第23話「和食とリング」
「う……ん……」
君野が目を開けると、見慣れた天井が視界いっぱいに広がっていた。
自分の部屋のベッドだ。
「あれ……? 僕……」
顔だけを少し持ち上げる。
昨日、いつ、どうやって眠ったのか、まるで覚えていない。
直感的に、そう感じた。
ぼやけた視界の中、すぐ近くに人影がある。
トレードマークの黒いスーツかと思い、目を凝らす。
しかし今日は、黒に近い赤ワイン色のスーツを着ていた。
相変わらず細身のシルエットなのに、不思議と目を奪われる。
貴聞は、先日、美術館で買ってもらった絵の配置が気になるのか、顎へ指を添えながら眺めていた。
不意にこちらへ顔を向ける。
目が合った瞬間、穏やかに微笑んで近づいてきた。
「おはよう」
マットレスへ片手をつき、顔を寄せる。
次の瞬間、いきなり唇へキスをされ、そのまま強く抱きしめられた。
「ど、どうしたの……!?」
寝起き早々、こんなに胸を高鳴らせられるとは思わなかった。
見ていたはずの夢の内容まで、すべて吹き飛んでしまう。
「ねえ、今が何時で、何月何日かわかる?自分の名前も言える?フルネームで」
貴聞は心配そうに君野の顔を覗き込み、両手で頬を包んだ。
その様子は、優しい医療従事者のようだった。
「え?今?えーと……6月9日じゃないの? 僕の名前は、君野吉郎」
「……よかった。名前、言えたね」
「……今日、9日だよね?」
「いや。6月12日の午後2時」
「え?嘘だ!」
口をあんぐり開ける君野へ、貴聞はベッド脇に置かれていたスマホを見せた。
画面には、確かに6月12日午後2時と表示されている。
「え……僕、そんなに寝てたの? 頭を打ったとか?」
「ううん。9日に昼寝したまま、ずっと眠り続けてたんだ。夢遊病みたいにふらふらしながら、食事も着替えもしてたよ。大好きなハンバーグも食べてたし、レイヴンには一方的にべろべろ舐められてた。でも、意識はずっと夢の中にいるみたいだった」
貴聞は君野の頭を胸元へ包み込み、優しく抱きしめた。
「心配だったから、僕がずっと隣にいたんだ」
赤ん坊をあやすように、身体をゆっくりと揺らす。
「ねえ、どんな夢を見てた?和牛ハンバーグ、美味しそうに食べてたけど、夢の中でも味はした?出張サービスで呼んだピザを食べたのも覚えてない?」
胸の中へ広がりかけた暗雲へ、食欲という傘を差すような言葉だった。
3日間も意識がなかった。
考えれば考えるほど、怖くなる。
だから今は、考えたくなかった。
君野の頭は、自分の症状への不安よりも、食べ物のことでいっぱいになっていく。
「ま、待って……じゃあ僕、3日間も美味しいものを食べてたのに、全然味わえてないの!?」
「夢の中までは届かなかったんだね。残念。動物の動画でも、眠ってる犬の鼻先におやつを出すと、クンクンして起きるでしょ?ああなると思ったんだ」
「僕、犬じゃないよ。でも、美味しいものには目がないけど……」
「うん。知ってる。だから吉郎は可愛いんだよ」
貴聞は少しだけ考え、すぐに笑った。
「そうだ。リベンジで外食する?」
「……うん!」
まずは腹ごしらえだ。
そう言わんばかりに、目覚めた胃がすぐさま音を立てる。
貴聞に呼ばれた等々元の前で、君野は「マネキンです」とでも言うように両腕を広げた。
目を輝かせる君野へ、等々元はにこやかに微笑み、クローゼットから外食にふさわしい服を選んでいく。
「あ……」
着替えの途中で、君野はようやく胸元に気づいた。
白いワンピースを脱いだ下。
堀田との指輪が、元の位置へ戻されている。
「……」
金色の鎖に囚われたリング。
それを見た瞬間、貴聞と交わしたキスの感触がよみがえった。
食べ物に支配されていた頭へ、取り返しのつかない黒い雫が落ちる。
透明だった水が、少しずつ心まで濁らせていく。
「いってらっしゃいませ」
等々元に見送られ、君野と貴聞は、いつもの運転手付きの高級車へ乗り込んだ。
「吉郎、目を覚ましたのか……」
少し離れた庭で掃き掃除をしていた堀田は、車窓から見える君野を眺めることしかできなかった。
車へ乗り込む直前、等々元と貴聞の会話が聞こえた。
