第31話「SOS」
「堀田さん。目が覚めましたか?」
堀田が目を覚まして10分後。
夢の中で自分をハムスターへ変えた男が、何食わぬ顔で君野の部屋へ入ってきた。
貴聞は眠り続ける君野のそばへ歩み寄ると、上半身をかがめ、その額を優しく撫でる。
「おい、貴聞!夢の中で俺をハムスターにしたって言ったよな!どういうつもりだよ!」
「……ああ。試してみたかったんです。あの夢の世界が、どんな原理で動いているのか」
「はあ!?わかってて、俺にあんな屈辱を味わわせたのか!?」
堀田の興奮は収まらない。
わけのわからない奇行を繰り返す御曹司に無様に持ち上げられ、狭いケージへ閉じ込められたのだ。
「いや、どうにかできないかと、色々試してはいたんですけどね」
「試すって、目覚まし時計でも拡声器でも持ち込むつもりか?」
「それができれば簡単なんですけどね。夢の中へ、意図した物を持ち込むのは難しいようです。ただ――」
「うわっ!?」
突然、貴聞が顔を近づけた。
夢の中で見た巨大な目が蘇り、堀田の心臓が大きく跳ねる。
こいつは天敵だ……!
露骨に身体を引いた堀田へ、貴聞は穏やかな笑みを向けた。
「等々元でも試してみたんですが、あの世界では、入った人間同士の精神力によって、姿や力関係が変化するようです」
「等々元さんでも試すなよ!」
貴聞の口角が、いやらしく持ち上がる。
父親譲りの鋭い目で堀田を見つめたまま、じりじりと距離を詰めてきた。
「っ……!」
堀田は後ろへ下がる。
だが、すぐ背後にはベッドの側面。
気づけば、逃げ場を失っていた。
袋小路へ追い込まれたネズミだ。
俺が、まだ制服を着ているようなガキに……!?
ケージ越しに見た巨大な貴聞の姿が、脳裏へ鮮明に蘇る。
こいつ、わかってやってやがる……!
「あの夢の世界には、いろいろな願いを詰め込めると思いませんか?」
「2度と見たくねえよ、あんなの!」
「僕が皆を理想の姿へ変えられるんです。まるで、御伽話の王子様みたいでしょう?」
「俺がいつ、ハムスターになりたいって言ったんだ!」
「本当は思っているんじゃないですか?僕に飼育されるハムスターになりたいって」
「もうやめろって!!」
恋人へ触れるように顎を持ち上げられ、堀田は反射的に貴聞を突き飛ばした。
貴聞はそのまま床へ尻餅をつく。
「また夢の中で俺をハムスターにして、その隙に吉郎を独占するつもりだろ!わかってんだよ!」
「ケージの中にいれば安全です」
「は?」
「それに、堀田さんは知らないだけなんですよ。ずっと必死に、誰かを守る側だったから」
貴聞は床へ座ったまま、静かに堀田を見上げる。
「あんなに美味しい焼きおにぎりを作れる人です。ハムスターになったのも、僕の願望だけではないのかもしれません」
「何が言いたい」
「あれは、堀田さんの優しさと孤独が、夢の中で形になった姿なんじゃないですか?」
貴聞はゆっくり立ち上がると、乱れた黒いスーツを優雅に整えた。
「大丈夫。僕は優しいですよ」
エレガントゾンビ……!
駄目だ。呑まれるな。
これもあいつの策略だ……!
堀田は全身へ力を込めた。
俺は空手で精神を鍛えた男だ。
瓦や木板より簡単に折れそうな、あんなナナフシ野郎に負けるわけが――。
「ふふ」
貴聞は、堀田の必死な警戒を怖がるどころか、楽しそうに笑っている。
もはやストーカーだ。
気味が悪い……!
堀田はついに限界を迎え、逃げるように部屋を飛び出した。
「はあ……はあ……」
行き着いた先はトイレだった。
洗面台へ両手をつき、深く項垂れる。
止まらない心臓を落ち着かせようと、足元へ並ぶ無機質なタイルを1枚ずつ数えた。
「くそ……」
俺は、あんなガキを怖がってんのか。
情けない……!
だが、もし今夜も夢の中でハムスターにされたら?
「だああああ!!!」
完全に支配されてるじゃねえか……!
吉郎を守るんだ。
俺がいなきゃ、誰があいつを守るんだよ!
