなたが呼んだんでしょう。あの2人を」


 機嫌の悪さを隠そうともせず、貴聞は据わった目で正面を見つめた。


「もう大丈夫だからって、追い出してよ」


「でも、あいつのパトロンになったのはお前だろ」


「へえ、僕にそんなこと言うんだ」


 貴聞は堀田の背中へ回した腕へ、さらに力を込めた。


「僕と吉郎の幸せを、一緒に願っているんだよね」


「……」


「だったら、その環境を整えるのも堀田の仕事だよ」


 耳元へ、逃げ道を塞ぐように言葉を流し込む。


「これ以上、吉郎を混乱させて何になるの? 負担をかけたくないよね」


「それは……」


「吉郎は、ここにいるのが一番幸せなんだって」


 貴聞はほんの少し顔を離し、堀田の横顔を覗き込んだ。


「ねえ」


「……わかった。わかったから」


 堀田は、ただ静かに頷くしかなかった。


 すると貴聞は満足したように微笑み、食堂でも行った、あの儀式を始める。


 堀田の襟元へ右手を差し込み、シャツの内側からリングのついたネックレスを引き出した。


 ――正直、これは好きじゃない。


 歪な指輪へダイヤを埋め込まれ、元の形すらわからなくなったリング。


 どうして、こんなもの越しに首筋へ口づけられなければならないのか。


 貴聞の唇が、リングの中央で揺れるダイヤへ触れた。


 金属越しの冷たさと、唇の生温かさ。


 その両方が重なった瞬間、電気のような不快感が、首筋から足先まで一気に走る。


「っ……」


 まして今は、吉郎が見ている。


 堀田は反射的に身体を引こうとした。


 だが、貴聞の腕がそれを許さない。


 首元へ押しつけられた口づけは、まるで呪いの刻印だった。


 正確には、貴聞が触れているのはリングの中のダイヤだ。


 それでも、不快感は変わらない。


 むしろ、直接肌へ触れられるよりも気味が悪かった。


 ――俺は、もうここから逃げられないんじゃないか。


 そんな絶望が、胸の奥へ重く沈んでいく。


「これで大丈夫」


 ようやく唇を離した貴聞は、何事もなかったようにリングを堀田のシャツの中へ戻した。


「お願いね、堀田」


「……ああ」


 低く答える。


 貴聞はもう堀田へ興味を失ったように背を向け、再び君野のもとへ戻っていった。


 その姿を見つめながら、堀田は分厚い本を抱え直す。


 そして何も言わず、君野の部屋を出た。




「はあ……」


 ドアが閉まると同時に、堀田はリングを押し当てられた首筋を右手で覆った。


 ぞわぞわする。


 気持ちが悪い。


 貴聞の唇は、直接肌へ触れてすらいない。


 それなのに、冷たい痕だけが残っているようだった。


 堀田は長い廊下を歩きながら、自分の召使い姿へ視線を落とす。


 この服装も、今ではすっかり板についてしまった。


 歩き方も、立ち方も、言葉遣いも。


 貴聞から命令されれば、身体が先に動く。


 吉郎も、白いワンピースを着てこの屋敷で暮らすことに、何の疑問も抱いていない。


 むしろ、美味しい料理を食べ、動物たちに囲まれ、穏やかに笑っている。


 俺は、吉郎の幸せを一番に願っている。


 白戸家にいるあいつは、甘い蜜の味しか知らないように見えた。


「……けど、幸せなんだよな。それが……」


 本当にそうなら。


 ここから連れ出すことは、俺の身勝手なのではないか。


 過去を思い出させることは、また吉郎を苦しめるだけではないのか。


 貴聞の言葉が、頭の内側へ絡みついたまま離れない。


 ――吉郎は、ここにいるのが一番幸せなんだって、もうよくわかったよね。


腕につけている高級時計が誇らしい。



「……」


 ふと、堀田は足を止めた。


「あれ。俺、何をしに出てきたんだっけ」


 数秒考え、ようやく思い出す。


「そうだ。はしごだ」


 絵を外すためのはしご。


 ため息をつきながら、1階へ向かおうとした、その時だった。


「堀田くん」


 背後から、聞き覚えのある声がした。


「……?」


 振り返る。


 客室のドアから顔を出していたのは、真っ赤なワンピース姿の桜谷さくらたにだった。


