第25話「正義の鉄槌キス」
まだ召使いたちが下で掃除の手を動かしている中、君野は堀田へしがみつくように、その胸へ飛び込んだ。
勢いを受けた堀田は、右手を金色の欄干へつき、後ろへよろめきながらも体勢を立て直す。
君野は顔をかわいそうになるほどくしゃくしゃにし、子どものように声も立てず泣きじゃくっていた。
「吉郎……」
あまりにも痛々しく、それでいて愛おしい姿に、堀田の胸はじくじくと痛む。
震える背中を優しく包み込み、そのまま抱きしめた。
周囲の召使いたちの存在など忘れたかのように、2人はしばらくそのまま抱き合っていた。
「……もう何もかも、なかったことにしたい……」
首筋へ温かな吐息がかかる。
君野は鼻をすすりながら、すがるように言った。
「それはどういう意味だ?」
――呪いのキスを知ってしまったのか。
その考えが脳裏をよぎり、堀田は一瞬で胸騒ぎに襲われる。
「もう、僕を忘れてもいい……!キスしたらさよならでもいい……!だから……今はこの気持ちをどうにかしたい……」
「この気持ちって、どんな……?」
「いいの!僕は今、堀田くんとキスがしたい……!!」
君野は駄々をこねる子どものように叫んだ。
「……」
しかし、今キスしたら――。
「これ、外して……。堀田くんのリング」
「だが……」
「お願い!外して!僕は儀式がしたいの!!」
金色の欄干に反響したその声に、一瞬、広間全体の空気が凍りつく。
堀田は腕の中の熱を感じながら、無言でチェーンを外した。
「外したぞ……」
右手のひらへリングを乗せ、君野へ見せる。
「……キスは、どっちの気持ちでもいい……。でも終わったら……僕につけないなら、もうそれでいいから……」
「おい……」
それ以上、言葉が出なかった。
ここで余計なことを口にすれば、それは明確な拒絶になってしまう。
「ねえ……僕のこと、嫌いになっちゃった?」
潤んだ瞳が、まっすぐ堀田を見つめる。
首を傾げたその無垢な丸い目は、外の喧騒を知らない室内育ちの子犬のようだった。
「嫌いなわけあるかよ!!大好きだッ!」
「……じゃあ、僕、堀田くんの好きの2番になっちゃったんだね……。そうだよね、貴聞くんカッコいいもんね……」
「2番?何のことだ?」
「でも……堀田くんに愛されるなら、2番でもいいよ……。だから……」
しかし、その唇はへの字に固く結ばれ、呼吸を乱しながら静かに涙をぽろぽろとこぼし続ける。
腰へ回した手にも、ぎゅっと力がこもった。
同棲していた頃の吉郎は、ときどきこうしてひどくわがままになることがあった。
――俺が肯定するまで、好きと言うまで、絶対に離さないつもりなんだ。
俺だって、明日起き上がれなくなるくらいキスしてやりたい……!
ふと注意が逸れた堀田は、君野越しに背後と欄干の下へ目を向ける。
廊下からひょっこり顔を出し、こちらを見ている顔なじみの若い召使いたち。
――キスしてやれよ!
歯を食いしばりながら拳を握るそのガッツポーズが、まるで無言のエールのように飛んできた。
ここで「あいつら、見てんじゃねえ!」と怒鳴れたらよかった。
だが、もうそんな野暮は通じない。
俺はもう、このキスに誠実に向き合うしかない。
「……俺も吉郎が好きだ。お前は俺を見失っても、何度でも俺を見つけてくれる」
「だって、大好きなんだもん……」
「そうだよな……。そうだよな……」
堀田は君野の両頬を優しく包み、互いの額をそっと重ねた。
こうして体温を確かめ合うように額を合わせるのも、久しぶりだった。
毎日のように忘れられてしまう。
それでも、こうして触れれば心地よくて、温かい。
俺のそばに必ずあった、大切なもの――。
「……俺の1番に決まってんだろ。明日、俺を選ばなかったら承知しないからな……」
堀田が指先で君野の唇へ触れようとした、その時だった。
「ワン!!ワン!!」
君野の真後ろにいたレイヴンが、堀田を威嚇するように吠え、その長い鼻先を2人の間へ割り込ませた。
「うわっ!!」
目を閉じていた君野は驚き、思わず堀田から身体を離してしまう。
「なんだよ……!」
振り向くと、黒いスーツ姿の貴聞が、建物の出っ張りからわざとらしく顔を覗かせていた。
「ごめんなさい。あともう少しだったのに。邪魔をしてしまって」
穏やかな声とは裏腹に、広間の空気が一瞬で冷え切る。
貴聞が静かに1度だけ手を叩く。
するとレイヴンは、尻尾がちぎれそうな勢いで振りながら、甘えるように匍匐前進して彼のもとへ向かった。
「あ、どうぞ。続けてください」
そう言って、右手のひらを上向きに返す。
その人を食ったような仕草に、堀田は歯を剥き出しにした。
