第21話「葛藤とパンケーキ」
その日の午後、君野は高級車の後部座席にいた。
隣には、当たり前のように貴聞が座っている。
少し前、見聞の昼食を用意するよう命じられた堀田は、「遅い!」と急かされ、屋敷の奥にある厨房へ向かった。
その隙に、貴聞は君野の腕を引いた。
堀田の消えた廊下をいつまでも見つめていた君野を、そのまま屋敷の外へ連れ出したのだ。
君野は、抜け殻のようだった。
呼びかけられても返事をしない身体のように、ただ引かれるまま足を動かしている。
貴聞は、その手へ自分の指を絡めた。
シャコ貝が閉じるように、ぴたりと隙間を塞ぐ。
だが車へ乗り込んでも、君野の指には力が入らなかった。
まるで自分の手ではないように冷たく、思うように動かない。
俯いたままの君野とは対照的に、貴聞はいつもどおり機嫌がよさそうだった。
2人きりの車内で、明るく話しかける。
「僕ね、吉郎のことを考えすぎて、暇さえあれば美味しいお店ばかり探してたんだ。そうしたら、最近できたパンケーキのお店が評判で。ほら、見て」
貴聞の指先を追い、君野は車窓へ顔を向けた。
道沿いには木々や花のプランターが並び、西洋の街角を思わせる上品な景色が広がっている。
その一角に、小さなカフェがあった。
貴聞はグルメサイトの紹介文を丸ごと覚えてきたかのように、店について饒舌に語り始める。
コーヒーにも強いこだわりがあり、以前にも予約困難店を作り上げた腕利きの店主が経営しているらしい。
「いい匂い……」
君野の鼻が、散歩帰りの犬のようにぴくりと動いた。
胸の奥へ沈んでいた重たいものが、ほんの少しだけ浮き上がる。
「平日でも予約が難しいけど、僕たちは特別なんだ」
「特別?」
君野は首を傾げた。
特別なのは、ここへ来られることだろうか。
それとも――僕達が?
考えようとした頭へ、ふわふわのパンケーキが割り込んでくる。
甘い匂いが、まとまりかけた思考を押し流した。
「あ……」
こんなことがあった直後なのに、胃は正直に鳴った。
君野は恥ずかしそうに腹を両手で押さえ、顔をしかめる。
こんな時に、お腹が鳴るなんて。
さっき目にしたものさえ、まだ何も整理できていない。
それでも、食べたいと思ってしまう。
「……」
不服だった。
少しくらい抵抗したいのに、身体が言うことを聞かない。
頭の中はぐるぐるしているのに、鼻と腹だけが勝手に前へ進もうとしている。
あの部屋で、2人が何をしていたのか。
ちゃんと考えなければいけない。
ここで「行かない」と意地を張ってもよかった。
でも、自分のために探してくれた予約困難な店だと言われれば、無下にもできない。
何より――食べたい。
「見て。あのココナッツパンケーキが名物なんだって。吉郎はココナッツ大丈夫? 温かいパンケーキは好き?」
「……好き」
「よかった。降りよう」
2人はカフェのテラス席へ案内された。
君野が真剣にメニューを眺めている間、貴聞は頬杖をつき、その顔をじっと見つめていた。
視線を外さない。
まばたきすら少ない。
観察しているというより、味わうような目だった。
あまりにも見つめ続けるため、君野がメニューの上からひょこりと顔を出す。
「僕の顔に何かついてる?」
「ううん。可愛いなって」
「僕が可愛いかより、パンケーキどうするの?」
貴聞はくしゃりと笑い、重ねた両手の甲へ顎を乗せた。
「ええええっ!?貴聞くん、モンブラン!」
「どうしたの?」
「秋はパンケーキにモンブランが乗ってるんだって! 見て!」
「じゃあ、秋にまた2人で食べに来よう。今日は名物のココナッツパンケーキにしない?」
君野は目を輝かせ、高速で2度頷いた。
2人は黒いエプロン姿の店員を呼び、アイスコーヒーとクリームメロンソーダも注文する。
「楽しみだね」
「うん!」
君野はナプキン入れの隣に置かれた、店の案内が挟まったアクリルスタンドを手に取り、じっと眺め始めた。