「うわっ!」


「うわって何よ」


 桜谷は不機嫌そうに眉を寄せる。


「人を化け物みたいに。ちょっと来て」


「何だよ」


「クローゼットの建てつけが悪いの。開かなくて困ってるから、直して」


 桜谷はそれだけ言うと、堀田の返事も待たず、部屋の奥へ戻っていった。


 賓客から頼まれた以上、断れる立場ではない。


 堀田は首元へ残る不快感を押し込み、そのまま桜谷の部屋へ入った。


「……」


 2人きりになった途端、妙な気まずさが押し寄せる。


 奥のクローゼットへ向かう桜谷の華奢な背中を、堀田は無言で追った。


 長い黒髪を1本にまとめた、その後ろ姿。


 中学生の頃を知っているだけに、見ているだけで妙な恥ずかしさを覚える。


 あれほど情緒が不安定だった桜谷が、今では舞台女優。


 なぜ。


 どういう経緯で。


 正直、意外すぎて聞いてみたいことはいくらでもあった。


「……感慨深いな」


「何?」


 桜谷が振り返る。


「早く直して」


「はいはい」


 氷のように冷たい物言いだけは、昔と何も変わっていなかった。


 堀田ほったは、桜谷さくらたにの滞在に合わせて奥の倉庫から急遽運び込まれたクローゼットへ手をかけた。


 取っ手を引くと、ギイギイと耳障りな音が鳴る。


 扉の隙間からカビ臭い空気が漏れ、無理に動かすたび、腐食した木片が床へぼろぼろと落ちていった。


「手荒い歓迎ね」


 桜谷はベッドへ腰を下ろし、長い脚を組んだ。


 壊れかけたクローゼットを眺め、ため息交じりに呟く。


「言えば、新しいものを持ってくるぞ。今、応援の召使いを呼んで――」


 堀田が振り返った時だった。


 桜谷は、クローゼットへしまう予定だった衣服をベッドの上へ並べていた。


 その中には、下着も混じっている。


 赤や黒を基調とした、かなり派手なものまであった。


「っ……」


 堀田は反射的に顔を逸らす。


 その露骨な仕草を見ても、桜谷は動じることなく下着を丁寧に畳んでいた。


「安心して。全部新品よ」


「そういう問題じゃねえだろ……!」


「ここでは、欲しいものを何でも手配してくれるのね」


「……そうか。お前も……」


「何よ、その言い終え方」


 桜谷は赤い下着を畳みながら、淡々と続けた。


「それより、君野くんは奪還できそうなの?」


「……!」


 その言葉に、堀田は我に返った。


 この2人を呼んだのは、まだ自分が正気だった頃だ。


 夢の中で貴聞きぶんに追い詰められ、1人ではどうにもならないと思ったから、助けを求めた。


 ならば、呼び出した自分が落とし前をつけるのが筋だ。


「あのな、桜谷」


「何?」


「呼んでおいて悪いんだが、もう大丈夫だ」


 堀田は言葉を選びながら続ける。


「その……何ていうか、俺の勘違いだったんだ」


「ふうん」


「悪いな。白黒しろくろの恋人だなんて嘘までついて、ここまで来てもらったのに」


 桜谷は返事をしない。


「滞在している間は、精いっぱいもてなすから。それで――」


「ねえ、見て」


 桜谷は、先ほど畳んでいた赤い下着を持ち上げた。


「君野くん、こういうの好きだと思う?」


「はあ!?」


 人の話など聞いていなかったように、派手な下着を目の前へ掲げてくる。


 昔から変わらない突飛な行動に、堀田は顔を真っ赤にして目を逸らした。


「へえ。堀田くんも、派手なほうが好きなのね」


「違うわ!!お前がそういうことするからだろ!!」


 思わず声を荒らげる。


「中学の頃は、もっと……何ていうか、そういうところは大人しかっただろ!」


「何を言ってるの?」


 桜谷は呆れたように目を細めた。


「私、もう大人の女よ」


 赤い下着をベッドへ戻し、ゆっくりと立ち上がる。


「それとも、まだ眼鏡をかけて、1つ結びの3つ編みにしていた少女のほうがいい?」


「なっ……」


 桜谷が、まっすぐ堀田へ歩み寄ってくる。


 舞台女優をしているからなのか、中学時代にあった獰猛さは薄れ、今はただ色気のある大人の女性に見えた。


 無理無理無理無理!!


