第19話「小鳥とわがまま御曹司」
午後10時。
ふと、君野の意識が眠りから現実へ戻った。
重いまぶたを開けると、隣に貴聞がいた。
なんで!?
一瞬ぎょっとしたものの、自分も貴聞もパジャマを着ている。
どうやらここは、貴聞の部屋にあるキングサイズのベッドらしい。
等々元や、信頼された召使いしか立ち入ることを許されない、彼の聖域だ。
貴聞は、君野が目を覚ましたことにまだ気づいていない。
上半身を起こし、へそまで掛けた滑らかな光沢のある布団の上へ本を載せ、黙々と読んでいた。
室内を照らしているのは、真上の丸い天窓から差し込む月光。
そして、ベッド脇の気品ある棚に置かれたアロマキャンドルの炎だけだった。
レイヴンの部屋で一夜を共にした時と同じ甘い香りが、君野の鼻から脳へ広がり、身体の奥を疼かせる。
というか、そもそも僕、なんでここにいるんだっけ……?
この部屋にあるヴンちゃんのスペースには、入ったことがある。
けれど、寝室まで来たのは初めてだった。
「いつまで見てるの?見惚れてた?」
貴聞は顔を向けないまま、くすっと笑った。
相変わらず、隙があるようでどこにもない。
内心どきりとしながら、君野は上半身を起こす。
「僕、どうしてここにいるの?」
「吉郎が自分から入ってきたんだよ。僕がお風呂から上がったら、自分の寝室みたいに寝てたんだ」
「え?そうなの?いつの間に!」
「夢遊病だから仕方ないよ。でも、初めてだ。この寝室で僕以外の人が寝たのは。レイヴンだって入れないのに」
「ごめん!戻るよ……」
「いいよ。僕ももう寝るから」
貴聞は分厚い深緑の本を閉じ、ろうそくの火を息で消した。
本を整えもせず、そのまま棚へ置く。
そして、嬉しそうに布団へ潜り込んできた。
まるで修学旅行初日の夜を迎えた少年のようだった。
君野と目が合うと、あどけない顔をくしゃっと崩して笑い、鼻まで布団をかぶる。
そのまま君野の腰へ腕を回し、ぴたりと身体を寄せてきた。
ただでさえ胸が高鳴っているのに、さらさらの前髪が君野の鼻先へ触れる。
上質なシャンプーとリンスを使っているとでも言うような、心地よい香りが広がった。
また、甘えん坊の貴聞くんだ。
布団から覗く目だけが、上目遣いにこちらを見ている。
もう、そんな顔をされたら虜になってしまう。
こんなに可愛いのに、この時の彼が一番油断ならないことも、身体ごと覚えさせられていた。
そう思うと、さらに心臓が跳ね上がる。
「吉郎は、僕の中でずっと特別なんだよ」
心を見透かしたように、貴聞は甘い声で目元を細めた。
「特別なの?」
「そうだよ。僕のこんな姿を間近で見られるのは、吉郎の特権なんだ。恥ずかしいところも、失敗するところも、くよくよするところも、全部見てほしい」
「うん……」
「ねえ、頭撫でて。『貴聞くんはいつも偉いね』って言って」
「……貴聞くんは、いつも偉いね」
君野は言われるまま、貴聞の前髪を撫でる。
その間も、彼の目はじっとこちらを見つめていた。
「どう偉い?褒めてみて」
「この家を守ろうとして、いつも気を張ってるところかな。油断も隙もないって思わせる、貫禄があるというか……」
「あとは?」
「格好いいと思う。スタイルもモデルさんみたい」
「ふふ」
貴聞は照れたように笑った。
その顔に、君野の胸がまた高鳴る。
まだ、人に甘えたくて仕方がないんだ。
普段は黒いスーツを着て、いつも気を張っていなければならない。
本当は同年代のように過ごしたい日だってあるはずなのに、白戸家の跡取りとして重い責任を背負っている。
そう思うと、アロマの香りが一瞬強くなった気がした。
再び、あのレイヴンの部屋での出来事が脳裏によみがえる。
僕は、この子にとって、なくてはならない存在になっているんだ。
