第33話「ホワイトチョコレートケーキ」
ランチを終えると、桜谷ときいろは、昨夜から滞在している客室へ移動することになった。
8月に入ったばかりで、貴聞の学校もまだ夏休み中だ。
本来なら、目を覚ましたばかりの吉郎を連れ、どこかへ出かけるつもりだった。
それなのに今は、招かれざる2人の背中を追って、屋敷の廊下を歩いている。
父がなぜ、彼らをこれほど厚遇するのか。
食堂で言葉を交わしても、その理由は結局わからなかった。
だが、この2人は自分の客であると同時に、父が認めた白戸家の賓客でもある。
無下には扱えない。
貴聞は前を歩く2人の背中へ、聞こえないよう小さくため息をついた。
向かっているのは、貴聞の部屋から少し離れた、入口側の斜向かいにある客室だった。
2人の部屋は隣り合っている。
その配置まで、父が自ら決めたものだ。
やがて2人が、それぞれの部屋へ入ろうとした時だった。
「きゃっ……!」
桜谷は思わず声を漏らした。
だが次の瞬間には表情を整え、
「……びっくりした」
と、何事もなかったように笑った。
桜谷が胸元へ手を添え、小さく呟く。
その反応を見た貴聞の右の口角が、わずかに持ち上がった。
「吉郎、可愛いでしょう。ねえ、おいで」
貴聞が手招きする。
すると君野は、左右を見て、天井を見上げ、最後に床へ目を落とした。
ほかに誰もいないと確認してから、自分の胸元を指差す。
「僕?」
貴聞が1度頷くと、君野はぱっと無邪気な笑顔を浮かべ、小走りでこちらへやってきた。
相変わらずの天然ぶりに、張り詰めていた廊下の空気が一瞬だけ緩む。
「今日も可愛いね、吉郎」
貴聞は近づいてきた君野の腰へ手を回し、そのまま顔を寄せた。
誰が見ても恋人同士だとわかる距離。
目の前の2人へ、見せつける意図を隠そうともしなかった。
「ふん。そんな服を着せられて、セレブのおもちゃみたいな犬だな」
きいろが鼻で笑う。
君野は怖じ気づくこともなく、20センチ以上背の高い彼を見上げた。
「それって、この服が可愛いって意味でいいの?」
身体を左右へ揺らし、白いワンピースの裾をひらひらさせる。
きいろが答えるより先に、貴聞がその会話へ割り込んだ。
「吉郎、ご挨拶して。大切なお客様だから。これからしばらく、この屋敷で暮らすんだって」
「そうなの?」
君野は慌てて姿勢を正した。
「あ、あの、初めまして。こんにちは。僕は君野吉郎です。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げ、2人へ屈託のない笑顔を向ける。
貴聞はその姿を横目に、わざとらしい苦笑を浮かべた。
やれやれとでも言うように、両手を軽く広げて肩をすくめる。
「ああ、すみません。今の吉郎は、僕のことしかわからないみたいです」
桜谷ときいろの反応を確かめながら、穏やかに続ける。
「過去に受けた呪いのキスで、あなた方の存在も消えてしまったと、堀田から聞きました」
「ふん。だいぶお喋りだな」
「せっかく様子を見に来てあげたのにねえ」
きいろと桜谷は、長年連れ添った熟年夫婦のように目を合わせた。
言葉にしなくても、互いの考えていることがわかっているような視線だった。
すると君野は、取材を始めるインタビュアーのように、2人へ一歩身を乗り出した。
「あの、お名前は?教えてください!」
「私は桜谷瑠璃子。よろしくね」
「白黒きいろだ」
きいろはわずかに目を細める。
「このやり取りも、久しぶりだな」
「……あれ?なんか聞いたことがあるかも……」
「卒業アルバムをめくれば、私たちは載っているわよ」
「あ!そういう懐かしさ!」
君野は納得したように何度も頷き、嬉しそうに笑う。
その笑顔が自分以外へ向けられた瞬間、隣の貴聞の胸に黒い嫉妬が渦巻いた。
腰へ回していた腕を上へ滑らせ、そのまま首筋へ絡める。
