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第29話「残酷な眠り姫」

 


 君野きみのがレイヴンと戯れていた頃――。


 掃除中だった召使いたちは、突如としてベテラン執事たちに追い立てられるように、屋敷の外へ出された。


 何の説明もないまま、ぞろぞろと噴水のある中庭へ移動させられていく。


 あちこちから、戸惑いの声が上がった。


「なんだなんだ。避難訓練か?」


 正面玄関の大階段で欄干を拭いていた堀田ほったも、その流れに従って中庭へ出る。


「なあなあ、堀田。これ、どう思う?」


 同じ年頃の、髪を真ん中で分けた男の召使いが話しかけてきた。


「どう思うって?」


「最近の貴聞きぶん様、様子がおかしいだろ。なんか、控えめに言って狂っちゃったっていうか」


「どこが控えめだよ。まあ……どうだかな」


「話によると、君野様と一緒にレイヴン小屋へ入り浸って、出てこないらしいぞ。ずっとベタベタくっついてるって」


 隣でマイペースに話を続ける友人をよそに、堀田は雑巾を強く握り締めた。


 中庭から見える、大きな屋敷の2階左側。


 君野の部屋がある窓を、奥歯を噛み締めながら凝視する。


 脳裏に浮かんだのは、屋敷を出される直前に見かけた、少しやつれた黒坊っちゃんの姿だった。


 きっと、他人事とは思えないことが、あの小屋で起きているのだろう。


「あんな狭い部屋にいたら、俺みたいにもなるよな……」


 俺もこうして広い場所へ出て、ようやくアパートにいた頃の自分が、どれほど異常だったかに気づいた。


 吉郎よしろうと狭い空間にいればいるほど、愛おしさに狂って、言うことを聞かなくなる。


 もし、あの閉じた環境が坊っちゃんをおかしくさせているのなら、もはやどちらが食われているのかわからない。


「……って、お人好しかよ」


 何に共感してんだ。


 素直に怒りきれない自分の性分に腹が立つ。


「なあ、聞いたか?俺たちが一斉に追い出された理由」


 少し前に集まっている召使いたちが、さらに前方の者から聞いた情報を次々と回していた。


「貴聞様が突然、君野様へ誰も近づけるなって命令したらしいぞ」


「大丈夫かよ……」


 あいつは、呪いのキスに怯えている。


 俺へしたことが、そのまま自分へ返ってくるのが怖くて仕方ないんだろう。


 これほどの家を背負っていながら、愛に溺れ、ただ壊れていく御曹司。


「ざまあみろ……って言いたいけどな……」


「何?」


「なんでもねえ」


 友人へ素っ気なく返す。


 このまま黙っていれば、吉郎は俺のもとへ戻ってくるのだろうか。


 雲の切れ間から太陽が現れ、地面へ落ちる影が濃くなっていく。


 堀田はその影へ祈るように、静かに視線を落とした。




 1時間後。


 召使いたちは再び、ぞろぞろと屋敷へ戻っていった。


 掃除が再開される頃には、貴聞もレイヴン小屋へ戻っていた。


 君野と2人きりの時間を取り戻すため、レイヴン本人は小屋の外へ出されている。


「おかえり」


 隣へ座った貴聞に吸い寄せられるように、君野は横からその首筋へ抱きついた。


 先ほどまで、誰へ向けているのかもわからない嫉妬で、鬼のような顔をしていた貴聞。


 愛する人の温もりに触れ、その表情が少しずつほぐれていく。


「……吉郎、レイヴンに触れた?」


「え?わかるの?」


「少し獣臭い。それに、服へ毛がついてる。あ、顔にも……」


「貴聞くんのスーツ、毛まみれになっちゃった」


 その言葉に、貴聞は頬を膨らませた。


 年相応のあどけない顔を、君野の肩へ乗せる。


「……ねえ、吉郎。僕さ、ヴンちゃん呼びに少し嫉妬する。僕のことも、ヴンちゃんって呼んでくれていいよ」


「ヴンちゃん!確かに貴聞くんもヴンちゃんだね!……じゃあ、ヴンヴンは?」


「それだと蜂みたい……」


 貴聞は苦笑しながら、君野の顔を覗き込んだ。


「あ、吉郎の唇に毛がついちゃった」


 指先を伸ばした、その瞬間だった。


「駄目っ!!!!」


 何を思ったのか、君野の唇が前へ進み、そのまま貴聞の下唇へ触れた。


 貴聞は暴れる扇風機のように顔を小刻みに振りながら後ろへ下がる。


 反射的に君野の肩を押し、自分の唇を両手で塞いだ。


「っ……!」


 せ、セーフ?