堀田は額を洗面台へ打ちつけた。
消せ。
ケージ越しに見たあの巨大な目も。
首元へ触れた唇の感触も――。
「くそおおおおお!!!」
「やめろ、ホッタ!」
「!」
突然、足へ何かがしがみついた。
見下ろすと、貴聞の弟・見聞が、堀田の脚を強く抱えていた。
「見聞……!」
堀田は思わず、すがるように見聞を抱きしめた。
もはや「様」をつけるような健全な主従関係は、とっくに脱している。
「無礼者!抱きつくな!なんでそんなに頭をぶつけてるんだ!血迷ったか!」
言葉だけは厳しい鬼軍曹。
だが、誰よりも可愛いことを、堀田は知っていた。
見聞はぶすくれた顔のまま、右手を差し出す。
「何だ?」
「薬だ!」
その手のひらには、剥き出しの白い錠剤が2つ乗っていた。
「これ、何の薬だ?」
「大人は2錠!常識!」
「どこに効くって書いてあった?」
「知らん!薬は大抵どこにでも効く!」
「……ありがとな」
不器用な気遣いに、堀田は見聞の頭を撫でた。
見聞は誇らしげに両手を腰へ当てる。
堀田は手のひらへ張りついた2錠を受け取り、そのまま水もなしに飲み込んだ。
たぶん風邪薬だろう……。
「頭が痛い時は薬がいいぞ。それ、俺の鳥も飲んでる」
鳥用の薬じゃねえか。
一瞬青ざめたが、堀田は何も言わず、見聞の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「そうだな。賢くて偉いな、見聞サマは。だから、もう1回ぎゅってしてやる!」
「やめろ!無礼者!」
迷惑そうに暴れる見聞を、堀田は愛おしそうに抱きしめる。
混乱しきっていた心が、ほんの少しだけ落ち着いていった。
その夜。
堀田はくたくたに疲れ切り、召使い寮の自室へ戻った。
時刻は午後10時30分。
明日は朝6時から仕事が始まる。
「晩飯……もういいか」
このまま眠ってしまおう。
靴を脱ぎ、隣に置かれたプラスチック製の靴棚へ収めようと屈んだ時、顎へ冷たいものが触れた。
「あ!俺のリング……!」
貴聞に掛けられたまま、1日中仕事をしていたのだ。
「今頃気づくなんて……」
それほど精神的に追い詰められていたのかと、改めて思い知らされる。
堀田はベッドへ座る前に外してしまおうと、首の後ろへ手を伸ばした。
「……ん?」
外れない。
「ん?んん?」
何度指先で探っても、留め具が動く気配はなかった。
慌てて壁際の姿見を覗き込み、首の後ろを映す。
「はあ?」
フックの可動部分が細い鎖でがんじがらめにされ、完全に動かなくなっていた。
さらに透明な樹脂のようなもので固められ、明らかに意図して外せないよう加工されている。
「おいおい……嘘だろ」
いつの間に、こんなことをしやがった。
好き勝手にも程がある。
いや。
この怒りを使うんだ。
俺は怖がっているわけじゃない。
今の怒りを保ったまま眠れば、夢の中でも対抗できるはずだ。
堀田は簡素なベッドへ仰向けになり、両手を後頭部の下へ組んだ。
「一矢報いてやる……。吉郎、待ってろよ……!」
俺がしっかりしなければ、誰があいつを守るんだ。
そう強く念じているうちに、重労働で疲れ切ったまぶたが徐々に落ちていく。
意識は、そのまま暗闇の底へ沈んでいった。
「ん……」
再び目を開けると、辺りは真っ暗だった。
「あ……無限回廊か?」
相変わらず、何も見えない。
それでも、前回と同じケージの中ではなさそうだ。
堀田はひとまず安堵し、右側へ寄って壁を探した。
「あった。壁だ」
指先へ伝わったのは、滑らかな木の感触だった。
少なくとも、銀色の鉄柵ではない。
「吉郎!!!いるんだろ!!」
堀田は暗闇へ向かって、ありったけの声を張り上げた。
「2人で、あのアパートへ帰ろう!!お前の変な……独特の焼きそばが、また食べたい!!」
だが、何も返ってこない。
叫び声だけが闇の中へ吸い込まれていく。
心細さごと、黒い空間へ呑み込まれそうだった。
「吉郎!?来たのか!?なあ、一緒に――」