「吉郎。今は僕だけを見ているんだよ」
「うん!大好きなのは貴聞くんだけだもん!」
何の曇りもない返事だった。
貴聞は満足そうに目を細める。
「君の無垢な白は、僕がいるから輝けるんだ。僕も、吉郎が天使だからこそ、より美しく、気高くいられる」
白い頬へ指先を添え、甘く囁く。
「黒と白のコントラストなんだよ」
「黒と白?」
君野は少し考えるように首を傾げた。
「僕ね、ホワイトチョコレートと黒いスポンジのケーキも意外と好きだよ」
「そうだね」
貴聞は嬉しそうに微笑む。
「吉郎は真っ白なクリームなんだ。僕という黒いスポンジに包まれて、その白が少しずつ染み込んでいく」
「染み込むの?」
「うん。そうすれば僕も吉郎も、もっと美しくて、美味しくなる」
そう言って、貴聞は君野の頬へキスをした。
あまりにも堂々とした、ロマンスに満ちた見せつけ方だった。
桜谷ときいろは、背中の電池を突然抜かれたように動きを止める。
何とも言えない顔で、目の前の2人を見つめていた。
だが、貴聞が君野を見せつけたのは、ただの嫉妬からではなかった。
夢の中で、両手にハムスター姿の堀田を乗せた吉郎へ、貴聞は口づけをした。
すると吉郎は、再び現実へ戻ってきた。
だが、堀田のことはもう「召使いさん」と呼ぶようになっていた。
まるで、恋人だった堀田という存在が、ハムスターの姿とともに夢の中へ封じ込められてしまったように。
一方で、夢の中で自分へ口づけた貴聞だけは覚えていた。
眠り姫から目覚めた今の吉郎は、再び貴聞だけを真っ直ぐに見ている。
以前のように1日中べったりと甘えてくるほどではない。
それでも、その兆候は確かに戻り始めていた。
堀田は心が折れてしまったのだろうか。
あれ以来、ただ白戸家の召使いとして、この屋敷で働き続けているだけだった。
桜谷と白黒きいろは、平静を装っている。
だが、吉郎の持つ吸引力を間近で浴び続ければ、いつまでその顔を保てるだろう。
堀田が夢の中で精神的に屈したように、先に2人の心を揺らせばいい。
そして、もし同じ夢へ入り込んできたなら――。
小動物へ変え、狭いケージへ閉じ込めてしまえばいい。
そうすれば、僕は嫉妬しなくて済む。
吉郎がいつ思い出しても、彼らはハムスターのままだ。
3匹のいるケージを眺めながら、僕と吉郎は愛し合う。
――それが、僕の理想の結末。
貴聞は素早く考えを巡らせながら、牽制するように君野を抱きしめた。
しかし、きいろは少しも動揺を見せない。
パンツのポケットへ片手を入れたまま、貴聞を見る目だけが一瞬鋭くなった。
廊下の空気が変わる。
「……絵はどこだ」
「何の話ですか?」
「お前が買った、俺の絵だ」
きいろは淡々と続けた。
「美術館で買っただろ」
「美術館……?」
貴聞が首を傾げる。
すると、君野の顔がぱっと明るくなった。
「あ!僕の部屋にあるよ!絵!」
きいろはそれ以上何も言わず、先ほど君野が顔を覗かせていた部屋へ向かった。
「あ、待って!」
君野がその背中を追い、桜谷もゆっくりと続く。
貴聞も、わずかな違和感を抱えながら後を追った。
4人が部屋へ入ると、きいろは中を見回した。
やがて、入口からすぐ左側の壁で視線を止める。
立派な金色の額縁。
その中に収められていた絵を見つけると、きいろは小さく鼻を鳴らした。
「ちゃんと飾ってあるじゃねえか。立派な金縁に入れて」
「……!」
貴聞の思考が、一瞬止まった。
この絵を描いたのは――白黒きいろ。
その事実が、今になって初めて結びつく。
きいろは絵から視線を外し、静かに貴聞を振り返った。
低い声が、逃げ道を塞ぐように部屋へ響く。
「お前の話を聞いて、だいたい読めた」
「何を……」
「この絵、君野のために買ったんだろ」
きいろは金縁へ指先で軽く触れた。
