第30話「焼きおにぎり」
あれから1週間後。
君野は、まだ眠り続けていた。
相変わらず、呼びかければ夢遊病のような状態のまま食事をしたり、トイレへ行ったりはできる。
だが、誰も声をかけなければ、いつまでも眠ったままだった。
動物たちへの影響も考慮されているのか、今のところ、屋敷から追い出せという命令は下されていない。
ただ、何も起こらないまま、時間だけが過ぎていく。
堀田と貴聞も火花を散らすことはなく、ここ最近は休戦状態にあった。
自室のベッドで眠る君野。
その枕元では貴聞が体育座りをし、足元では召使い姿の堀田があぐらをかいている。
「……そうなんですね。堀田さんは、中学生の頃に吉郎を好きになったんですね」
堀田の話を聞きながら、貴聞は立てた膝を抱え、上目遣いに見つめていた。
「ああ。いじめられてたあいつを助けたのがきっかけでな。学生時代は、こんなふうに変な奴らから好かれるたび、そいつらと吉郎の取り合いをしてた」
「では、吉郎も幸せ者ですね。呪いのキスに耐えながら、堀田さんがずっとそばで支えていたのなら」
「ああ。でも、つらいだろ。どれだけ愛していても、結局は俺だけのおとぎ話になるんだ」
堀田は眠る君野へ目を向けた。
「あいつにはもう、俺と過ごした学生時代の記憶すらない。それでも耐えられるのは、俺だけだ」
「堀田さんは、本当に強い人ですね……」
穏やかな笑顔を向ける貴聞に、堀田もひとまず安心した。
少しやつれていたその顔も、堀田が「いいから飯を食え」と何度も言い続けたおかげで、いつもの健康的な美少年らしさを取り戻している。
「堀田さんの焼きおにぎり、美味しいですね。いつも吉郎に作ってあげていたんですか?」
「ああ。あんな庶民的なもん、食ったことなかっただろ。もう俺の焼きおにぎりの虜だな!」
そんな調子で、2人の会話は終始穏やかに続いていた。
すると貴聞は、少しだけ声を低くした。
「堀田さん。もう1度、2人で吉郎にキスしてみましょう」
「……」
「そうすれば、あの真っ暗な無限回廊の夢へ入れるかもしれません」
その言葉を聞いた瞬間、堀田の胸へ嫉妬が渦巻いた。
「僕も、実はあの夢を見ていたんです」
「ああ、聞いた。だから等々元さんが、俺の夢の話へあんなに食いついてきたんだろ」
「僕の時は、堀田さんが見たという、廊下に散らばった貝殻はありませんでした。見えたのは、ベッドの上に置かれた噴水だけです。それと……」
「それと?」
「いい夢だった、という感じはしませんでした」
「わかる。悪夢に近いよな。どうして出口がないのか、なんであんなに暗いのか……」
もしかすると、吉郎の精神は深刻なほど不安定なのかもしれない。
あれほど繊細で、か弱い生き物だ。
このまま、永遠に目覚めなかったら――。
堀田は込み上げる不安を押し込むように、重く唾を飲み込んだ。
「……堀田さん。僕から1つ、提案があるんですけど」
貴聞は膝へ埋めていた顔を上げた。
深く体育座りをしていた姿勢を正し、今度はふかふかのベッドの上へ正座する。
「なんだ?」
「受け入れてくれますか、堀田さん。吉郎のためですから、もちろん聞いてくれますよね」
「はあ?はっきり言えよ」
貴聞はそれを見て不敵に笑うと、突然うつむいた。
「なんだよ……」
「僕たち、もっと心の距離を縮める必要があるのかもしれません」
顔を上げた時、そこに先ほどまでの穏やかな貴聞はいなかった。
代わりに現れたのは、どこか艶を帯びた表情。
その妖しさに、堀田の胸が一瞬だけ跳ねた。
貴聞はそのままベッドの上を移動し、君野の足元に座る堀田の隣へやってきた。
そして突然、黒いスーツの胸ポケットから、あの堀田リングを取り出す。
「あ、それ!」
驚きの声を上げた堀田へ、貴聞は抱きつくように覆いかぶさった。
おお!?