「できるか!!」
「いいえ、してください。吉郎にもまだ未練があるようなので、ここで断ち切りたいんです」
貴聞は微笑んだまま、君野へ視線を向ける。
「そうだよね、吉郎。僕の言ったとおり、リングを外してって、ちゃんと伝えてくれたんでしょ?」
「……」
その言葉に、君野は太ももの横へ下ろした両手をもぞもぞと動かし、何も言えないまま口を閉ざした。
「これは儀式です。さっきの吉郎の言葉を、堀田さんも聞きましたよね」
貴聞の視線が、堀田の手のひらにあるリングへ落ちる。
「キスが終わったら、そのリングはもう必要ありません。あなたに返します」
「っ……」
「堀田くん……」
背後から、君野の残念そうな声が聞こえた。
もうキスのできる雰囲気ではない。
そんな響きだった。
しかし貴聞は、その一瞬、堀田の顔へ浮かんだ表情を見逃さなかった。
「今、僕が声をかけてくれてよかった……なんて思いました?」
「は!?」
「ほっとしたって、顔に出ていますよ」
「違っ……」
「吉郎、行こう」
貴聞は君野へ手を差し出した。
「これでわかったはずだよ。堀田さんにはもう、君への気持ちがないってこと」
「……っ……うっ……」
その残酷な言葉に、君野の肩が震えた。
静かにこぼれた涙が、次から次へと頬を伝っていく。
君野は止まらない涙を隠すように、両手で目元を覆った。
「酷いことを言ってごめんね。でも、これでもう準備は整った」
貴聞はそう言って君野へ歩み寄り、胸ポケットからコンパクトミラーほどの小さな箱を取り出した。
蓋を開ける。
中には、黒いダイヤモンドのリングと、きらびやかに輝く無色透明のダイヤモンドのリング。
堀田が持つ歪んだシルバーリングなど霞んでしまうほど豪華絢爛で、まるでこれまでの古い呪いを塗り潰すような輝きを放っていた。
貴聞は黒いダイヤモンドのリングを取り、自分の右手薬指へはめる。
そして、もう1つの眩く輝くリングを手に取った。
「手を出して。これでもう、未練はないよね」
「……」
君野の強張っていた右手から、少しずつ力が抜けていく。
震える指先が、ためらうようにゆっくりと持ち上がった。
貴聞はその様子にわずかに口角を上げ、白いダイヤモンドのリングを君野の右手薬指へ通そうとする。
その瞬間だった。
「わっ!?」
君野の身体が奪われるように、堀田の胸元へ引き寄せられた。
驚く暇もないまま、その唇は熱烈なキスで塞がれた。
「んぅ……!?」
君野は驚いて肩をすくませる。
しかし、涙も鼻水も構わず、堀田はあのアパートで交わしていたような、2人だけの熱烈なキスを重ねた。
君野もそれを拒まず、堀田の唇を自然に受け入れる。
貴聞はその様子を、ただ無表情のまま冷徹に見つめていた。
大広間には張り詰めた緊張感が広がる。
召使いたちまで氷漬けになったかのように、その場の誰1人として動けなかった。
長く続くキスにしびれを切らしたレイヴンが、再び吠える。
その鳴き声で、ようやく磁石のように引き寄せられていた2人の唇が離れた。
「……吉郎、愛してる」
「……うん……僕も……愛してるよ……」
一呼吸置いた2人へ、貴聞は極めて冷静な口調で言った。
「堀田さんって策士ですね。最初から"キスできない"とブラフを張って、この舞台を作ったんですか?」
「俺はお前じゃねえ!閉じ込めておきながら逃げられるように見せかけて、逃げたら『なぜ逃げた』って責める性根の腐ったお前とは違う!」
堀田は君野を強く抱き寄せたまま言い返す。
だが、その腕は小刻みに震えていた。
「武者震いですか?」
貴聞は堂々と立ち、蛇のように妖しく光る目だけを動かす。
堀田も鋭い眼差しでその視線を受け止め、吐き捨てるように叫んだ。
「言ってやる!!! 吉郎は1番好きな奴とキスすると、その相手の存在と記憶だけが消えるんだ!!!」
「……はい?」
「明日、忘れていれば、お前は2番だったってことだ!後悔するのはお前だ!」
「え?どういうこと……?」
君野も初めて聞く話に目を見開く。
その背中を、堀田は優しく撫でた。
「お前、明日吉郎とキスしてみろよ。そうすりゃ、自分がずっと2番だったって絶望するはずだ。ざまあみろだ!」
さらに一歩踏み込み、堀田は言い放つ。
「俺たちは、それでも何度でもこうやって互いを見つける。お前とは愛の大きさも、積み重ねた信頼も、ベクトルが違うんだよ!」
勢いよく中指を立て、その指先を貴聞の鼻先へ突きつける。
風圧で前髪がわずかに揺れた。
しかし、その中指の向こうにある蛇のような瞳は、一度も瞬きをしない。
微動だにしない。
底知れない静かな眼差しだけが、堀田をじっと見据えていた。




