第18話「今は膝裏」
1週間後――。
堀田は厨房での作業や階段の取っ手の指紋取り、屋敷の高所の掃除や洗濯などを、誰よりも速く丁寧にこなしていた。
無論、君野を連れ戻すためだ。無茶はできない。
そんな実直な働きぶりを、白戸家の召使いたちを統括する等々元も静かに評価していた。
6月、曇りの午前。
暑さと湿気に耐えながら、召使いたちは慌ただしく持ち場を動き回る。
交代制の1時間の休憩になると、厨房の奥にある狭い休憩室では、若い召使いたちが談笑していた。
堀田が入ってくると、古風なメイド服を着た茶髪の女性が椅子を引く。
「堀田くん、ここ座りなよ~」
目の前には男2人と彼女が丸椅子に座り、楽しそうに話していた。
「ありがとうございます」
「やだ~、そんなかしこまらないでよ。ここ休憩室なんだし」
「堀田くん、いつもやる気みなぎってるよね。偉いよな~」
気の抜けた会話に、堀田も大学生らしい自然な笑顔を見せる。
話を聞くと、3人はエージェント経由で派遣されているアルバイトらしい。
給料や仕事のモチベーションの話で盛り上がり、白戸家で正社員になるには等々元さんクラスの実力が必要だという話題になる。
皆、あのベテラン執事の動きが洗練されすぎていて、自分たちは社会でやっていけるのか不安になったと笑っていた。
「ふ~ん。そうなのか……」
堀田は腕を組み、壁に背中を預けながら静かに聞いていた。
すると3人が顔を見合わせ、ニヤニヤしながら堀田を見る。
それに気づいた堀田は、片方の眉を上げた。
「俺さ、ちょっと前に堀田くんの背中を膝で押さえつけたの覚えてる?」
「やっぱりここに来たのって彼氏奪還?」
短髪の男2人が口元を押さえる。
どうやら召使いたちの間では、自分は貴聞様の恋敵として、君野を奪い返しに来た男だと思われているらしい。
実際そうだけど…
「そんな面白いもんでもねえよ」
「もうキュンキュンしちゃう~!君野様って本当に羨ましい!貴聞様に溺愛されて、堀田くんにも愛されてさぁ。新しい楽しみになっちゃった~!」
茶髪のメイドが身をくねらせる。
堀田のため息をよそに、話題はさらに盛り上がった。
「でもさ、辛くないの?恋人が目の前で貴聞様に寵愛されてるんだよ?俺なら心折れてるわ。堀田くん、どういうつもりで毎日ここで働いてるの?」
「それストレートすぎだろ!俺も気にはなるけど!」
「そうだよね!私も実は思ってた~!」
3人はドッと笑い、身を前後に揺らす。
堀田は話題の中心にされながらも、その空気に学生時代を思い出し、少し懐かしくなった。
腕を組み、少し考えてから口を開く。
「どういうつもり……今は膝裏だな」
「…どういう意味?」
3人は一斉に身を乗り出した。
「おはよう……あれ?」
一方その頃。
貴聞は朝10時になっても寝ている君野を起こそうと、部屋を訪れていた。
だが、ドアは半開きで、ベッドには乱れた毛布だけが残っている。
「……どこ行っちゃったんだろう」
最近の吉郎は、寝ぼけたままふらふら歩き回ることが増えていた。
鍵をかけても、眠ったまま自分で開けて出て行ってしまう。
きっと夢遊病なのだろう。
病院で診てもらい、薬も飲んでいる。
それでも、いつの間にか歩き回ってしまう。
そんなところまで彼らしいと思ってしまう自分がいた。
「吉郎ー?」
クローゼット、トイレ、浴室。
ベッドの隙間も下も探したが、どこにもいない。
ワン! ワン!
レイヴンの鳴き声が自分の部屋から聞こえた。
「僕の部屋?」
貴聞は声につられ、自室へ戻っていった。
その頃、休憩を終えた堀田は、ほうきを持って2階の廊下を歩いていた。
ついでに、君野の部屋がある南側の廊下を覗く。
会えたらいい。
そんな期待を抱いただけだった。
しかし、部屋のドアは開いたままだった。
近づくと、ドアレールの上へ投げ出された素足が見えた。
「は!?」
ワイドショーの主人公にでもなったように、一瞬、心臓が跳ねた。
忍び足で素早く近づくと、膝丈の白いワンピース姿の君野が、素足を投げ出したまま、うつ伏せで倒れていた。
「おい!よし……君野様!」
そうだ。この屋敷では、吉郎は俺より遥か上の存在だ。
慌てて顔の前へ手をかざす。
「よかった。生きてる」
ただ、気持ちよさそうに寝息を立てているだけだった。
ストレス……そりゃそうだよな。
いや、このままだと、あの坊っちゃんが来る。
悪いことでもするように、廊下へ目を走らせた。
……誰もいない。
堀田は君野の両手を引き、ドアレールに引っかかった足をどかして、ドアを閉めた。
その瞬間、抑え続けていた気持ちが限界を迎える。
君野の身体を、優しく仰向けに寝かせた。
「……吉郎!」
思わず、その上へ覆いかぶさる。
首筋へ顔を寄せ、大好きな、不器用な鳥の巣みたいな髪をわしゃわしゃとかき回した。
シャンプーも、ボディーソープも、柔軟剤も、昔とは全部違う。
「これだ!!これだよ……!!」
それでも、ずっとしたかったことだった。
鬱屈した想いを吐き出すように髪をかき回し、鼻先をぐいっと押しつける。
愛してる……!!