「吉郎のこと、幸せにしてみせるよ」
布団の中で、貴聞が君野の右手を強く握る。
そちらへ気を取られている間に、いつの間にか彼の唇が君野の唇へ触れていた。
甘ったるい声とあどけない顔が、耳と目を直接刺激する。
「プログラムが終わっても、絶対に離さないから。堀田さんみたいに酷いことは言わないよ」
「酷いこと?堀田くんが何か言ってたの?」
「昼間、寝ている吉郎に向かって、『あの日、キスしないでよかった』って言ってたから」
「その日って……キスしなかった当日のこと?」
その言葉に、貴聞が顔を上げる。
続きを促すように、君野をじっと見上げた。
「……確かに、この家に来る当日、堀田くんと少し言い合いになって、キスはしなかったけど……」
君野の瞳に涙が滲んだ。
貴聞の目元から、それまでの甘さが消える。
あの男の行動原理が、まるで読めない。
吉郎を好きなのは、単純なくらい分かる。
それなのに、どうしてあれほど従順に召使いをしているのか。
吉郎以外に、何か別の目的があるのか。
白戸家の財産を狙っているのか。
人に認められる力は、確かに人一倍強い。
周囲の召使いや見聞にも、少しずつ好かれている。
優秀すぎるスパイなのか。
それとも、ただの吉郎狂いなのか。
「吉郎?」
気づけば君野は、涙を流しながらすやすやと眠っていた。
プログラムはまだ、終わる気配がない。
でも、大丈夫。
「今日も明日も、ずっと特別だからね」
貴聞は、涙の伝う頬を撫でる。
僕がこの部屋へ招き入れるのは、僕が認めた“人間”だけ。
けれど、吉郎は人間ではない。
「だって、僕のモノだから……」
そう言って、貴聞は彼の胸元にある堀田のリングを強く握り締めた。
次の日――。
「おい、堀田。昨日のあれやってくれ」
朝から堀田は、貴聞の弟・見聞の部屋にいた。
なぜか彼に気に入られ、鳥用のひまわりの種を親指の付け根へ載せ、2メートルほど上へ弾き飛ばして口で受け止める特技を披露していた。
「ははは!!すげえ!!」
これまで周囲にいなかった、男気があり、遠慮なく突っ込んでくる堀田に、見聞は目を輝かせている。
種を飛ばしながら、堀田は何気なく尋ねた。
「貴聞様とは仲良しなんすか?」
「あ?あいつはつまんねーもん」
「どんな兄貴なんすか?」
「あいつの話ばっかすんな!なあ堀田、メイドのパンツの色、気になるか?」
見聞は部屋中の鳥たちを集め、いたずらっぽく笑った。
「賭け事して遊ぶか!何色か当てるゲーム!」
「そんなことばっかしてると、マジで人に嫌われますよ」
「お前のためにやるんだ!邪魔をするな!!」
「俺、そんなこと別に望んでないですよ」
「じゃあ、お前は何が好きなんだ?」
「そうだな……俺、5歳で亡くなった弟がいるんすけど、見聞様は俺にとってめちゃくちゃ可愛く見えますよ。小憎たらしいところも含めて」
堀田がにこやかに笑う。
「お前、変な奴だな。俺がお前の弟なら、どんなことしたいんだ?」
「そうだなあ……こういうこと!!」
太眉を上げて考えた堀田は、にやりと笑った。
両腕を持ち上げ、一気に見聞の脇腹をくすぐる。
「わっ!!はははは!!!やめろって!!」
見聞の大きな笑い声が、屋敷中へ響き渡った。
「……あれ?」
一方その頃。
君野はラフな格好で、アニマルセラピーのため屋敷の動物たちを見回っていた。
ふと、1羽の白い小鳥が頭へ止まっていることに気づく。
「これは、見聞様の鳥だ……」
屋敷の中央まで飛んできたということは、今日もメイドへのいたずらが始まるのかと思った。
けれど、妙に静かだ。
君野は小鳥を頭へ乗せたまま、見聞の部屋へ向かった。
2階にある白戸兄弟の部屋へ続く廊下。