「自分が絵を理解できる人間だって、見せたかった」
「……」
「でも本当は、絵にも作者にも興味がない。だから、俺のことすら覚えてなかった」
貴聞の喉が、かすかに鳴った。
「違います。匿名で買ったはずです」
「あのな、坊っちゃん」
きいろは呆れたように目を細める。
「詰めが甘い」
その短い一言が、貴聞の胸へ深く刺さった。
「自分で美術館へ来て、学芸員の前で絵を買った。そんなもん、噂を流してくれって言ってるようなもんだ」
「……噂?」
「アンタのおかげで、今の俺は『白戸家に見出された新進気鋭の画家』らしい」
きいろは面倒そうに吐き捨てる。
「雑誌も、メディアも勝手に騒いでる」
「そんな話、聞いてない……!」
「聞いてないんじゃない」
きいろは貴聞を真っ直ぐ見た。
「興味がなかっただけだ」
「実際、息子の審美眼へ便乗したお前の父親が、俺の絵へ投資を始めている」
きいろは淡々と言った。
「わかるだろ。この異常な事態」
貴聞は言葉を失う。
「俺は、その礼を言いに来たんだ」
きいろはゆっくりと貴聞を見る。
「俺を見出した、お前と、お前の父親にな」
「……そうか。だから来賓……!」
ようやく、すべてが繋がった。
父が何も教えなかった理由も。
自分で確かめろと言った意味も。
白戸家へ滞在させた理由も。
「難しい話だなあ」
君野が頬を膨らませながら呟く。
その声すら、今の貴聞には遠く聞こえた。
自分が軽い気持ちでした行動が、巡り巡ってこんな形で返ってくるとは思ってもいなかった。
胸の奥が、大きく揺らぐ。
すると、きいろは絶望を隠せない貴聞へ近づいた。
右手をぽんと頭へ乗せる。
「お前、本当に面白いやつだな」
そのまま髪をくしゃくしゃと撫で回した。
「気に入った」
まるでクリームでも塗り広げるように、髪型が崩れるほど遠慮なく撫で続ける。
そして、とびきり嫌味な笑顔を向けた。
その様子を見ていた桜谷も、小さく肩を震わせる。
「ふふ」
艶っぽく笑う。
「私は名義上では彼の彼女なの」
「え!?白黒さんと付き合ってるの?」
君野が目を丸くする。
桜谷は笑ったまま首を横へ振った。
「いいえ。本当じゃないわ」
「私はついで。ここで少し贅沢したいだけ」
「そうなんだ!」
君野は嬉しそうに頷く。
「ここ、ご飯がすごく美味しいよ!鈴木料理長のビーフシチューとか、桜谷さん好きだと思う!」
「君野」
きいろが短く呼ぶ。
「俺のことは、きいろ君って呼べ」
「うん!わかった!きいろ君!」
「吉郎!」
貴聞の声が廊下へ鋭く響いた。
和んでいた空気が、一瞬で止まる。
貴聞は君野を自分のほうへ引き寄せると、その身体をぎゅっと抱き締めた。
まるで、大切なものを奪われまいとするように。
胸の奥で、何度も自分へ言い聞かせる。
――だから何だ。
――吉郎が好きなのは、今も僕だ。
その一瞬の動揺を、きいろは見逃さなかった。
「おいおい、坊っちゃん」
口元だけを少し緩める。
「俺は喧嘩をしに来たわけじゃない」
「仲良くなりたくて来たんだ」
「そんな警戒するな」
きいろは右手を差し出した。
「俺のこと、呼び捨てでもいい」
「なんせ、お前は俺のパトロンなんだからな」
桜谷も微笑みながら右手を差し出す。
「そうよ」
「私のことも桜谷さんでも瑠璃子でも、好きに呼んでいいわ」
「これから仲良くしましょう」
2人の差し出した右手を見つめる。
貴聞の背中へ、冷たい汗がゆっくりと流れ落ちた。
自分が優位に立っていると思っていた。
違った。
最初から、自分は泳がされていたのだ。
こちらの思惑も。
動きも。
性格も。
すべて見透かされた上で。
「……はい」
貴聞は静かに頷いた。
「よろしくお願いします」
まず桜谷と。
続いて、きいろと握手を交わす。
その感触は――
まるで、二度と外せない重い鎖を、自ら両手へ巻きつけたようだった。