一瞬、心の声が漏れそうになる。
膝の上に置いていた両手へ、思わず力がこもった。
貴聞は堀田の両肩を挟むように膝をつき、その首元へリングのついたチェーンを掛けた。
そして耳元で笑い、甘く囁く。
「堀田さんにも似合いますね。このリング」
「やめろよ、お前……!吉郎の前で……」
召使い姿には不釣り合いな派手なリングを首から下げたまま、堀田は指先でその感触を確かめる。
「もう俺のじゃねえよ、これ。お前が魔改造したもんだろ」
すると貴聞は、堀田の首へ両腕を回したまま、さらに顔を近づけた。
挑発するように、互いの額をそっと重ねる。
今までのライバルとは違う、あまりにも特殊な牽制だった。
貴聞は堀田の耳元を伝う汗を、人差し指でゆっくりとなぞる。
その瞬間、堀田の背中へぞわりと悪寒が走った。
「言ったじゃないですか。僕、堀田さんごと愛すって」
「は?」
「だから堀田さんも、僕を愛してくれますよね」
「何言ってんだ、お前……」
「学生時代、恋のライバルたちといがみ合ってきたと言いましたよね。だったら今回は、それをやめるべきだと思いませんか」
「そりゃあ……」
「では、僕の言うことを聞けますよね」
「……ああ」
「僕の顔、見られませんか?」
「っ……」
「本当に、僕の顔が好きですよね。2人きりの時は、僕のことを『貴聞』と呼んでもいいですよ」
「やめろって言ってんだろ!」
堀田の叫び声が部屋へ響く。
しかし、こんな時でも突き飛ばせない。
真後ろには吉郎が眠っているからだ。
まさか、それすら計算しているのか?
堀田は首へ回された腕をどけることもできず、強く歯を食いしばった。
「僕専用の召使いですよね」
「お前専用ではねえよ」
そう言った瞬間、貴聞は堀田の首元で揺れるリングへ口づけた。
冷たい金属越しに唇の熱が肌へ触れ、堀田の身体がぞわりと震える。
「では、キスをしましょう」
「お前と!?」
「嫌だなあ。吉郎にですよ」
貴聞は小さく首を傾げ、にやりと笑った。
「そんなに僕としたかったんですか?」
堀田は、その顔から目を離せなくなった。
そんなことを考えていると、貴聞はようやく堀田から離れ、ベッドの上で立ち上がる。
そして先に、眠る君野の唇へキスをした。
「では、おやすみなさい。僕のベッドで、一緒にお昼寝しますか?」
「誰が寝るか!!」
「では、夢の中で」
そう言い残し、貴聞は先に部屋を出ていった。
「なんなんだよ……!!!」
堀田は昂った感情を鎮めるように、曲げた膝の上にある太ももを、右手で何度も叩いた。
「はあ……」
気を取り直し、堀田は君野の唇へ愛情を込めてキスをした。
そのまま真下の絨毯へ、大の字になって寝転がる。
首元で揺れるリングの存在を忘れたまま、天井を彩る複雑な彫刻を眺める。
やがて堀田のまぶたは重くなり、その意識はゆっくりと眠りの底へ沈んでいった。
「……はっ!!!」
堀田が目を覚ますと、辺りは真っ暗だった。
昼間の天井を眺めていたはずなのに、視界には見覚えのない暗闇が広がっている。
動揺とともに、心臓まで闇へ奪われていくような感覚に襲われた。
「あ……ここ、夢の中か……」
この暗さと冷たさ。
1人きりでアパートに暮らしていた頃を思い出す。
だが、何かがおかしい。
いつもより、天井が異様に高く感じられた。
「ん?地面が近い……?いや、広いのか?」
なんだ?
暗すぎて、何も見えない。
いつもの身体の感覚さえ掴めなかった。
直感的に、この場所は冷気が強く、広すぎる――そう思った時だった。
「堀田さん?」
「貴聞!?」
すぐ近くから声が聞こえた。
しかし、近くにいるはずなのに、その声はやけに高い位置から降ってくる。
夢の中で貴聞と同じ場所へ入るのは、これが初めてだった。
「お前、今どこにいる?なんか高い所にいないか?」
「……ふふ」
貴聞の怪しげな笑い声が、暗闇へ響く。
次の瞬間――。
「うわっ!?」
堀田の身体が、背中の肉ごと掴まれたように宙へ浮いた。
服の襟を電波塔の先端へ引っ掛けられ、足元だけが宙ぶらりんになったような感覚だった。
俺を持ち上げているのは、貴聞か?
頭上から、かすかな息遣いが降り注ぐ。
揺れる身体も、そいつの大きな歩幅に合わせて前後へ動いていた。
「なあ!これ、どうなってんだ!?お前、今巨人なのか!?」
「僕の願いが叶ったみたいですね」
「願い?何だよ、それ……!いいから1回下ろせ!」
しかし、堀田がどれだけ手足をばたつかせても、貴聞は離そうとしない。
足元には、底の見えない漆黒だけが広がっている。
貴聞がどれほど巨大なのかも、まるでわからなかった。
「お、落とすなよ!!」
「ここは僕の家です。暗くても、どこに何があるかくらいわかりますよ」
なぜか機嫌の良さそうな貴聞は、堀田をぶら下げたまま、どこかの部屋へ向かっていく。
「お前、どこに連れていく気だよ……」
やがて、貴聞は真っ暗な部屋の一角で足を止めた。
中へ入ると、何かをガシャガシャと動かす音が響く。
次の瞬間、堀田の身体が、その何かの中へ放り込まれた。
「うおっ……!」
久しぶりに地面へ降ろされた安堵から、堀田は股割りをする力士のように、ぺちゃんと尻を床へついた。
「ん? なんだ、これ……」
足元へ何かが大量に散らばっている。
紙の束。
いや、まさか札束でもぶちまけてあるのか?