その瞬間、部屋の明かりがついた。
「んなっ!?」
突然降り注いだ光に目を細める。
そして、目の前の光景を理解した瞬間、堀田は絶望した。
視界いっぱいに、ハムスターの身体では到底越えられない鉄柵が広がっている。
その向こうには、部屋の照明をつけた貴聞が立っていた。
こちらを見るなり、その口元が一瞬だけ歪む。
まるで、堀田がハムスターとして目覚めるまで、この暗い部屋でじっと待っていたかのようだった。
「嘘だろ……」
先ほど壁だと思って触れていたものは、木製の巣箱だった。
まただ。
また俺は、ハムスターにされている。
貴聞はケージの置かれた棚へ両腕を乗せ、その上へ頬杖をついた。
堀田の小さな胸が、激しく脈打った。
「堀田さん。もう僕のペットですね」
「また俺をハムスターにしろって願ったのか!?」
「いいえ」
貴聞は穏やかに微笑み、ゆっくりと首を振った。
「その姿になったのは、堀田さん自身の願望です」
「はあ!?」
「やっぱり僕に愛されたかったんですね」
「そんなわけあるか!」
貴聞はケージの扉を開け、中へ巨大な手を伸ばした。
「おい!やめろ!」
堀田は慌てて巣箱へ逃げ込む。
だが、そこは袋小路だった。
「出てきてください。怖くありませんから」
巣箱ごと持ち上げられる。
必死に短い爪を引っ掛けようとしたが、抵抗もむなしく、そのまま外へ放り出された。
堀田の身体は、貴聞の手のひらへころりと転がり落ちる。
「捕まえました」
「離せ!」
両手で優しく包まれ、完全に逃げ場を失った。
目の前には、巨大な貴聞の顔。
長いまつげも、くっきりとした瞳も、息をするたびに流れてくる風も、すべてが恐ろしいほど大きい。
「大丈夫ですよ。怖くありませんから」
「そのまま便所へ流したりすんなよ……!」
「そんなことしません」
貴聞は愛おしそうに目を細めた。
「堀田さんは、もう僕のものですから」
「誰がお前のものだ!」
「だから、あなたの孤独も僕が愛します」
巨大な唇が、ゆっくりと迫ってくる。
堀田は短い手足を必死にばたつかせた。
だが、その抵抗を嘲笑うかのように、柔らかな唇が毛に覆われた頬へ触れる。
「ひっ……!」
全身の毛が逆立った。
「頼む、俺!!早く目覚めてくれ……!!」
吉郎……!
俺、もう無理かもしれない……!
堀田が情けなくチュイチュイと悲鳴を上げていた、その時だった。
「……!」
貴聞が、開いた扉の方へ目を向け、息を呑んだ。
「……吉郎」
その声から、先ほどまでの余裕が一瞬で消える。
堀田も巨大な指の隙間から、必死に扉へ顔を向けた。
そこには、白いワンピース姿の君野が立っていた。
「吉郎!」
貴聞は堀田の存在を忘れたように、両腕を大きく広げる。
その隙に、堀田は素早く指先から腕へ飛び移った。
短い足で必死に駆け上がり、そのまま貴聞の肩へしがみつく。
貴聞は、近づいてきた君野を強く抱きしめた。
君野の頬が、貴聞の肩へ触れる。
ハムスター姿の堀田も、その間へ必死に丸い身体を押し込んだ。
奇妙な3人の抱擁。
だが、君野の表情は少しも動かなかった。
嬉しそうでも、安心したようにも見えない。
ただ、何かを探すような空っぽの瞳で、暗闇を見つめている。
やがて、その唇がゆっくりと開いた。
「あのね……僕、ずっと人を探してるの……」
「吉郎。やっと、僕の前に現れてくれたね…」
その言葉に、貴聞は静かに抱擁を解いた。
肩の上にいる堀田も、息を呑む。
「それは僕だよ」
貴聞は縋るような笑みを浮かべ、君野の顔を覗き込んだ。
君野はしばらく考えるように瞬きをする。
そして、静かに首を傾げた。
「……わかんない」
貴聞の笑顔が、わずかに固まる。
呪いのキスで消えてしまった日々。
あの幸せだった日々も。
僕だけを愛してくれた、あの破滅的なまでに愛しい君も。
もう、どこにもいない。
そう理解した瞬間、目元が赤く染まり、鼻の奥がつんと痛んだ。
「どうして泣いてるの?」
「ごめんね……」
貴聞は涙を拭い、無理やり笑みを作る。
