第20話「直情、ヘビに溺れる」
堀田はその言葉に、ごまかしが利かないほど一瞬で表情を変えた。
――あの御曹司、早速吉郎に告げ口しやがったのか……!
その思いが頭を駆け巡る。
「っ……!」
その反応を見た瞬間、君野の潤んだ瞳から、また一粒涙がこぼれ落ちた。
「堀田くん?」
「あ……えっと、その……」
呪いのキスが原因だなんて、言えるわけがない。
今話したところで、あの坊っちゃんに利用されるだけだ。
お前の唇は人を狂わせる。
そんな話を吉郎にしたら、きっと自分を責めるだけだ。
それに――。
キスし合っている割に、“アレ”のルールは効いていないのか?
「やっぱり……他に好きな人ができた?」
君野は、煮え切らない堀田を不安そうに見つめる。
早く安心できる答えが欲しい――そんな思いが、その潤んだ瞳ににじんでいた。
「違うんだ!俺の一番は絶対に吉郎だけ!ただ……その時はヘルペスでさ」
「ヘルペス?そういうレーサーみたいな?」
君野は真面目な顔のまま、エアハンドルを握って左右に傾ける。
びっくりするくらい天然だ。
堀田は苦し紛れに思いついた言い訳を口にした。
「口にできる腫れ物みたいなやつ!多分その時、口にデキモノができてて、そう思った」
……我ながら、下手くそすぎる。
「……」
君野はぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、堀田の顔をじっと見つめた。
予想外の答えだったのか、少し口を開いたまま固まっている。
……分かっている。
求めていた答えじゃない。
「……ほんとに?」
消え入りそうな声だった。
「あのな……その……それに俺、そんなセリフ言ったかどうか……」
君野を安心させたい一心で、堀田は余計なことまで口走ってしまう。
「それってどういう意味?」
「えっと……そんなセリフ、俺は言った覚えがないんだ。きっと貴聞様の聞き違いだと思うぞ」
「……そっか。聞き間違いなんだね。よかったぁ」
君野はほっとしたように笑った。
どうやら、あいつの言葉より俺を信じてくれたらしい。
「絶対にこんな屋敷から出るぞ。俺とお前の居場所はここじゃない」
そう続けようとした、その時だった。
「おーい堀田!昼!ピザ食べたい~!寿司でもハンバーガーでもいいぞ~!どっちにしろ伊勢海老挟んでるやつにしてくれ~!」
高い止まり木にコウモリのようにぶら下がった見聞が、ゆらゆら揺れながら叫ぶ。
「はい!ただいま!」
堀田は反射的に、居酒屋店員のような声で返事をした。
そうだ。
俺はまだ召使いだ。
吉郎とこの屋敷を出ることはできない。
そもそも、この異常な状況にゴールなんてあるのかさえ分からない。
見聞の部屋を出て廊下へ向かった、その時だった。
君野が首元の堀田リングを、チェーンの跡が首につくほど強く握り締める。
そして、小さく甘えるように背中へ声をかけた。
「ねえ……今は、してくれないの?」
「!!」
「キスして……お願い。堀田くんがほしい」
そう言って、君野は堀田のシャツの袖をそっとつかんだ。
「……くぅぅぅぅぅぅぅ……!!」
食いしばった歯の隙間から、悔しそうな吐息だけが漏れる。
もちろん今もキスはできない。
言い訳も、もう思いつかない。
悔しさに地団駄を踏みそうになった、その瞬間だった。
「あ!」
強く握り締めた拍子に、君野の首元からチェーンがするりと外れた。
堀田のリングは床へ落ち、そのまま廊下を勢いよく転がっていく。
2人は同時に、その先へ目を向けた。
堀田が振り返る。
「うわ!」
誰かが、ちょうどリングを拾い上げていた。
その長身と黒いスーツ姿を見た瞬間、背筋が凍る。
「吉郎。また外れちゃったんだね。強く引っ張っちゃだめだよって言ったのに」
貴聞は笑いながら、親指と人差し指でリングをつまみ、その輪越しに2人を覗き込む。
中央のダイヤモンドが、小さく揺れていた。
「ごめんなさい……」
しゅんとする君野へ、貴聞が歩み寄る。
堀田が目の前にいるというのに、その頬を両手で包み込み、自分の額をそっと重ねた。
唇が触れそうなほど近い距離。
堀田は今にも牙や爪が生えてきそうな憎しみを押し殺し、拳を握り締めるしかなかった。
「ううん。いいんだよ。こうして転がっても、川に落ちても、何度でも僕のところへ戻ってくる。僕たちの強い愛が、そうさせていると思わない?」
「……うん……」
君野が一瞬だけ堀田へ視線を向ける。
だが、その顔は貴聞の指先で優しく正面へ戻された。
――我慢ならん。
堀田は奥歯をすり潰しながら、一歩前へ出る。
「それ、俺のです。俺が吉郎に贈ったものです。返してくれませんか」
「ああ、確か……そうでしたね。ごめんなさい。また失くさないよう、ネックレスに仕立てますから」
「いや、返せって言ったんです!ネックレスになんて頼んでない!!」
貴聞はリングだけを持ったまま、自室へ向かって歩き出す。
堀田は感情を抑え切れず、その背中を追いかけた。
「堀田くん!駄目だよ……!!」
細長い背中を追って殴りかかりそうな堀田を、君野が悲痛な声で呼び止める。
その声に、一瞬だけ足が止まった。
……そうだ。
ここは権力という名のヘビの巣。
俺たちは、いつでも丸呑みにされる存在だ。
そう思い直したのも束の間だった。
その迷いは数秒で消え、堀田は貴聞の部屋へ早足で向かった。
「おい!!」
開きっぱなしのドアから勢いよく部屋へ踏み込んだ。
「あれ?」
だが、姿がない。
部屋は広い。
奥にいるのだろうと数歩踏み出した、その時だった。
バタン!!
