第26話「残映」
「くそ……!!!」
貴聞へ思いきり中指を立てたあと、堀田はベテラン執事たちに羽交い締めにされ、そのまま連行された。
こっぴどく叱られた末、言い渡されたのは、召使い寮の個室で3日間の謹慎処分。
今日1日だけでも、この狭い部屋から出られるのは3時間に1回だけだ。
それすら守れなければ、白戸家には二度と足を踏み入れられないという。
堀田はベッドの縁へ前かがみに腰掛けたまま、止まらない貧乏ゆすりを続けていた。
腹の底から恨み言が込み上げてくる。
それを奥歯を噛み締め、必死に飲み込んだ。
さっきの判断は、本当に正しかったのか。
そう考えるたび、今すぐあの屋敷へ飛び込みたくなる。
「……っ……」
とにかく、吉郎は混乱しているはずだ。
ようやく熱烈なキスを交わし、これでハッピーエンドかと思った直後に、
――明日には、俺を忘れるかもしれない。
そんな呪いを自分が持っていると、突然告げられたのだ。
「最悪だ……」
結局、誤解も解けなかった。
俺に騙されていたとでも思っただろうか。
「……言えるわけねえだろ……」
呪いのキスを時限爆弾のように仕掛ける。
そんな卑劣なこと、俺にはできない。
だが、結果的にはそうなってしまった。
「ごめんな……。俺は、お前を守れてない……」
堀田は両手で顔を覆い、喉の奥につかえたものを押し流すように唾を飲み込んだ。
きつく目を閉じても、考えはまた同じ場所をぐるぐると巡り始める。
……あの黒坊っちゃん、どう出る?
勢いで立てた中指の向こうから見えた、あいつの目。
正直、震えた。
やっぱり、この家直産の毒入りマスクメロンだ。
「つうか……」
そもそも、呪いのキスが俺の言った通りに働く保証すらない。
その前に、坊っちゃんが今日、吉郎へキスしたら?
もう何もわかりゃしない。
運任せだ……。
「はあ……」
堀田は開き直るように、そのままベッドへ倒れ込んだ。
白いキャンバスのような天井へ、先ほどの光景が何度もプロジェクターのように映し出される。
君野を抱き寄せた瞬間。
唇を重ねた感触。
貴聞の、底知れない眼差し。
やがて少しずつ気持ちが落ち着いてくると、今度はアパートで君野と過ごした幸せな日々が、古い映像のようにゆっくりと再生され始めた。
あの狭い部屋の、湿っぽい匂いさえ。
少しずつ、記憶の中で曖昧になり始めている。
一緒に風呂へ入り、狭いベッドで隙間風をやり過ごした冬。
ベランダから見える花火を眺めながら、2人でアイスを食べた夜。
どう考えても正解とは思えない具材を放り込んだ、あいつの破天荒な焼きそば。
それでも、もう一度食べたくてたまらない。
「戻りたいな……。俺たちの、幸せな日々に……」
堀田は静かに目を閉じた。
右目の端から、涙が1粒だけこぼれる。
部屋には、音のない時間だけが流れていた。
胸の奥で燃え続ける激情へ、今だけはそっと蓋をする。
そうしなければ、またあの屋敷へ駆け込んでしまいそうだった。
その夜。
1人で気持ちを抱えきれず塞ぎ込んでいた君野は、いつもの白いワンピース姿で、貴聞の部屋にある神聖なキングサイズのベッドへ仰向けになっていた。
布団を目元まで引き上げ、身を隠すように包まっている。
隣には、上半身を起こして枕へもたれ、静かに本を読む貴聞がいた。
深い藍色の、シルク製のパイピングパジャマ姿。
年相応に幼く見えるその姿は、屋敷の派手な天井装飾よりも君野の目を引いた。
揺らめく小さな炎と、ほのかな香りに包まれながら本を読むのが、彼の日課なのだろう。
部屋には、ページをめくるかすかな音だけが響いていた。
そして、あの甘いアロマの香りが、今日も嫌でも鼻をくすぐる。
「……」
2人の間には、微妙な距離があった。
君野はそれを意識しながら、視界に広がる天蓋と、雲の上にいるような柔らかなベッドの感触を足先まで味わっていた。
夢遊病のような状態でここへ来た、あの夜以来だ。
天蓋付きのベッドには白いレースが垂れ、2人を静かに包み込んでいる。
僕が……呪いのキスを持っている?
そして明日、堀田くんの記憶が僕の中から消えてしまう?
本当に?
どうして今まで言ってくれなかったの?
それは、堀田くんにとって……どういう意味だったの?