 堀田は、その気まずさに耐えきれず俯く。


 すると桜谷は挑発するように、長い髪を束ねていたヘアゴムを外した。


 さらりと解けた黒髪が肩から背中へ流れ落ちる。


 同時に、上品で甘いフローラルの香りが、クローゼットから漂うカビ臭さを塗り替えた。


 女性特有の、顔を埋めたくなるような柔らかな香り。


 恥ずかしい……!!


 今は、その感情しか頭になかった。


 だが桜谷は、狼狽する堀田へ中学時代と変わらない冷ややかな目を向けた。


「同窓会をしているつもりはないわ」


「……え?」


「あなたが君野くんを奪わないなら、私が奪う」


 先ほどまでの艶を消し、桜谷は淡々と言い切った。


「そもそも、白黒くんの助けなんてなくても、私は単独でここへ乗り込むつもりだった」


「単独って……あいつと話を合わせて来たんじゃないのか?」


「違うわ」


「じゃあ、何のコネもないのに、どうやって入るつもりだったんだよ」


「どうとでもなるでしょう」


 桜谷は意味深に微笑み、ベッドの上に並べられた下着へ指先を触れた。


「あの御曹司くんを何とかするなら、白黒くんみたいに上を押さえる方法だって、私にはあるもの」


「おい!」


 その仕草から連想した不埒な手段に、堀田の羞恥は一瞬で吹き飛んだ。


 代わりに、いつもの瞬間湯沸かし器のような怒りが沸騰する。


「そんなこと、絶対にやめろ!馬鹿な真似すんな!!」


「馬鹿?」


 桜谷の目が、さらに冷たく細められた。


「あなた、自分がどんな格好をしているのかわかって言ってる?」


「……」


「変態言いなり召使いに落ちぶれたあなたに、そんなことを言われる筋合いはないわ」


「っ……!」


 変態……!


 昔も、桜谷からよくそう呼ばれていた。


 懐かしい――。


 いや、そうじゃない。


 その一言が、今の自分の異常さを容赦なく突きつけてきた。


 召使い服。


 高級時計。


 外せないリング。


 命じられれば身体が動き、首元へ何度口づけられても抵抗できない。


 堀田は、自分の姿へ目を落とした。


 桜谷はさらに、中学時代を思わせる鋭い口調で続ける。


「私は、あなたみたいに生半可な気持ちでここへ来たんじゃない」


「……」


「君野くんは、私の希望の光なの」


 その声には、少しの迷いもなかった。


「彼がピンチなら、どうなってもいいから助けに行く。それだけの道理が、私にはある」


 桜谷は堀田を真っ直ぐ見据える。


「今の腑抜けたあなたとは、覚悟が違うのよ」


「吉郎は……ピンチなのか?」


 堀田の声から、先ほどまでの勢いが消えた。


「一番そばにいるくせに、そんなこともわからないの?」


 桜谷は容赦なく言葉を重ねる。


「何を怖がっているのかは知らない」


 堀田の首元へ、冷たい視線を落とした。


「でも、あなたが奪わないなら、私がさっさと行く」


「……」


「爪がなくなるまで、そこで指でも咥えていれば?」


 桜谷は踵を返し、再びベッドへ腰を下ろした。


「それで、とっととクローゼットを直しなさいよ」


「……」


 正面から真水を浴びせられたような衝撃に、堀田の目が大きく開く。


 吉郎は今、助けを求めているのか。


 言葉にできないまま。


 幸せそうに笑いながら。


 本当は、誰かに気づいてほしいと思っているのか。


 ――じゃあ、僕の味方じゃないの?


 ――僕と吉郎の幸せを、一緒に願っているんでしょう?


 貴聞の甘い声が、再び頭の奥へ蘇る。


 桜谷の冷たい言葉と、貴聞の粘りつく声。


 正反対の2つが、頭の中で何度もぶつかり合う。


「……」


 堀田は結局、何も答えられなかった。


 クローゼットから手を離し、そのまま桜谷の部屋を出る。


 はしごと、新しいクローゼットの手配。


 本来なら、ほかの召使いを呼ばなければならない。


 だが、そんなことすら頭から抜け落ちていた。


 長い廊下を、とぼとぼと歩く。


 貴聞は、吉郎が幸せだと言った。


 桜谷は、吉郎が助けを求めていると言った。


 どちらが正しいのか。


 自分は、何を信じればいいのか。


 答えを出せないまま、堀田は1人、重い足取りで倉庫へ辿り着いた。



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