これから、上等なものを食べに行くらしい。
「3日も寝てたしな……」
眠りながら自力で動いていたとはいえ、その間ずっと、吉郎はあの黒い坊っちゃんの手の中にいた。
食事も着替えも、何もかも付き添われていたらしい。
俺の顔まで忘れているかもしれない。
呪いのキスのことは言えない。
だが、その間にも、あの腹黒王子が何かを探ろうとしていたことはわかる。
吉郎が突然眠り込んだことで、一時休戦になっただけだ。
「夢……」
深い眠りという形で、呪いのキスが発動しているのかもしれない。
俺もここ数日、真っ暗な屋敷をさまよう夢を何度も見ている。
短い休憩中の仮眠にまで出てくるほどだった。
「どうされました?」
箒を持ったまま立ち尽くしていると、見送りを終えた等々元に声をかけられた。
その「どうされました?」は、店員が「通れません」を「いらっしゃいませ」で包むような言葉だ。
つまり――何をさぼっているのですか。
そう言いたいのだろう。
「ああ、すみません。つい見とれてしまって」
堀田は真横にある庭園の噴水へ目を向けた。
円形の水盤には常に水が張られ、この屋敷で飼われている動物たちの飲み水にもなっている。
中央には壺を重ねたような曲線の柱があり、上から水が絶えず溢れていた。
「ああ、噴水ですか。何か気になる汚れでもございましたか?」
等々元に尋ねられ、堀田は改めて噴水を凝視する。
夢の中で見たものと、形も大きさもよく似ている。
思ったことが、そのまま口から漏れた。
「……最近よく夢に出てくる噴水に、そっくりだなって。真っ暗なこの屋敷をさまよう夢なんですけど」
「……それは、どのような内容でしたか?」
「え?そんなに気になります?」
堀田は思わず眉をひそめた。
等々元ほどの執事が、業務中に新米召使いの夢の話へ食いつくこと自体、不自然だった。
「失礼いたしました。業務中でしたね」
等々元は丁寧に頭を下げ、その話をなかったことにするように立ち去っていく。
「なんだ……?」
探りを入れられた。
直感的に、そう思った。
等々元が屋敷へ戻るのを見送り、堀田はもう一度、隣の噴水へ目を向ける。
静かな水音。
時折、弾けた雫が水盤の外へ飛び散る。
「……なんで気になった?」
等々元が召使いの雑談へ興味を示すとすれば、主人に関わることだけだ。
「まさか、同じ夢を見てたなんてな」
そんな気持ち悪いことがあるか?
「堀田さん! 手伝って!」
屋敷の窓から、親しくなった召使いが手を振っている。
堀田は箒を片づけると、すぐに仲間のもとへ向かった。
その頃。
食事へ向かった貴聞と君野は、和食の店を訪れていた。
着物姿の女将に、年季の入った板前。
座敷席へ通されると、貴聞は上品に背筋を伸ばして正座した。
一方の君野はあぐらをかき、メニューをまじまじと眺めている。
「いつもので」
貴聞は、通りかかった女将へ慣れた様子で告げた。
「いつもの?」
「あ、吉郎には少し味が難しいかも。ふぐ刺しは食べられる?単品の唐揚げか、天丼やうな重にしてみたら?」
「僕はもう21歳だよ。天丼でいい」
君野が頬を膨らませる。
貴聞は注文を待つ女将へ気を遣い、自分の「いつもの」と天丼を頼んだ。
「ここ、炭酸ないけど大丈夫?」
「子供じゃないってば!それにしても、3日も寝てたなんて、そんなことあるんだね……」
「うん。心配したよ。このまま目を覚まさないんじゃないかって」
貴聞は穏やかな笑みを浮かべた。
「でも、それはそれでよかったけど」
「よかった?」
「僕専用のお人形さんみたいで可愛かったから。前にゲームセンターで取ってもらったぬいぐるみを持たせて、写真も撮ったんだ」
姿勢を正したまま、にこやかに答える。
「……確かに、膝の辺りに新しい青痣があったから、どこかにぶつけたんだろうね」
君野は自分の膝へ目を落とした。
何も覚えていない3日間。
笑い話のように聞こえるのに、胸の奥には小さな不安が残っている。
やがて女将が、注文した料理を運んできた。
大きな海老や野菜の天ぷらが載った天丼。
丸い皿へ薄く並べられたふぐ刺し。
さらに、重厚なお重が盆に載せられてくる。
君野は溢れそうになったよだれを、思わず手で拭った。