好きだ……!!
堪えきれず、頭へ顔を埋めた。
枕越しに頭へ頬を押しつけ、声にならない想いをぶつける。
なんでこんな……白いフリフリのワンピースなんか、素直に着てるんだ……!
膝裏へ触れる生地がひらひらと揺れて、たまらない。
「もうこれ、貝殻の妖精じゃねえか……!」
白く細い素足は、誰も辿り着けない幻の海岸みたいだった。
白い貝殻が散らばる、無垢な宝石の絨毯。
「……指輪」
首元には、俺が作ったリング。
堀田は胸元へ落ちたリングを拾い、指の腹でそっと撫でた。
いやらしくダイヤがついている。
リングなのにチェーンを通され、その穴まで溶接されていた。
「なんてことしやがる……!」
もうこれは、俺の指輪なのか……?
堀田は君野を抱え上げ、すぐそばのベッドへ寝かせた。
「いいな、お前。こんなふかふかのベッド」
乱れた服を整え、足を真っすぐ伸ばして、布団を掛ける。
フィギュアのように上がった両手も、元の位置へ戻した。
それでも、視線は唇から離れない。
すべて整え終えると、名残惜しそうに君野を見つめ、その唇へ人差し指でそっと触れた。
「あの日……キスしないでよかったな……」
白戸家でのバイト最終日。
些細な喧嘩をして、結局キスはしなかった。
あの時していたら、今頃、俺を想う気持ちも、この指輪も残っていなかったはずだ。
込み上げる衝動を必死に押し殺し、天使のような頬をひと撫でする。
仕事へ戻ろうと振り返った、その時だった。
「うわあ!!?」
君野を起こしてしまいそうなほどの大声が出た。
半開きのドアの前に、あの憎き貴聞が立っていた。
「さっきの、キスしないでよかったってどういう意味ですか?」
「!」
そうか……。
こいつ、呪いのキスの存在を知らないのか。
「い、いや……なんでもないです」
気まずそうに答える堀田を、貴聞は一瞬だけ目を細めて見つめた。
……いや、これは知られない方がいい。
ただでさえ夢遊病を発症しているのに、これ以上吉郎へ精神的な負荷はかけられない。
それに、こいつらはキスしても何ともないのか?
ということは、呪いは俺だけに効いている……?
動揺を押し隠す堀田に、貴聞はにんまりと笑った。
「吉郎、初めてって言ったんですよね」
「はい?」
「僕と初めて結ばれた時、『初めてだから優しくしてほしい』って」
その一言で、堀田の拳と歯に力が入る。
いっそ、この場で殴ってしまうか。
そう思うほど歯を食いしばる堀田にも、貴聞は物怖じひとつしない。
さらに一歩近づき、その顔をじっと見つめた。
「おかしいですよね。吉郎の話を聞くと、朝起きたら知らない恋人がいたとか、その出会いも覚えていないとか、あの部屋で暮らすようになった理由も覚えていないとか……」
「何か……俺を疑っているんですか」
「どんなクスリを使ったんですか?吉郎がこの家へ来た日に隅々まで検査しましたが、そういうものは確認できませんでした。もしかして、高度な催眠術とか?」
「催眠術だったら、研修まで受けて俺が大人しくここで働いてると思いますか?」
「確かに。それもそうですね」
貴聞は上品にクスクスと笑う。
真っ黒なスーツと色白の肌。
そのコントラストが、堀田にはひどく不気味に映った。
「吉郎を丁寧に運んでくださって、ありがとうございます」
「逆に聞いていいですか」
「なんでしょうか?」
「あなたは吉郎を本気で愛していますか? 噂では、強制的にくっつかなければならない事情があったとも聞きました」
「どちらにせよ、僕は吉郎を愛しています。あなたよりも」
その言葉に、堀田の太い眉が険しく吊り上がる。
貴聞も穏やかな笑みを崩さないまま、その視線を真正面から受け止めた。