背後でドアが閉まる。
振り返ると、貴聞がドアにもたれかかり、左手をヘビのようにドアへ絡ませながら鍵を掛けていた。
ブランドのモデルのような長身で、挑発するような視線を向けてくる。
さっきまでの穏やかな笑みは消え、その態度に堀田は皿の上へ乗せられたような気分になった。
「な……なんだよ!!」
貴聞は何も答えず、堀田リングを細い黒紐へ通し、自分の首元で結び始める。
「どうです?僕にも、このリング似合うと思いませんか?」
「何ふざけたこと言ってんだ!返せって!!」
ヘビのように口元をゆがめた貴聞は、堀田の顔を斜めから間近で覗き込む。
背格好はほとんど同じ。
見れば見るほど、こいつには『世の不条理』というタイトルがよく似合う。
「お前は本当に吉郎を愛してんのかよ……。プログラム上のお遊びだったら、絶対に許さないからな!!!」
「ああ。だから、そんなに感情的になっているんですね」
貴聞は穏やかに笑う。
「安心してください。吉郎に限っては、僕が初めて手を伸ばしてでも欲しくなった存在なんです。このリングは吉郎の心そのもの。そして、堀田さんでもある」
「何言ってんだ、お前……」
「あはは。僕、堀田さんのこと好きですよ。この手作りのリング、不格好なところがあなたらしくて愛おしい。僕が同じ立場なら、同じようにはできない。本当にすごい人です。尊敬しています」
「何が言いたいんだよ!俺はリングを返せって言ってんだ!!」
「ああ、そうでしたね…」
貴聞は、うなじで固く結んだ黒紐へ手を回した。
「あれ……」
固結びにしすぎたらしく、うまくほどけない。
「……後ろ向け」
堀田は小さく舌打ちする。
貴聞は素直に背を向けると、黒シャツの上のボタンを2つ外した。
襟元がゆるみ、白い首筋があらわになる。
それだけで妙に色気がある。
堀田は眉間へ力を込め、奥歯を噛み締めた。
うなじから肩へ流れる線が、あまりにも綺麗だった。
首の長さも、耳から鼻へ続く横顔も、まるで芸術品のように整っている。
あれほど嫌っていたはずの上品な香りまで、鼻をかすめた。
動揺したせいで、黒紐をほどく指先がわずかに震える。
その震えは、相手にも伝わってしまった。
「取れました?」
「……ああ」
「それ、等々元に渡しておいてくださいね」
「は?」
「これは僕からの指示です。わかりましたか?」
貴聞は穏やかに微笑む。
はだけた襟元から覗く鎖骨が、また妙に美しい。
「そんな目で僕を見て、どうしたい?」
「はい!?」
「……なんて。さ、業務に戻ってくださいね」
そう言ってシャツのボタンを留め、ふっと笑う。
完全に主導権を握られていた。
「やばい……! コイツ、相当手慣れている……!」
堀田は慌てて部屋を飛び出し、勢いよくドアを閉めた。
「なんだ、あいつ……」
あのままじゃ、丸呑みにされる……!!
「堀田くん……?」
「!」
顔を上げると、目の前に君野が立っていた。
「どうしてそんな顔赤いの? ねえ、なんでわざわざ鍵を閉めたの?」
顔を真っ赤にし、息を荒げる堀田を、君野は不安そうに見上げていた。