「わあ!これ、ドラマでしか見ないよ!」
「ふぐ刺し?」
「うん!これでさ、殺されちゃうやつ!」
女将の前で、君野は明るく言い放った。
貴聞は目を見開き、思わず苦笑する。
「うちは丁寧に捌いておりますからね。創業100年の店ですが、事故は1度もございません。安心して召し上がってください」
「はい!」
ベテラン女将の柔らかな言葉に、君野が満面の笑みで頷く。
一瞬張り詰めかけた空気が、すぐに和らいだ。
「吉郎もふぐ刺し食べて。美味しいよ。ポン酢がおすすめ」
貴聞は小皿へポン酢を注ぎ、お重の蓋を開けた。
中には香ばしい焼き色のついた鰻が、艶のある甘だれをまとって並んでいる。
「おいしそー!」
「少し食べてみる?」
「ありがとう!ちょっとでいいからね!」
もらう気満々で天ぷらを頬張る君野に、貴聞の笑みが止まらない。
よかった。
いつもの吉郎が帰ってきた。
その安堵は、君野へ分ける鰻の量にそのまま表れていた。
「おいしー!サックサク!」
君野の無邪気な声に、強張っていたカウンターの大将の顔が一瞬ほころぶ。
貴聞は、その変化も見逃さなかった。
「ねえ、吉郎。そういえば、僕買っちゃったんだ」
食事を終え、2人で温かいお茶を飲んでいた時だった。
貴聞の視線が、君野の胸元へ落ちる。
「覚えてない?吉郎が眠る少し前に約束したこと」
「約束?」
「堀田さんにキスしてほしいって頼んで、それでもしてくれなかったら、そのリングを返すって」
「……ああ。確か、そんなこと言ってたね」
「それでさ」
貴聞はわずかに目を伏せた。
「しばらく目を覚まさないかもしれないって、お医者さんに言われた時、たまらなくなって買っちゃったんだ」
「何を?」
「僕たちのペアリング」
貴聞はそう言って、スーツの懐から小さな黒い箱を取り出した。
一目でリングケースとわかる、コンパクトミラーほどの大きさだ。
蓋を開けると、2つのリングが上下に並んでいた。
「見て。ダイヤモンド。綺麗でしょ」
「うわ……すごい……」
1つは、ギラギラと光を放つ無色透明のダイヤモンド。
リング部分にも小さなダイヤが敷き詰められ、光を受けて七色にきらめいている。
「結婚するの?」
「恋人用だよ。結婚指輪はもっともっといいもの。僕はこれを吉郎の指につけてあげたい」
「え、でも……これも十分すごいけど……」
君野がふと視線を下へ向ける。
もう1つのリングには、黒いダイヤモンドがあしらわれていた。
ギラギラとは光らず、漆黒の輝きを放つ、いかにも貴聞らしいデザインだった。
「これは貴聞くんがつけるの?」
「あ、わかった?」
「本当に黒が好きなんだね」
「どうして僕が黒を選ぶと思う?」
「え……なんでだろう。強いイメージがあるから?」
「ううん。黒って白をより際立たせるでしょ? だから黒を着ていると、より映えるんだよ」
「何が?」
「僕の美しさが。吉郎の可憐さが」
その言葉に、君野はどう返していいかわからず黙り込む。
ちょうど昼時だったこともあり、店内へ客がどっと流れ込んできた。
店員たちが忙しく動き回り始めたため、2人は席を立つことにする。
貴聞はリングケースを胸ポケットへしまい、静かに言った。
「僕は信じてる。このリングが、あるべき場所に届くことを」
「……うん……」
……堀田くん。
君野は温かいお茶を飲みながら、満たされた胃とは裏腹に、頭の中ではずっと堀田のことを考えていた。
堀田くんと来られたら、どれだけ幸せだっただろう。
お土産だって買って帰りたい。
他愛ない話をしながら、一緒に歩きたかった。
だけど今は、それが許されない。
さっき見た眩しすぎるリングは、首から下げた堀田とのリングを上から塗り潰すように、強く輝いていた。
もう、2つを同時に身につけることはできない。
堀田くんが僕にキスをしてくれないなら、このままずっと宙ぶらりんでいるのは、貴聞くんにも申し訳ない。
どちらにも曖昧なままでいることが、一番残酷なのかもしれない。
「決着……つけなきゃ……だよね……」
先に車へ乗り込んだ貴聞には聞こえないほど小さな声で呟く。
君野は胸元のリングをそっと握りしめ、静かに車へ乗り込んだ。




