第24話「騒がしいとりかご」
その日の午後4時。
君野はベッドへ寝転がり、仰向けのまま両腕を伸ばしてスマホを掲げ、アプリを探してはインストールとアンインストールを繰り返していた。
だが、その表情はどこか虚ろだった。
ミッションをクリアしたあとに映る黒い画面の中の自分とすら、まともに目を合わせられない。
「はあ……」
僕は、一体どうしたらいいんだ。
堀田くんに「キスして」なんて言って、またお茶を濁されたら……。
「でも、このままじゃ絶対にいけない……」
脳が動けば、そればかり考えてしまう。
堀田くんは、一体どういうつもりなんだろう。
もういっそ、「お前のことは好きじゃない」って言われたほうが楽なのかな。
――外してもいいけど、外さないでって言った方が心はラクでしょ?
貴聞の言葉が、逆に胸を締めつける。
僕がこのリングを外しても、彼は本当に堀田くんごと愛す……なんて言うのかな。
「……」
両肘をシーツにつけたままゲームをしていると、首元のチェーンがブランコのようにゆらゆら揺れる。
今度は仰向けになり、両腕を真っすぐ天井へ伸ばした。
君野は無理やりゲームへ意識を戻そうとする。
……それにしても、面白いゲームを探したいだけなのに、始める前から広告ばかり表示される。
その煩わしさに、少しずつ苛立ちが募っていった。
「あれ……なんか見たことある……」
沈んだ気分の中へ、どうでもいいCMがすっと入り込んでくる。
出演しているのは、どちらも若く綺麗な女性だった。
そういえば、この人……。
ほかのビジネス系CMにも出ていた気がする。
「そっか。同じ人なんだ」
売り出し中の若手女優なのかな。
「ぶあっ!!」
そんなことを考えた瞬間、手が滑った。
スマホがそのまま顔へ落ち、鼻の付け根へ鈍い衝撃が走る。
「痛っ……!!!」
「君野様、いかがなさいました?」
等々元が、鼻を押さえる君野の顔を覗き込んだ。
部屋の中をあまりにも静かに動く彼の存在を、一瞬忘れかけていた。
そんな醜態を見られたことが、急に恥ずかしくなる。
「鼻が痛い……ここが……」
上半身も起こさないまま、子どものような甘えた声が漏れた。
かまってほしい――そんな誘い水だった。
等々元はそれを察したように穏やかに微笑み、白い手袋を外す。
そして指先で、君野の鼻筋へそっと触れた。
「……少し赤くなっていますね。しかし骨は丈夫そうです。このまま様子を見ましょう」
努めて明るく答える。
だが君野は、いつの間にか等々元のジャケットを赤子のように左手で握り締めていた。
潤んだ瞳で見上げられ、等々元は珍しく少しだけ困った表情になる。
「僕はまだ痛いの。痛くてしょうがないのに、なんでわかってくれないの?」
頬を膨らませ、駄々をこねる。
「十分承知しております。しかし、君野様がお手を滑らせ、お鼻を痛めた原因には、やはり睡眠の質も関係しているかと」
「あ……そうだよね。僕、3日間も寝てたんだよね……」
「さようでございます。眠りが浅いと人は夢を見ます。そして時には、彷徨い、食卓で美味しいハンバーグを召し上がることもございましょう」
等々元は冗談を言うわけでもなく、真剣な口調で話す。
それは君野が眠っていた3日間、実際に起きていた出来事だった。
眠ったまま食事をし、トイレへ行き、屋敷の中を歩き回っていたという。
「僕ね、それを直したいの。だって、食べてないのと一緒なのに、食べたことになってるなんて……美味しいって思えないのは辛いでしょ?」
「君野様は、その3日間で何か夢をご覧になりましたか? 夢の内容次第で、睡眠の質をある程度推し量れるかもしれません」
「……でも、朝なんとなく何か見ていた気はするんだけど……。貴聞くんの寝起きのキスで全部吹っ飛んじゃって。怖かったような……怖くなかったような……うーん……」
君野は腕を組み、一人静かに唸る。
「恐ろしい夢だったのでしょうか?」
「かもしれない……。等々元さん、なんとかして。僕ね、今は等々元さんが一番好きなの」
その真っすぐな瞳を受け、等々元はらしくないほど瞬きをした。
数秒見つめ合ったあと、柔らかな笑みを浮かべる。
「ご安心ください。ひとつ妙案がございます」
「君野様がお休みになる際、私が傍らで本を読み聞かせてはいかがでしょう」
「ええ!いいの?いつも忙しそうなのに……!」
「はい。新米の執事たちも、ようやく仕事が板についてまいりましたので、今は多少余裕がございます」
「そっか……ありがとう」
君野の潤んだ瞳を見つめながら、等々元は少しためらうように口を開いた。
「実は……誰にもお話ししていなかったのですが、君野様が3日間お休みになっている間、うなされている姿を拝見しまして。遠くにいる家族を思い出し、本を読み聞かせたことがございます」
「え!そうなの?夢には出てこなかったけど、寝起きはよかったよ」
「いえ、正確には私の本ではなく、娘の絵本でございます」
「娘さんの?」
「はい。もう使わなくなったものですが、表紙の裏に『お仕事頑張って』と書き添えてくれたものでして……今も大切に持ち歩いております」