 セーフなのか!?


 心臓が破裂しそうなほど激しく脈打つ。


 警戒音のように、胸の奥で和太鼓がどこどこと鳴り響いていた。


「吉郎!!駄目って言ってるでしょ!!病気だって何度も言ってるのに!」


「痛い……」


 君野のか弱い声に、燃え上がった怒りが氷水を浴びせられたように鎮火する。


「……っ」


 貴聞はすぐさま君野の華奢な肩を抱き寄せ、もう2度と離さないと言わんばかりに強く抱き締めた。


「ごめんね。痛かった?」


「……ううん……」


 君野は胸元へ頬を寄せたまま、不安そうに尋ねる。


「僕のこと……好きだよね?」


「大好きだよ」


 貴聞は迷いなく答えた。


「だからこうして、ここに2人だけの世界があるんだよ」


「いつ治るかな。キスできない病……」


「わからない……。でもね、僕も誰ともキスしないから」


 君野の背中を、落ち着かせるようにゆっくりと撫でる。


「僕も吉郎と同じ病気だよ。だから一緒に治そう。本当に吉郎だけを愛してる。キスができなくても、僕のそばにいて」


「うん……」


 その返事へすがるように、貴聞は無数の痕が残る君野の首筋へ唇を重ねた。


 小刻みに震える華奢な身体を逃がさないよう、両腕で抱え込む。


 炉から取り出したばかりの刻印を押しつけるように、赤い痕を深く残していった。


 時が止まったかのように、2人は互いの体温と甘い空気へ呑まれていく。


 やがて安心したのか、貴聞は君野へ抱きついたまま動かなくなった。


「あれ?寝ちゃった?」


 君野は力なく垂れた貴聞の顔を、心配そうに覗き込んだ。


 これほど毎日一緒にいるのに、目元にはうっすらとクマが浮かんでいる。


 そういえば最近、彼は固形物をまともに食べようとしない。


「大丈夫かな……」


 キスのできない病気は、それほど深刻なのだろうか。


 けれど僕は、毎日ちゃんとお腹が空く。


 どうして貴聞くんの方が、こんなにも病的になっているのだろう。


「キスできない病って、なんなんだろう……」


 僕は健康そのものなのに。


 君野は床へクッションを置き、眠る貴聞の頭をそっと乗せた。


 さらに薄いブランケットを、胸元まで優しく掛けてやる。


「……かわいいなあ。貴聞くん」


 穏やかな寝顔に癒やされ、前かがみになって覗き込んだ、その時だった。


「あ。何か落ちた」


 太ももの上から、床のマットへ光るものが落ちた。



 視線を向けると、そこには先ほどレイヴンから拾った、歪なリングのついたネックレスがあった。


「あ……そういえば。このまま洗濯籠に入れるところだった」


 君野はそれを手のひらに乗せ、いろいろな角度から眺めてみる。


 ――吉郎!!


