表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
28/56

第28話「堕落」



その1週間後――。


屋敷の最奥、重厚な書斎室。


玉座のような黒い椅子に腰掛けた白戸家当主・白戸貫聞しろどかんぶんは、画面に映る数字の列を睨みながら、静かにノートパソコンのキーボードを打っていた。


「ここ2日ほど、貴聞(きぶん)様はレイヴン小屋に籠もられたまま、お出になられておりません。君野(きみの)様と常に寄り添われ、まるで互いを離すまいとするように過ごしておられます」


その正面には、執事の等々元が静かに立っていた。


報告の声は、冷たい水滴が静かな広間へ落ちるように淡々としている。


だが、その悲しげな内容にも、父の威厳ある表情は一切揺るがない。


画面から目を離さぬまま、淡々とキーボードを打ち続ける。


「学校にも3日続けてお出かけにならず、学業へのご関心も失われているご様子です。宿題にも手をつけられず、何をなさるにも君野様のことばかり考えておられます……」


その指先が、ふっと止まった。


次の瞬間。


ノートパソコンの蓋が、ガチャンと乾いた音を立てる。


その無機質な音が、決断の合図のように書斎へ響いた。


「……中止だ」


「……中止、でございますか」


「あの君野吉郎(きみのよしろう)を屋敷から追い出せ。このままでは、この家そのものが呑まれる」


その言葉に、等々元の目がわずかに見開かれた。


ほんの一瞬の変化だった。


しかし父は、その小さな反応すら見逃さない。


「どうした?お前もまさか、あの君野吉郎に取り込まれているのか?」


静かな声音。


問いかけというより、反応を測るような響きだった。


「そうではございません。ただ、君野様がいらっしゃらなくなれば、ペットたちにも支障が出るかと存じます。レイヴンや小鳥たちはもちろん、ジュンの体調にも急な変化が見られる恐れがございます」


