第27話「僕だけを好きな君」
「ん……」
その日の早朝、貴聞はゆっくりと目を覚ました。
数秒間、天蓋を見つめる。
ここが現実だと確かめるように、静かに息を吐いた。
なんとなく、嫌な夢を見ていた気がしたからだ。
どんな夢だった……?
額に滲んだ汗を拭おうとした、その時だった。
右手が動かない。
「あ」
そういえば――。
右側でこんもりと膨らんだ布団を、勢いよくめくる。
そこには、自分の腕を枕代わりに抱きしめて眠る君野がいた。
まるで高い場所から落ちまいと必死にしがみつくように、腕だけでなく両脚まで絡めている。
あれ?
以前、同じベッドで朝を迎えた時でも、ここまでではなかったような……。
とにかく、起こさなければ身体を起こせない。
貴聞はその温もりに頬を緩ませながら、そっと顔を近づけた。
「吉郎。朝だよ。起きて」
「……」
「鈴木料理長の目玉焼きハンバーグ」
左手で口元を覆い、耳元へ甘く低い声を流し込む。
すると君野はまぶたをぴくぴくと動かし、そのまま貴聞の二の腕へ甘噛みした。
「ねえ。本当は起きてる?」
「……まだ寝ていたい」
君野はさらに腕と脚へ力を込め、貴聞の二の腕を抱き込んだ。
仕方なく、起こしかけた身体をもう1度ベッドへ沈める。
眠たげな君野へ顔を寄せ、左手で右頬をそっと撫でた。
それにしても、どうして今日はこんなに甘えてくるんだろう……。
そう考えた瞬間だった。
「……!」
――そうだった。
昨日、堀田とキスをした。
そして、その記憶が消えていれば――。
思い出した途端、不安と期待の入り混じった感情が胸を満たした。
この甘え方は、答えなのかもしれない。
貴聞は君野へ静かに寄り添ったまま、その時が来るのを待った。
それから1時間ほど経った頃――。
「貴聞様、君野様。おはようございます。朝のご支度が整っております」
主人の遅い朝を迎えに、等々元が部屋へ入ってきた。
「おはよう。ごめん。起きられなくて……」
「お加減が優れませんか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……身体を起こせなくて」
そう言って布団をめくる。
すると、先ほどよりも状況は深刻になっていた。
君野は貴聞の腰へ両腕をしっかりと回し、逃がすまいとでも言うように抱きついて眠っている。
「君野様……お目覚めになれますか。甘いカスタードプリンをお持ちいたしましょうか」
等々元もベッドの左側へ回り込み、腰をかがめた。
「失礼いたします」
そう断ってから、君野の背中を優しくさする。
「……ここでいいよ。貴聞くんと一緒にいたいもん」
「え?」
その一言に、貴聞は思わず口元を押さえた。
「だって、いい匂いするんだよ。目玉焼きハンバーグも美味しいし、プリンも好きだけど……今はこうしていたい……」
「吉郎……!!」
等々元が業務用の穏やかな笑みを浮かべる中、貴聞は君野を強く抱きしめた。
「……お差し支えなければ、お食事はこちらへ2人分お運びいたしましょうか」
「うん。ここに持ってきて。やっぱり実物には勝てたことがないからね、吉郎は」
「食べないなんて言ってないよ!僕は、貴聞くんと一緒にいたいって思ってるだけ」
そう言って、君野は貴聞の腕を強く引いた。
体勢を崩した貴聞は、そのままマットレスへ倒れ込む。
驚く間もなく、曇りのないガラス玉のような瞳が、真正面から心を射抜いた。
「っ……」
思わず息をのむ。
この真っ白さに、殺される――
「……では、お食事をお持ちいたします」
等々元は静かに一礼すると、扉を開けて部屋を後にした。
「吉郎は、もう僕だけのものなんだね」
「えへへ。僕がどこかへ行っちゃったら、悲しい?」
君野は甘えるように小首を傾げた。
「風船みたいにふわふわ飛んで、手が届かないところまで行っちゃったら、どうする?」
「絶対に迎えに行くよ」
貴聞は迷わず答えた。
「どれだけ服が破れても、どれだけ金を使ってでも。吉郎を笑顔にできるなら、僕は何だってする」
「それは、僕を好きってこと?」
「そうだよ。大好き」
「僕も好きだよ。貴聞くんのこと!」
君野が、にっと無邪気に笑う。
その瞬間、鉄壁のはずだった貴聞の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
はあっ……。
尊い……!