 その瞬間、頭の中で見知らぬ男性の声が響いた。


 僕はその人の名前を知っていたはずだ。


 夢の中でも何度も叫んでいたはずなのに……思い出せない。


「なんだっけ……」


 リングを手にするたび、そんなフラッシュバックが起こる。


 君野は輪の中央で揺れるダイヤモンドをじっと見つめた。


「でも、やっぱりこんなダイヤモンド……貴聞くんが僕にくれたんだよね?」


「……吉郎……」


 足元から貴聞の寝言が聞こえた。


 その名を呟いた直後だった。


 唇が温かいもので塞がれている感触に包まれる。


 そして、それが何なのかを理解した瞬間、貴聞は目を見開いた。


 目の前の光景に、額から冷たい墨が全身へ流れ落ち、体温を奪っていくような感覚に襲われる。


 なのに、重なった唇だけが温かい。


 貴聞は込み上げる感情を必死に押し殺し、君野を強く抱き寄せた。


 久しぶりの甘いキスに、2人はどっぷりと浸る。


 その勢いのまま形勢は逆転し、貴聞は君野を床へ倒し、馬乗りになった。


 見つめ合う2人。


 君野は頬を紅潮させ、何をされても構わないというように貴聞を見つめている。


「……貴聞くん、どうして泣いてるの?病気が怖い?」


「……そんなはずない。そんなはずないよ……」


 声が震える。


「僕が守り続けてきた君が、こんな簡単に消えるなんて……そんなこと……絶対に……!!」


「キスの病って、僕の記憶が消えちゃうの?」


 否定の言葉は返ってこなかった。


 代わりに、貴聞の頬から温かな雫がぽたぽたと君野の頬へ落ちていく。


 貴聞は君野の右手へ自分の手を重ねた。


 その指には、あの堀田リングが握られていた。


「っ……!」


 その瞬間、貴聞の表情が変わる。


「んっ……!?」


 さっきまで穏やかだった彼は、蛇のように君野の唇を奪った。


 だって君は、僕だけを知っている無垢な天使なんだ……!!