「そうなんだ……等々元さんらしいね」
「私の声は、どうやら眠りに適しているようでして。明日からまた父に会えなくなるとぐずっていた娘も、読み聞かせを始めると、いつの間にか眠っていたことがございます」
等々元は穏やかに微笑む。
「今夜から、君野様にも絵本をお読みいたしましょうか」
「うん! して! ありがとう! 今日の夜から!」
君野は満面の笑みを浮かべ、握っていた等々元のジャケットからようやく手を離した。
それから数日。
等々元の読み聞かせは、すっかり君野の日課になりつつあった。
その声に安心したのか、再び長い眠り姫になることもなく、どうにか普段どおりの日々を過ごしている。
しかし、その間も胸の奥に引っかかっていることがあった。
堀田に遠回しにキスを断られて以来、廊下ですれ違っても、どこか自分から壁を作ってしまっている気がする。
どうしたらいいんだろう……。
君野は白戸家の中庭にある噴水の縁へ腰掛けていた。
足元では、甘えん坊の黒いボルゾイ――レイヴンが腹を見せて寝転がっている。
君野の頭や肩には、小鳥たちが好き勝手に乗っていた。
ふと顔を上げ、隣にそびえる迎賓館のような白戸家を眺める。
2階の窓越しに、堀田の姿が見えた。
保父のように見聞の甘えを全力で受け止め、背中へおぶっている。
僕が眠っている間に、また仲良くなったんだろうな。
見聞様も、今は鳥より堀田くんなんだ。
だからこうして、ペットの鳥たちが僕を囲んでいる。
すると、肩に乗っていた小さな黄色いインコが、その光景を見ながらチッチと鳴いた。
「君も寂しいよね……」
てっきり、主人に愛想を尽かされたのが寂しくて鳴いているのだと思った。
だが次の瞬間、耳元のインコが甲高い声で喋り始める。
「ホッタ!ホッタ!オマエ!カマエ!」
「あれ?キルユーじゃない……」
その瞬間、胸の奥へ毒々しい嫉妬心が渦巻いた。
「ホッタ!!ホッタ!」
「……やめて……」
「オマエ!イイヤツ!ヘンジン!ゲボクダチ!」
「……お願いだから、そっちに行かないで……」
君野は閉じた太ももの間で両手を組み、強く握り締めた。
それ以上、堀田くんの言葉を覚えないで。
また僕が眠ってしまったら、堀田くんはもう戻ってこないかもしれない。
「……!」
その時、頭の中で小さな花火が弾けた。
そうだ。
僕が夢の中をさまよっていたのは、誰かを探していたからだ。
誰を……?
胸を締めつけるほど強い感情だけが、かすかによみがえる。
記憶はほとんど残っていない。
それでも、ずっとずっと堀田くんと一緒にいた日々を求めていた。
だから夢の中でも、出口のない屋敷をさまよい続けていたんじゃないか。
「……なんで……」
僕にキスをしてくれないのは、どうして?
「堀田くん……!!!!」
君野が勢いよく駆け出した瞬間、肩に止まっていた色とりどりの小鳥たちが、花火のように一斉に空へ舞い上がった。
ただ1羽だけ。
主人の足並みに合わせるように、忠誠心の強いレイヴンだけが必死に後を追う。
まるで溺れた川から這い上がるような形相で、君野は館内へ飛び込み、召使いたちの間を縫うように駆け抜けた。
そして、大階段のある正面玄関ホールへ戻ると、そこには堀田が1人きりで立っていた。
「お、吉郎……」
1階から2階へ向かって慌ただしく駆け上がってくる君野を見つけ、堀田は思わず目を丸くする。
何が起きたのかわからず立ち尽くしていると、君野はそのまま胸へ飛び込み、強くしがみついた。
「お願い、行かないで!! 戻ってきて……僕とキスしてよ……!」
悲鳴にも似た叫びが、堀田の胸を鋭く貫く。
「吉郎……?」
突然のことに、堀田は腕を上げたまま固まってしまう。
だが、胸元へ顔を埋める君野の肩は、小刻みに震えていた。
その震えだけで、どれほど追い詰められていたのかが伝わってくる。
「お願いだから……もう逃げないで……」
君野は服を握る手へさらに力を込めた。
「僕、夢の中でもずっと探してたんだ……出口もない屋敷の中で、ずっと……」
堀田の瞳が大きく揺れる。
夢。
その言葉だけで、自分が何度も見続けたあの悪夢が頭をよぎった。
「……夢?」
「記憶はないの。でも、ずっと誰かを探してた。今、やっとわかったの……」
君野は涙で滲んだ瞳を見上げる。
「探してたのは……堀田くんだった」
堀田は息をのんだ。
夢の中で何度呼んでも届かなかった声。
噴水の前で何度も叫んだ「ここにいる」という言葉。
そのすべてが、一瞬で胸によみがえる。
「吉郎……」
「だからお願い……」
君野は首から下がるリングを震える指で握り締めた。
「もう離れないで……」
堀田は何も答えられない。
答えようとすればするほど、呪いのキスのことが喉元まで込み上げてくる。
だが、それを言うことはできない。
言えば、今まで守ってきたものがすべて壊れてしまう。
だから堀田は、震える君野の背中へそっと手を添えることしかできなかった。
そのぬくもりに、君野はさらに強く抱きつく。
もう二度と離したくないとでも言うように。