自分の部屋の前を通りかかると、召使いたちがいつもどおり黙々と掃除をしている。
その奥へ顔を出した時だった。
彼らの真ん中を歩く、1人の召使いが目に入る。
「堀田くんだ……」
しかも背中には、あの暴君・見聞がおとなしくおぶさっていた。
嫌がるどころか、足をぶらぶら揺らして楽しそうに笑っている。
「すごい……背中に抱きつくの、等々元さんだけなのに……」
黙々と働く召使いたちの間を、見聞を背負って堂々と歩いている。
その姿が、大物ぶりを際立たせているように見えた。
頼もしすぎる姿に、なぜか自分のことのような優越感が込み上げる。
「堀田くんが、あっちの人にならないか心配だ……」
彼はあまりにも優秀だ。
そのせいで、少しずつ遠い存在になっていく気がする。
そう思った時、昨夜の貴聞の言葉が頭に響いた。
――あの日、キスしないでよかった。
「どうして、そんなこと言ったんだろう……」
その時だった。
チッチッ。
頭の上にいる白い小鳥が鳴き始める。
止め方の分からないデジタルアラームのように鳴き続けると、堀田が振り返った。
「お」
君野を見つけた途端、白い歯を見せて笑う。
その笑顔に安心し、君野も静かに手を振った。
「堀田くん……」
2人は見聞の部屋へ入った。
見聞は堀田と遊んだあと、2メートルほどの高さへ吊るされた、空中ブランコのような丸太へ移っていた。
全力で揺られながら、鳥たちと楽しそうに戯れている。
その傍らで、君野は小鳥たちの様子を1羽ずつ確かめていった。
堀田は、その姿をじっと見つめている。
「すごいな。話では聞いてたけど、本当にこんなに大人しくさせられるんだな」
その口調は、あのワンルームで暮らしていた頃と変わらない。
君野はほっとしたように、アニマルセラピーを続けた。
「うん。なんとなく分かるんだ。この子、今ちょっと元気ないな、とか。科学的な根拠はないけど」
「本当だったんだな。いや、もちろん信じてたけど」
堀田は腰へ手を当て、ははっと笑った。
やがて、すべての鳥の確認が終わる。
二人は見聞のもとへ飛んでいった鳥たちを、並んで眺めた。
「……不思議だね。僕たち、ここの屋敷に囚われているみたい」
「囚われているから、俺がこうして来たんだろ」
「それって、どうして?」
「どうなってもいいから、お前のそばにいたい。それだけだ」
「あの、ごめんね。あの日、バイト……行かなければこんなことにならなかったはずなのに」
「何言ってんだよ。お前のせいじゃない。こんなこと、遅かれ早かれだろ」
その言葉に、君野は複雑そうな表情を浮かべる。
堀田は不意に、君野の胸元のリングへ手を伸ばした。
「なんか、すげえことされてるな。これ」
「うん……」
「人の大事なもんを、ここまで加工するなんざ、人の子じゃねえな」
「あ……あの……」
君野は言葉に詰まる。
このリングが今までどんな扱いを受け、どれだけ踏みにじってしまったのか。
そう思うだけで、涙があふれてきた。
「どうした?なんで泣いてんだよ」
「僕……このリング、外せなくて……」
「俺のためにだろ?」
「そうだったんだけど……そうじゃなくなっちゃって……でも、今こうしてまた、元の意味にしようとしてる自分が嫌になって……」
「どういうことだ?これはお前を苦しめるために渡したわけじゃない」
「堀田くんは結局、僕を恨んでる?」
「恨む?俺が?恨んでるように見えるか?」
「じゃあ、聞いていい?」
「ああ」
堀田は泣きじゃくる君野の背中を優しくさすった。
見聞の大きなオウムが、「キルユー」と上機嫌に鳴いている。
その真下で、君野は意を決して口を開く。
「どうして僕と、あの日……キスしないでよかったなんて言ったの?」
「!」
堀田は目を見開き、涙に濡れた君野を見つめた。