「お願い……もう誰も、僕以外見ないで……」


 貴聞は大粒の涙を流しながら、君野の体へそっと手を触れた。




 ――その数日後。


「吉郎……まだ寝ているの?」


「はい。まだお目覚めのご様子はございません」


 午後4時。


 学生服姿の貴聞は学校から帰宅すると、その足で君野の部屋へ向かった。


 隣に立つ等々元も情が移ったのか、さまざまな薬を試しながら手を尽くしているものの、目覚める気配はない。


「どうしちゃったんだろう……」


 貴聞は内心、焦っていた。


 彼がこうなったのは、久しぶりにキスを交わし、愛し合ったあの日からだ。


 父には学校を休み続けていることを咎められ、さらに吉郎についても今後どう扱うかわからないと釘を刺されたばかり。


 そんな時に、また眠ってしまっては、プログラムに支障が出るのではないかと気が気ではなかった。


 すると、等々元が小さく咳払いを1つして、静かに口を開く。


「……あの、僭越ながらご提案申し上げます。召使いの堀田をお呼びになってはいかがでしょうか」


「……理由は?」


「貴聞様がお話しされておりました『呪いのキス』なるものの原理に従えば、堀田が不可欠かと存じます。――お目覚めいただく、という意味においてですが」


「……」


 一瞬、その言葉だけで理性が吹き飛びそうになる。


 だが貴聞は、どうにか感情を飲み込み、静かに息を吐いた。


「このまま吉郎が追い出されるよりは、まだマシ……だよね」


「はい。私も、そのように存じます」


 2人は静かに目配せを交わした。


 等々元が部屋を出ると、ごみ捨て場で作業をしている堀田を見つけ、声をかけようとした――その時だった。


「等々元さん。当主様と貴聞様がお呼びです。すぐに食堂へ集まるようにと……」


 等々元を追いかけてきた若い執事が、ごみ捨て場へ姿を現した。


「……そうですか」


「どうしました?」


 肩を落とした等々元へ、堀田は声をかける。


「……力不足です。……守れず、申し訳ありません」


「何のことですか?吉郎?」


 それだけ言い残すと、等々元は屋敷へ早足で戻っていった。


 嫌な予感がした堀田は、そのまま大食堂のある広間まで後を追う。


 開口扉が閉まる直前、その食堂には白戸家当主と貴聞、そして等々元が集まっていた。


「なんだ?なんか深刻そうだな……」


 堀田は開口扉へ耳を当てる。


 一度鍵が閉まったかと思えば、なぜか静かに解錠された。


 その不可解な動きに首をかしげながら、堀田は欲張って扉を少しだけ開き、中を覗く。


 すると、御曹司の悲痛な声が響いた。


「そんな……待ってください!吉郎を追い出すなんて、まだプログラムは終わってません!!」


 それに対し、当主の言葉が屋敷の空気を凍らせる。


「もう起きないのなら、この家にいる必要はない。さっさと忘れて勉学に励むといい」


「ならプログラムは終了でいいです! 吉郎は僕のペットなんです……だからッ……これからもレイヴン小屋で飼い続けます!!それなら問題ないはずです!!」


「何言ってんだ、あの坊っちゃん……」


 一級品の御曹司が、顔をぐしゃぐしゃにして泣き叫ぶ姿に、なぜか胸が引き裂かれる思いがした。


 ……なるほど。


 色々合点がいく。


 このプログラムの中で、どうすれば愛する人を守れるのか。


 考え抜いた末に辿り着いた答えなのだ。


 それしか方法がなかったことが痛々しい。


「害のあるペットなら殺処分する。そういう世界だ」


「なんだと!?」


 殺処分!?


 終わったら無事に返してくれるわけじゃないのか!?


「おい待てよ!!!さっきから話を聞いてると、なんなんだよ!!!」


 気づけば堀田は、重厚な扉を勢いよく開け放っていた。


 その場の視線が一斉に集まる。


「お前は誰だ?」


 当主は腕を組み、獣の王のような眼光と威圧感を堀田へ浴びせた。


 その迫力に一瞬ひるみ、堀田は近づく足を止める。


 長い食卓越しに、必死で睨み返した。


「っ……」


 やばい!


 いや、なんでもいい!!


 とにかく吉郎を守りたい!!


「プ、プログラム続けてくれ!」


 思いもよらぬ言葉に、その場の時間が一瞬止まる。


 自分でも何を口走ったのかわからなかった。


 それでも、本当に言いたかったことを絞り出す。


「俺は……君野吉郎の恋人だ!プログラムをやめるなら、大人しく返してくれ!」


「ほう……それで、その恋人がプログラムを続けてほしいとは?」


「あ、いや……その……」


「堀田さん……」


 か細い声に振り返る。


 あの貴聞が、潤んだ目で床へ膝をつき、ぼろぼろと涙を流していた。


「っ……」


 あいつが悪くないなんて言いたくない。


 思いたくもない。


 だが、当主の気まぐれがなければ、こんなことにはなっていなかった。


 諸悪の根源は、この人なのは間違いない。


 己の正義感が、バイクのエンジンのように吹き上がる。


 等々元さんまで、なんて目で見てやがる……!!


 しかし、当主の鋭い眼光は堀田を射抜き続ける。


 生ごみを触った臭い手で思わず頭をかくほど、一瞬パニックになった。


「お前は何が言いたい。恋人がなんだ?もう一度はっきり言え」


 凄みのある声に、再び縮み上がる。


 気づけば、ふにゃけた口は生き延びるために必死で動いていた。


「今追い出したら、ここの動物も、当主様の息子も大変なことになる!!……だから、君野吉郎に危害を加えるのはまだ早い!」


 なぜか他人のために、その場で土下座までしている。


 あれ……俺、何してんだ?


 いや、策ってなんだ?


 え、俺!!?


 反射神経と正義感だけで動いた堀田を見て、当主は初めてニヒルな笑みを浮かべた。


「策か……面白い。やってみろ。ただし、駄目なら、お前ごと君野吉郎に処分を下す」


「処分……!?」


 堀田が顔を上げた時には、魔王のような当主は、そのまま食堂を後にしていた。


 何度も瞬きをし、張り詰めていた糸が切れたように足元がふらつく。


「……はあ……」


「堀田さん……!!!」


 すると、先ほどまで泣き崩れていた貴聞が堀田の胸へ飛び込んできた。


「おお!?」


 強く抱きつかれ、情けない声を漏らして両手をぴんと伸ばす。


 こんな時でさえ、生ごみ臭い手を気にする俺って……。


「ありがとうございます……本当に……良かった……」


「お、おう……気にすんなよ……」


「僕、やっぱり……堀田さんごと愛します……」


「はっ!?なんで!」


 堀田は顔をそむけたまま、必死に平静を装う。


 等々元はその光景を見つめながら、後ろで静かに音のない拍手を送っていた。


 ……何だ、この状況!


 つうか、策ってどうすんだ! 俺!!


 堀田は目の前の貴聞に困惑しながら、再び静かにパニックを起こす。


 静まり返った食堂に、誰かの鼓動だけが響いていた。

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