「吉郎と過ごした日々が、あまりにも美しかったから。でも、大丈夫。今度は僕が役目を果たす番だから」
「は?」
肩の上で、堀田が聞き捨てならないと声を上げた。
「消えてしまうなら、毎日また初恋をすればいい」
貴聞は真っすぐ君野を見つめる。
「君の好きなものも、欲しいものも、僕は全部知ってる。だから、これからも絶対に幸せにしてあげられる」
「……そうなのかな。本当に、そうだったのかな……」
「俺だ!!なあ、俺だよな!?吉郎が探してるのは俺だろ!!?」
堀田は肩の上で必死に叫ぶ。
だが、君野は不思議そうに見つめるだけだった。
「ああ、ごめんね、吉郎」
貴聞は優しく笑う。
「これは僕のペットなんだ。威勢よく鳴くハムスターでさ。ほら、持ってみて」
そう言って、堀田を君野の手のひらへ乗せた。
柔らかな両手に包まれた瞬間、堀田の表情が思わず緩む。
だが、君野は不思議そうに見つめるだけだった。
「吉郎!!聞こえないのか!?堀田だ!!堀田友樹だ!! 中学で出会った、お前の恋人だ!!」
「……本当だ」
君野は小さく笑う。
「よく鳴く、元気な子だね」
「何ぃ!?」
俺の声が、聞こえていない。
身振り手振りで必死に訴えても、君野はにこやかに笑うだけだった。
貴聞は不意に、ハムスター姿の堀田の背中を人差し指で撫でる。
丸い身体がびくりと跳ねた。
「ねえ、吉郎。この子を2人で育てよう」
「……あなたは、僕が探している人?」
その言葉に、貴聞は穏やかに微笑む。
「まだ心がざわざわしてる?僕が怖い?」
「怖くはないけど……」
君野は胸元へ手を添えた。
「上手く言えない…」
「そっか」
貴聞はその言葉を受け止めるように、ゆっくり頷く。
「このハムスター、とても親切なんだよ。焼きおにぎりを作ってくれたり、僕を守ってくれたりするんだ」
「……ハムスターが?」
「あはは。ごめん。今日見た夢の話」
取り繕うように笑う貴聞へ、君野もつられて小さく笑った。
その眼差しは、腕の中のハムスターにも優しく向けられる。
その間にも、貴聞は君野の顎へそっと指を添え、ゆっくりと顔を近づけていく。
「これで、誰を探していたのか、きっと思い出せるよ」
甘く囁く。
ハムスターを両手へ乗せたままの君野へ、貴聞の唇が静かに近づいていく。
「やめろおおおおおおお!!!!」
堀田が全力で叫んだ、その瞬間――。
「はあっ!!」
身体がばねのように跳ね起きた。
「はあ……はあ……」
目の前にあったのは、いつもの狭い召使い部屋だった。
「悪夢だ……!!!」
背中も首筋も、異常なほど汗で濡れている。
心臓は口から飛び出しそうなほど鳴り、息をするたび吐き気が込み上げた。
「はあ……落ち着け、俺……」
両手で顔を覆う。
喉が張りつき、気持ち悪い。
堀田は水を求めるように部屋を飛び出した。
真っ暗で冷たい廊下を、ふらふらと歩く。
共同キッチンへ向かっているはずなのに、足元も頭もおぼつかない。
完敗だ。
大惨敗だ……!
「吉郎……俺の吉郎……」
節電のため、まばらに灯る蛍光灯。
その光景が、あの無限回廊を思わせた。
夢の続きを歩いているように、堀田は長い廊下をさまよう。
俺は、どうしたらいい?
気づけば、ロの字型の廊下を1周し、自分の部屋へ戻ってきていた。
「……っ!」
堀田は飛びつくようにバッグを漁る。
「頼む……助けてくれ……!俺はもう限界だ……!」
電源を切っていたスマホを取り出す。
探すのは、かつての恋敵であり、呪いのキスを知ってる仲間たちの連絡先だった。
学生時代、流れで交換した番号が今も生きているなら――。
堀田は歯を食いしばり、短い文章を打ち込む。
『SOS!君野吉郎、最大のピンチ!すぐに集結せよ!!!』
それから1週間後。
夜の白戸家。
砦のようにそびえる屋敷の門前へ、2つの人影が現れた。
夜風が、2人の髪と衣服を静かに揺らしていく。
長い沈黙のあと、そのうちの1人が、不気味にそびえ立つ屋敷を見上げて口を開いた。




