第22話「幻想夢」
堀田はその日の夜、召使い服のまま個室のベッドへ倒れ込み、そのままうとうとしていた。
白戸家の見習いや、何年経っても位が上がらない召使いたちは、皆この「召使い専用の居住スペース」で暮らしている。
本館から少し離れた灰色の建物。
男女で建物は分かれ、共有のトイレやシャワー室、ランドリー、大食堂まで完備されていた。
さらに外出は厳しく制限され、コンビニへパン1つ買いに行くにも許可証が必要だ。
白戸家のことを外で口にすれば即刻クビ。
秘密を守るため、この場所のすべてが囲い込まれている。
その代わり、生活に必要なものは一通り揃っていた。
食堂の飯はそれなりに美味い。
スキンケア用品まで扱う小さな売店や、簡易医務室もある。
外へ出なくても、生きることには困らない。
「これはこれで悪くない……」
ベッドへ寝転びながら、昔、コンビニが1階に入っているマンションへ憧れていたことを思い出した。
だが、仕事と生活の境目がなくなると、休んでいても仕事モードのままだ。
――ここには逃げ場がない。
6畳ほどの個室。
縦長の細い窓が1つ。
クローゼットと机を置けば、それだけでもう余白は残らない。
眩しすぎるプラスチック製の照明を見上げながら、堀田は右手で額を覆った。
汗ばんだ身体。
脱ぎ散らかしたサンダル。
ベッドから投げ出した左腕は、もう持ち上がる気配すらない。
「……」
脳裏によみがえるのは、昼間のあの坊っちゃんの豹変ぶりだった。
完全に舐めていた。
まさか、あそこまで人格が切り替わる相手だったとは。
「ダテに白戸家してねえな……」
仲良くなった召使いたちから集めた情報も、大きな収穫だった。
吉郎がここにいるのは、当主の意向らしい。
弱者教育プログラム……
白戸家に代々伝わるという噂まである。
獅子は我が子を谷へ落とす――そんなことわざが頭に浮かんだ。
白戸家は今、その谷役を吉郎へ課している。
「この家、飲まれたか……」
その話を聞いた時、怒りと同時に妙な共感も湧いた。
俺も今、その谷底にいる。
いや。
もう適応して、住み着いている。
実際、あの白戸家ですら吉郎に飲み込まれた。
そう考えると、不思議なくらい腑に落ちた。
「……本当、どうかしてるよな」
恋敵の家から給料をもらい、その屋敷で働いている。
我ながら正気じゃない。
だが同時に、吉郎がいなければ明日食う飯に意味なんてない。
しかし、このままでは俺はただの白戸家の召使いになってしまう。
どうすればいい――。
そんな答えの出ないことを考えているうちに、部屋の明かりをつけたまま重たいまぶたが閉じていった。
「……あれ?」
ん?
ここはどこだ?
気づけば召使い服のまま、真っ暗な建物の中へ立っていた。
「ここは……白戸家?」
間違いない。
絨毯の柄も、照明の形も、今日設置した花瓶の植物まで一致している。
だが暗すぎる。
ここが何階で、どの場所なのかまではわからない。
広い屋敷だ。
まだ足を踏み入れたことのない場所なんて山ほどある。
「……停電か?」
右手を壁へ添え、何も見えない廊下をゆっくり歩く。
妙だった。
屋敷に、人の気配がまるでない。
まるで孤城になってしまったかのようだ。
「おーい!! 誰かいるかー!!」
何か非常事態が起きた。
そう判断した堀田は、大声で安否を確認する。
しかし返ってくるのは静寂だけ。
誰の声も、足音も聞こえない。
廊下は真っ暗なままだ。
「電気のスイッチ、どこだ……?」
壁を手探りで探しても、それらしいものには触れない。
「なんだなんだ? まさか知らない間に火事になって、俺だけ逃げ遅れたとかじゃねえよな……」
それなら薄情にもほどがある。
やがて暗闇へ目が慣れ始めた頃、衝撃の事実に気づく。
「……無限廊下?」
右へは曲がれず、左へ左へと続く廊下。
普通なら1周すれば元へ戻るはずなのに、いつまで歩いても外へ続く階段が現れない。
まさに永遠の「口」の字だった。
中盤です。夢の中の噴水は、等々元から聞いた「泉」という言葉が無意識に混ざったものとして、露骨にならない範囲で整理しています。
「……俺、疲れすぎて頭おかしくなってんのか?」
右手を腰へ当て、左手で頭を乱暴にかいた、その時だった。
――堀田くん、どこ?
「吉郎!?」
か弱い声が、暗い廊下へ響き渡った。
どこかの放送室から、屋敷中のスピーカーを通して流れてくるような、不自然な反響。
その声を聞いた瞬間、この場所から脱出することなど、どうでもよくなった。
吉郎を探す。
目的は、それだけに変わった。
「どこだ!!?」
廊下に並ぶ扉を次々と開け、中をざっと見渡していく。
ゲストルーム。
書庫。
美術品が並ぶ部屋。
何も使われていない、物置のような部屋。
どこにも変わったものはなく、吉郎の姿もない。
――堀田くん、どこ?