そう思った時だった。
貴聞がおもむろに、部屋の明かりをつける。
突然降り注いだ光に目を細める。
そして堀田は、ようやく自分がどこへ入れられたのかを知った。
「は!?なんだこれ!?」
最初に目へ飛び込んできたのは、自分の両手だった。
人間の手ではない。
白い毛に覆われた、小さな前足。
「……は?」
恐る恐る身体へ視線を落とす。
丸く膨らんだ腹。
短い脚。
そして床へ散らばっていたものは札束などではなく、げっ歯類のケージでよく見る細かな床材だった。
顔を上げる。
透明な壁の向こうから、貴聞の巨大な顔がこちらをじっと覗き込んでいた。
「ひっ!?」
「堀田さん、可愛いですね」
貴聞は満足そうに目を細める。
「ハムスターになってしまったんですね」
「お、俺……今、ハムスター!?」
いや、これは夢だ!!
そう直感できたことだけは救いだった。
だが、目の前にいる巨大な貴聞も、同じくらい恐ろしい。
大きすぎる。
顔がケージの壁いっぱいに迫っている。
その姿だけで、ちびりそうになった。
「寝る直前、あなたのリングへキスした時に願ったんです」
貴聞は楽しそうに、ケージ越しの堀田を見下ろした。
「堀田さんが、可愛いハムスターになりますようにって」
「……なんで?」
「これが、僕のしたかった“提案”です。」
貴聞はにっこりと微笑む。
「僕の方が圧倒的に美しくて、強い。だから吉郎にふさわしい」
「はあ!?」
「あなたは、この夢の世界へ来ても僕に飼われる側なんですよ」
貴聞はケージ越しに穏やかに微笑む。
「気づきませんか?この夢、少しずつ僕の思い通りになってきているんです」
「そのうち吉郎の夢も、全部僕のものになります」
「お前のものって、何言ってんだよ!」
巨大な指先が、透明な壁越しに堀田をゆっくり追いかける。
「あなたは、この狭いケージから2度と出られません」
そう囁くと、貴聞は暗闇の奥へ視線を向け、優しく微笑んだ。
「吉郎……ほら、おいで」
「!」
「堀田さん、ここにいるよ」
「吉郎…来るな!!!」
そう叫んだ瞬間――。
堀田は目を覚ました。
「っ……はあっ!!」
ばねのように上半身を起こす。
目の前に広がっていたのは、先ほどまで眺めていた昼間の天井だった。
「……夢か……」
乱れた呼吸を整える間もなく、恐る恐る両手を持ち上げる。
白い毛も、小さな前足もない。
見慣れた人間の手だ。
「そうだよな! あんなの、夢に決まってるよな……!!」
胸いっぱいに現実の空気を吸い込み、生きている実感が一気に身体へ戻る。
「……ったく。なんて悪趣味な夢だ」
指先に触れたのは、貴聞に掛けられたリングの冷たい感触だった。
「……まさか」
リングへキスをして願った。
夢の中で、貴聞は確かにそう言っていた。
なら、あれはただの悪夢ではない。
互いの意識が、どこかで繋がっていたのかもしれない。
「何が心の距離を縮めるだ……」
リングを見つめ、堀田は奥歯を噛み締める。
苛立ちに任せてリングを外そうとしたが、その手は途中で止まった。
今は、そんなことよりも――。
すぐ隣のベッドで眠る君野へ視線を向ける。
目覚める気配はない。
静かな寝息を立て、穏やかな顔で眠り続けている。
あの悪夢のあとにその寝顔を見ると、不思議と胸の奥へ安堵が広がった。
堀田は床へ膝をつき、心に滲んだ冷や汗まで拭うように、君野の額をそっと撫でる。
「……大丈夫だ。俺がいる」
今度は、どんな夢へ迷い込んでも。
どれだけ深い場所へ閉じ込められても。
必ず見つけ出す。
そう心の中で誓った、その瞬間だった。
――ぴくり。
「……?」
君野の右手の指先が、ほんのわずかに動いた。