「……怖い?」
本から目を離さないまま、貴聞が静かに問いかけた。
その一言だけで、君野の瞳へ決壊寸前のダムのように涙が滲む。
天蓋を見つめたまま、震える声で問い返した。
「……堀田くんは……本当に僕を愛してたと思う……?」
「うん。思うよ」
迷いのない答えだった。
「どうして、そう思うの?」
「呪いのキスが、本当にあると思うからだよ」
「ねえ……もっと教えてくれる?」
貴聞は本を閉じ、ベッド脇の小さな棚へ静かに置いた。
ひと呼吸置いてから、自分も布団へ潜り込み、君野と同じように目元まで包まる。
「僕の方に来て」
甘い声が、君野を呼ぶ。
夢遊病だったあの日と同じように、布団の中からこちらを見つめていた。
君野は小さく肩を震わせる。
布団の中から伸びてきた左手が、不意に頬を優しく撫でたからだ。
上品な香りと手の温もりに、また涙が込み上げる。
すごく安心する。
「綺麗な涙だね」
「綺麗じゃないよ……。でも、どうして堀田くんが僕を愛してるって言えるの?」
「僕が吉郎を愛していると、改めてわかったから」
「え……?」
「それに、吉郎が堀田さんのもとへ行きたいと思っていることも、伝わってきたから」
「……ぐすっ……うぅ……ふぅっ……」
「1度、起きようか」
2人はゆっくりと身体を起こした。
貴聞はベッド脇の棚からティッシュを数枚取り、甘やかすように君野の涙と鼻を丁寧に拭う。
そのまま、ごく自然に君野を抱き寄せた。
ふわりとした髪が、貴聞の頬をくすぐる。
「……明日……忘れちゃうのが怖くて……。だって……何もわからないままだから……」
「そうだよね。あんなことを突然言われたら、怖いよね」
貴聞は君野の背中を、ゆっくり撫でる。
「でも、明日本当に堀田さんを忘れていたら、吉郎は僕だけを好きになる。その感情は、今夜しか確かめられないかもしれない」
「それは……どういう意味?」
「堀田さんを忘れるための儀式は、成功したと思う」
「……儀式?」
「だから彼は、呪いのキスなんて言葉を使ったんだと思うよ」
「……そうなのかな……」
「彼が何を考えていたのか、本当のところはわからない。でも、僕はそう受け取った」
貴聞は君野の顔を覗き込み、静かに続ける。
「だから、あの時も信じてるって言ったんだ。吉郎は、どう思う?」
「……でも……」
「明日、僕だけを好きになるのが怖い? それとも、堀田さんを忘れてしまうのが怖い?」
貴聞は君野の額へそっと唇を寄せ、甘い声で囁いた。
その声は、頭の先から足先まで、骨の奥へ静かに染み込んでいくようだった。
気づけば、力なく垂れていた君野の左手へ、貴聞の手がそっと重なる。
首筋をかすめる甘いアロマの香り。
その温もりと香りに包まれながら、君野は胸の中で渦巻いていた感情が、少しずつほどけていくような気がした。
「……怖いけど、怖くないよ……」
その答えを聞くと、貴聞は君野を抱き寄せたまま、ベッドの上に置いてあったリングケースを手に取る。
静かに蓋を開け、中から2つのリングを取り出した。
「ねえ。本当に明日、吉郎の記憶から堀田さんが消えて、僕だけを覚えていたらさ」
そう言って、白く眩いダイヤモンドのリングを君野へ見せる。
「このリングが指にはまっていたら、素敵だと思わない?」
「……」
君野は複雑そうな表情のまま、答えられずにいた。
貴聞は穏やかに微笑み、君野の右手をそっと取る。
そして、白く輝くダイヤモンドのリングを右手薬指へ静かにはめた。
続いて、自分の右手薬指にも黒いダイヤモンドのリングを通す。
白と黒。
2つの輝きが寄り添い、まるで光と影が溶け合うようだった。
貴聞はそのまま君野の指へ自分の指を絡め、優しい眼差しを向ける。
「怖いけど、怖くない……」
その言葉を静かに繰り返す。
「それは、僕を信じてくれているってことだよね」
「……わからない……」
君野は俯いたまま、小さく首を振った。
「今日は、ここで休もう」
貴聞は君野の手を包み込む。
「もし明日も覚えていたら、まだ堀田さんを好きだってこと」
一拍置き、穏やかに続けた。
「完全に忘れていたなら、もう未練はないということ」
その声には焦りも強引さもなかった。
「今は、時間が答えを出してくれると思うから……」
そう言って貴聞は、蛇のようになめらかな動きで君野の唇へゆっくり近づく。
吐息が触れ合うほどの距離。
しかし、その寸前でぴたりと動きを止めた。
「……残念。お預けだね」
そう微笑むと、君野の手を優しく握り直し、薬指で輝くダイヤモンドのリングへ静かに口づける。
君野は何も言えなかった。
頷くことも、拒むこともできない。
ただ薬指へ残った温もりだけを、静かに感じ続けていた。