すると、書斎にいたシャムネコのジュンが、その意見に賛成するかのように「ニャー」とひと鳴きし、ノートパソコンの上へ飛び乗った。


そして唯一甘えることを許された主人へ、艶やかな女性のように頭をすり寄せる。


「……そこまで影響が大きいのか」


父は一気に険しい表情になり、ジュンの頭を静かに撫でた。


そして、1拍置いて口を開く。


「……とにかく、プログラムは中止だ。君野吉郎はこの屋敷から排除する」


その言葉に、等々元は一瞬だけ父の瞳を見つめた。


だが、そこから意図を読み取ろうとすることはしない。


「……承知いたしました」


静かに頭を下げる。


重苦しい空気だけが書斎を支配し、残ったのはジュンが喉を鳴らす「ゴロゴロ」という穏やかな音だけだった。





一方、その日の午後。


7月の初め。


夏空が広がっているというのに、貴聞は相変わらず君野とレイヴン小屋に籠もっていた。


2人は互いに寄り添い、穏やかに見つめ合って微笑む。


「吉郎。あーん」


貴聞はスーツではなく、黒い光沢のあるシルクのパジャマ姿だった。


先ほど召使いが運んできた午後3時のおやつ――チョコレートケーキを、隣に座る白いワンピース姿の君野の口元へ運ぶ。


「おいしい?」


「うん!おいしい。貴聞くんも食べて!」


「いいよ。僕は吉郎の幸せそうな顔を見ているだけで幸せだから。この世にあるものが、もうこの部屋だけになったらいいなって思うくらい」


「でも、ヴンちゃんが退屈そうだよ。最近、一緒に散歩へ行ってないもん」


「それは等々元や召使いたちがやってくれる。もうここは僕たちだけの部屋だ。吉郎は僕だけを見ていればいい」


そう言って、右手薬指にはめた黒いダイヤのリングをひらりと掲げる。


君野も自分の指先にはまった透明なダイヤを光へかざした。


2人は自然と手を重ね、小鳥がくちばしを寄せるように指輪同士を軽く触れ合わせる。


やがて、その指は蛇のように絡み合った。


「まだ、僕にキスしたい?」


貴聞の甘い声が、君野の胸へ静かに落ちる。


「したい……でも駄目なんでしょ」


「うん。等々元も言ってたでしょ。吉郎はキスできない病なんだ。だから僕も誰ともしないし、外へ出る必要もない」


「でも今日はいい天気だよ。梅雨も終わったし……お散歩に行かないの?」


「行かない。聞いて。今日は風が強いでしょ。もし吉郎の唇に葉っぱでも張りついたらどうする?」


「そんなに大きな病気なの?僕……」


本当は外へ出たい。


ヴンちゃんと散歩がしたい。


そんな気持ちはある。


それでも君野は、自分は病気で守られなければならない存在なのだと教えられ続けていた。


だから今日も、真正面に広がる窓の外を眺めることしかできない。


夏の日差しを浴びたい。


その思いだけが胸の奥で静かに膨らんでいく。


「そうだよ。だから、ずっとここにいるの。それこそ吉郎は、風が吹いたらたんぽぽの綿毛みたいに飛んで行っちゃうから。こうしてギューッとしてなきゃ駄目なんだ」


そう言うと、貴聞は君野を優しく抱き寄せ、その首筋へ唇を落とした。


「ひゃっ……」


電気が走ったように肩をすくめる。


白い首筋には赤いキスマークが幾重にも残っていた。


それは唇へ触れられない代わりに刻まれた、愛情と執着の痕だった。


「もうこれ……外に出られないよ……」


君野は小さく息を漏らす。


腕や足にも、小さな赤い痕が花びらのように散っている。


「ひゃっ……!」


油断した隙を狙うように、もう一度首筋へ唇が触れた。


また小さく肩が跳ねる。


その震えが伝わるたび、貴聞の脳裏にはあの男の言葉が蘇る。


――吉郎の唇にキスをしたら、彼から僕の記憶が消える。


それは、あの男が消えた跡に残る、僕が2番だった証――。


「っ……」


あれから何もできていない。


キスも。


本当の意味で愛し合うことも。


すべて、あの一言が心を縛っている。


堀田に踊らされているのか。


本当は全部ハッタリなのか。


もし思いきり愛し合ったあと、本当に記憶が消えてしまったら?


もし今この瞬間も、吉郎が心のどこかで僕を2番だと思っていたら?


そこまで考えると、どうしても最後の一歩が踏み出せない。


……今の僕は異常だ。


壊れている。


壊れているのに――


やめられない。


「……好きだよ。本当に君を愛してる」


そう囁きながら、もう一度君野を抱き寄せる。


首筋に残る温もりを確かめるように、静かに抱き締めた。


――そんなはずない。


こんなにも幸せなんだから。


その願いにも似た思いが部屋いっぱいに満ちていく。


静かな熱と甘い香りが、2人だけの世界をゆっくりと閉ざしていった。


「うん……僕も愛してるよ」


君野は何の疑いもなく笑う。


その無垢な笑顔を見つめ、貴聞は満足そうに目を細めた。


――ワンワン!!


その時、外から貴聞の部屋のドアをカリカリと引っかく音が聞こえた。


また一段と大きくなったレイヴンを召使いたちが押さえようとする、慌ただしい声が廊下から響いてくる。


「ヴンちゃん、僕に会いたいのかも……」


貴聞へ甘えるように君野が呟く。


「行ってもいい?」


――そんな気持ちが、その瞳からひしひしと伝わってきた。


「ここ最近、動物たちにも会ってないから、様子を見てあげないと……」


「……わかった。じゃあ、15分で戻ってこよう」


「そんなに短くは約束できないよ……。みんな体調がいいとは限らないから」


貴聞は少しだけ考え込むように目を伏せる。


そして、小さく息をついた。


「……わかった。じゃあ、その間だけ、召使いたちを全員屋敷から離れさせる」


「え?」


君野が目を丸くする。


貴聞はようやく腰を上げると、久しぶりにスーツへ着替え、静かに部屋を出て行った。


「どうしちゃったんだろう……」


その奇妙な行動に首を傾げながら、君野もレイヴン小屋を後にする。


すると再び、部屋の外からドアをカリカリと引っかく音が聞こえた。


「ワンワン!!ワン!!」


「ヴンちゃん!こっちおいで!」


また召使いたちの隙をついて逃げ出してきたのだろう。


君野がそっとドアを開けると、その隙間から龍のように長い黒い体のボルゾイが滑り込んできた。


君野を見つけた途端、尻尾をぶんぶん振りながら低姿勢でキュンキュンと鳴き、そのまま勢いよくへそ天になる。


「あはは!久しぶりだね!やっぱり自分の部屋がいいよね」


君野が笑いかけると、レイヴンは低く喉を鳴らした。


まるで「おかえり」と返事をしているようだった。


「あはは!かわいい!」


しゃがみ込み、全身を思い切り撫で回す。


その時、不意に手が首元へ伸びた。


「ん?」


黒い本革の首輪から、何か銀色のものが垂れ下がっている。


「なにこれ?」


シルバーのチェーンのようだった。


きっと暴れ回っているうちに、どこかへ引っ掛けてしまったのだろう。


「ヴンちゃん、待て」


少し強めに言うと、興奮していたレイヴンも素直におすわりをした。


それでも座ったまま君野を覆い隠せそうなほど大きい。


首輪のバックルへ絡まっていたチェーンを丁寧に外す。


すると、その先には指輪がついていた。


「アクセサリー?誰のだろう」


手のひらへ乗せ、ゆっくり眺める。


少し歪んだリングにはダイヤが埋め込まれ、中央でも小さなダイヤモンドが1粒だけ、かすかに揺れていた。


内側には、かろうじて「HY」の刻印。


「落とし物かな。ヴンちゃん、知ってる?」


君野が尋ねると、レイヴンは「それだ」と言わんばかりに右前足を差し出した。


「……僕の?」


「ワン!」


「お前のだよ」


そう言いたげな勢いだった。


君野は思わず吹き出す。


「そっか。僕の……なんだね」


少しだけ首を傾げる。


「貴聞くんからかな?でも、HでもYでもないもんね……」


考えても答えは出ない。


「……ま、いっか!」


君野は笑ってネックレスをポケットへしまう。


そして再びレイヴンへ抱きつき、離れていた時間を埋めるように、その柔らかな毛並みへ思い切り顔を埋めた。


レイヴンも嬉しそうに尻尾を振り続ける。


そのネックレスが、再び2人の運命を動かし始めるとも知らずに。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