繰り返されるその声は、遠くから聞こえてくるようで、すぐ耳元にあるようでもあった。
まるで、自分の頭の中だけで響いているようにも思える。
「吉郎!!!助けがいるのか!?」
――堀田くん、どこ?
同じ声が、ただ繰り返される。
返事はない。
呼びかけに反応しているわけでもない。
それでも堀田は、声を頼りに暗い廊下を走り続けた。
しかし、10分以上探しても、その主は見つからない。
「くそ……どこにいるんだよ……」
立ち止まり、荒い呼吸を整えようとした、その時だった。
「ん?」
目の前に、白い小さな何かがふわりと落ちてきた。
足元へ転がったそれを拾い上げる。
「なんだ、これ……」
白く、小さな欠片。
「……貝殻?」
顔を上げると、同じ欠片が床一面へ無数に散らばっていた。
白い光を帯びた貝殻が、暗闇の中で淡く瞬いている。
まるで海のプランクトンが発光し、夜の浜辺をイルミネーションへ変えたようだった。
幻想的な光景に、無限廊下の不気味さがわずかに和らぐ。
それは同時に、この場所を照らす唯一の明かりにもなっていた。
「さっきまで、こんなものなかったよな……」
花畑のように広がる貝殻の上を、慎重に歩いていく。
左へ曲がっても、さらに左へ曲がっても、白く光る絨毯は途切れない。
まるで、どこかへ導こうとしているようだった。
やがて、その光はある場所で唐突に止まった。
「ここは……」
1つの部屋の前だった。
液体をこぼした起点がここだったかのように、貝殻の絨毯はこの扉から廊下へ広がっている。
見慣れた、ごく普通の扉。
堀田はゆっくりとドアノブへ手を掛けた。
「吉郎!いるのか?」
勢いよく扉を開ける。
案の定、部屋の中にも白い貝殻が敷き詰められていた。
ここは確か、吉郎の部屋だ。
家具の配置も、窓の形も間違いない。
だが、窓際のベッドの上には、見慣れないものが置かれていた。
「……噴水?」
白い石でできた丸い噴水が、水を吹き上げながら、ただそこに存在していた。
豪邸の中庭に置かれていそうな、比較的小さなもの。
チェスのポーンを思わせる柱の上に、2段の皿が重なっている。
噴き上がった水は上の皿から下の皿へ流れ落ち、絶え間なく静かな音を響かせていた。
「なんだこりゃ……」
部屋の中にある噴水。
外で見れば何でもないものなのに、閉ざされた室内に置かれているだけで、異様な存在感を放っている。
「堀田くん、どこ?」
噴水の水音に混じって、君野の声が聞こえた。
「吉郎!?」
堀田はすぐさま噴水へ駆け寄り、縁へ両手を掛ける。
「俺だ!!ここにいる!!」
身を乗り出し、水面を覗き込む。
しかし、揺れる水に映っているのは、召使い姿の自分だけだった。
吉郎の姿はどこにもない。
「堀田くん、どこ?」
「ここにいるだろ!なあ!聞こえてるだろ!?」
「堀田くん、どこ?」
同じ言葉だけが繰り返される。
まるで、悪質ないたずらで仕掛けられたスピーカーだった。
声は近い。
こんなにも近くにいるはずなのに、届かない。
姿も見えない。
触れることもできない。
噴水の縁を掴む指先へ、痛いほど力がこもる。
「吉郎……」
絶望が込み上げ、目に涙が滲んだ。
俺の声は、もう届かないのか……!!
「はっ……!!!」
堀田は勢いよく目を覚ました。
荒い呼吸を繰り返しながら、眩しい照明を呆然と見上げる。
数秒遅れて、ようやく夢を見ていたのだと気づいた。
「はあ…腹減った」
目覚めてから売店へ行き、カップ麺を作る場面まで整える。
慌てて枕元のスマホを覗くと、眠ってから3時間しか経っていなかった。
「……よかった」
午前1時。
出勤時間ではないことを確認し、堀田は冷や汗を拭った。
両手で汗ばんだ顔を揉み込む。
現実へ戻ってきた安心感とともに、胃も頭もようやく動き始めた。
堀田はラフな格好へ着替えると部屋を出た。
終わってしまった食堂を見て、一人静かに舌打ちする。
廊下は長く、無機質で、誰もいない。
あの夢の中の静けさ、そのものだった。
夢の中で味わった心労まで思い出される。
やがて、寂しく光る売店の看板の前で立ち止まる。
すると、さっき見た夢の内容が少しずつ整理されていった。
……いや、所詮は夢だ。
あまりにもあいつが恋しすぎて、妙なものを見ただけなんだろう。
そう自分に言い聞かせながら、社割価格で買えるカップ麺と惣菜パンへ手を伸ばした。
「ビール飲みてえ……」
あるはずがない。
いっそ裏門を飛び越えて、コンビニまで行ってしまおうか。
そんな冗談を心の中で呟き、苦笑する。
……どうせ答えなんてない夢の世界だ。
堀田はふらふらと部屋へ戻り、売店でもらったお湯をカップ麺へ注ぐ。
出来上がったカップ麺を片手に部屋へ戻ると、惣菜パンを口にくわえたまま、蓋代わりにしていたスープの素を容器へ流し入れた。