これ以上の言葉が、何ひとつ浮かばない。
「貴聞くんは、僕のこと好きなんだよね?」
「うん。愛してるよ」
「本当?じゃあ、今したいことある?」
「したいこと?」
「僕と、歯みがきより先にしたいこと……ないの?」
「……はっ!」
貴聞の頭が一瞬、真っ白になった。
あれ?
僕たち、昨日と立場が逆転していない?
君野は貴聞のパジャマを掴み、そのまま自分の方へ引き寄せる。
気づけば、互いの唇が触れそうな距離まで近づいていた。
「風船は破裂したら、もう元には戻らないんだよ」
君野の唇が、さらに迫ってくる。
しかし貴聞は、慌てて右手のひらでその口元を押さえた。
「あ……待って、吉郎……!」
わずかな隙をつき、上半身を起こす。
早くここから離れないと――。
この無垢に、溺れ死んでしまいそうだ。
君野は逃げる貴聞へじゃれつくように近づき、その膝を両腕で抱え込んだ。
そこへ頬を乗せ、上目遣いで見つめてくる。
「っっ……!!」
僕だけを好きになると、こんなふうになってしまうの……!?
警戒しなければならない。
そう思うのに、嬉しさを抑えきれず、頬が緩んでしまう。
「吉郎!!もう……!1度起きよう?ね?」
「……これが飴だったら、もう溶かして食べちゃってるよ」
「え?」
君野は何を思ったのか、昨日右手薬指へはめた、眩いダイヤモンドのリングを口へ含んだ。
「だめだめ!汚い!」
貴聞は慌てて、その手を口元から離させる。
「そんなわがままを言っても、僕が『じゃあ』ってキスすると思う?」
「でも、ちょっと美味しそうだと思わない?」
「思わないよ」
「キラキラしてると、もしかしたら少し甘いのかなって思う時がある……」
「……そっか……」
最高に意味がわからない。
それなのに、どうしようもなく可愛い。
君野の意識がリングへ向いている隙に、貴聞は膝を抱く腕から足を抜こうと、そっと身体を動かした。
しかし次の瞬間、君野がばねのように勢いよく飛びついてくる。
「うわっ!吉郎……!!」
僕が壊してしまったのだろうか。
ほんの少しだけ、後悔した。
気づけば再び、貴聞の身体はマットレスへ沈んでいた。
朝と同じように、右腕を君野の手足でがっちりと抱え込まれている。
「もう知らないもん。僕、今日はこのままでいい」
「……じゃあ、そうしようか」
貴聞は抵抗することを諦め、全身の力を抜いた。
貴聞は全身の力を抜いた。
右側から太陽がゆっくりと昇り、等々元が開けてくれた窓から朝の光が差し込んでくる。
眩しい。
時計は午前9時を回っていた。
休日でも、こんなに長くベッドで過ごしたことはない。
左手で光を遮り、指の隙間から朝日を見つめる。
「君はここにいなきゃ駄目だ」
光が憎い。
絶対に、この吉郎を外へ出してはいけない。
僕は狂っているのか――。
脳裏に、昨日の堀田の叫びが蘇る。
――お前、明日吉郎とキスしてみろよ。自分がずっと2番だったって絶望するはずだ……!
その言葉が、長い剣のように胸の奥へゆっくりと突き刺さる。
呪いのキスは存在した。
そこまでは、もう疑いようがない。
だけど――。
愛が、それより弱い理由なんてあるだろうか。
僕は吉郎を誰よりも愛している。
誰よりも幸せにできる。
誰よりも守れる。
だから、こんな呪いに負けるはずがない。
「僕は吉郎を満足させられる……」
ぽつりと呟く。
その言葉とともに、胸の奥で赤黒い炎が静かに燃え上がった。
「貴聞様、君野様……お食事はいかがなさいますか?」
再び等々元が、数人の召使いとともに朝食を運んできた。
しかし部屋へ入った彼らの視線の先には、朝からまったく体勢の変わらない2人がいた。
君野は相変わらず貴聞へぴったりと抱きつき、離れる気配がない。
等々元はその様子を見ても表情ひとつ変えず、静かに一礼する。
誰も余計な言葉は口にしない。
朝食の準備だけが、静かに進められていった。