その横顔へ、貴聞が微笑んだまま問いかける。
「慣れた?」
「ん?」
「堀田さんがいる生活には、もう慣れた?」
「あ~、うん……慣れた」
「吉郎はさ、堀田さんの記憶があんまりないって言ってたよね。でも、そうやって『堀田くんだなぁ』って思えるのは、どうして?」
「なんか……そう思うって感じかな。堀田くんって、すぐやかんみたいに沸騰しちゃうけど、すごく優しくて、かっこよくて、僕のことが好きでたまらないって感じなんだぁ」
「今朝はキスしてくれなかったの?」
「え?僕と堀田くんが?」
「うん。堀田さん、本当にうちで働きたいだけには見えなかったからさ。勢いでキスくらいするんじゃないかって、少し心配してたんだ。でも、全然そういうことをしないから」
「……貴聞くんが、きっと間違えたのかなって」
「ああ、『あの日、キスしないでよかった』っていう発言?」
「そう。さっき、堀田くんはそんなの聞き間違いだって言ってたから……」
君野はそう言って俯いた。
肩をすぼめたその姿には、思っていた答えが返ってこなかったことへの戸惑いが滲んでいる。
さっき浮かべた、あの苦笑いも含めて――。
貴聞は、君野の反応を静かに拾い集めていった。
それなら、なぜ堀田さんはすべてを投げ出して、ここまで来た?
吉郎にとっても、その行動だけが理解できないのだろう。
「さっき、キスしてほしかったんじゃない?」
「え?」
「本当は、あの屋敷から無理やりにでも連れ出してほしかった。でも堀田さんはなぜか屋敷に順応していって、吉郎が自分の手から離れていくように見えた。……僕には、そんなふうに見えたけど」
「貴聞くんって、なんでも読み取れるんだね……」
図星を突かれた君野は、太ももの上で両手をもじもじと揉み合わせた。
「吉郎がそのリングを外さないのは、まだ堀田さんに何かを期待してるからなのかなって、僕は思ったんだ」
「外すなって言ったの、貴聞くんだよ……」
「ううん。外してもいいよ。本当は、もっといいものをつけさせてあげたいから」
貴聞は穏やかに微笑んだまま、君野の胸元へ視線を落とす。
「でも、外すなって言った方が、今の吉郎は安心できる気がしたんだ」
「……分かんない。でも、さっき……僕、見ちゃったから……」
「何を?」
「……鍵が開いた時、堀田くんの顔が赤くて……貴聞くんの服も乱れてたから……」
君野は膝を寄せ、小さく震えながら呟いた。
貴聞は何も答えない。
聞こえていないかのように、右手の甲へ頬を預けたまま、静かに君野を見つめ返す。
「堀田くんは、本当は僕じゃなくて……貴聞くんに会いに来たんじゃないかなって……。だから、僕にはキスしてくれないんだって……」
「じゃあ、そろそろ決着をつけてみない?」
「ど、どういう意味?」
君野は下がり眉のまま、困ったように貴聞を見上げた。
「吉郎がもう1度、『キスしてほしい』って堀田さんに言うの」
「え……?」
「それでもキスしてくれなかったら、彼が誰をどう思っているのか、少しは見えてくるでしょ」
貴聞の声は、どこまでも穏やかだった。
「その時は、堀田さんにもらったリングを、本人の前で外して返す」
「……」
「今すぐじゃなくていい。吉郎のペースで」
君野は何も答えられない。
胸元のリングへ、無意識に手が伸びていた。
「そうしたら、堀田さんを忘れよう」
貴聞は、君野の指先がリングを包み込む様子を静かに見つめる。
「そのあとで、今度は2人でペアリングを買いに行こう」
その時、先ほどの男性店員がテーブルへ戻ってきた。
アイスコーヒーとクリームメロンソーダを丁寧に置き、そのあと出来たてのパンケーキを運んでくる。
ふわりと積み重なったパンケーキの上へ、温かなココナッツクリームが目の前でゆっくりとかけられた。
甘い香りが、2人の間へ静かに広がっていく。
店員は一礼すると、伝票をテーブルへ置いて離れていった。




