Ep99. 消えてしまうもの
前世の俺は、残るものにしか価値がないと思っていた。
論文、研究成果、魔術理論、記録、数字。後世に伝わるもの、形になるもの、証明できるもの。それだけが本物だと信じていた。だから消えるものを軽んじていた。思い出、感情、会話、一瞬の笑顔。そんなものは残らない、価値がない。そう考えていた。少なくとも、あの頃の俺は。
◇ ◇ ◇
三日後、オリヴィアが慌てて飛び込んできた。
「大変!」
バーバラが驚いて顔を上げる。オリヴィアは普段からよく動き回る子だが、今日は息を切らして、本当に何か一大事が起きたような顔をしている。
「どうしたの?」
「ユキまるの首がなくなった!」
……。
俺はしばらくその言葉の意味を処理しようとした。ユキまる。確か三日前、オリヴィアが庭で一人で作り上げた雪だるまの名前だ。石炭で目をつけて、木の枝で腕をつけて、マフラーまで巻いてやって、「ユキまるって名前にする」と満足そうに宣言していた、あの雪だるまだ。
「風?」とバーバラが尋ねる。
「たぶん。朝見たら落ちてたの!」
悲壮な顔である。本人は本気だ。目に薄く涙まで浮かんでいる。大切な友人が急に倒れたとでもいうような、そういう表情をしている。
俺は内心、少し困惑していた。雪だるまだぞ、と思う。春になれば溶ける。いや、暖かい日が続けばもっと早い。あれは最初から、消えることが約束されているものだ。それなのにどうしてこんなに真剣になれるのか、俺にはすぐには分からなかった。
「直せるかな……」
オリヴィアが心配そうに呟く。それからすぐ、何かを決意したように顔を上げた。
「直しに行ってくる!」
勢いよく宣言して、そのまま玄関へ駆けていく。外はまだ寒い。コートのボタンを留める間も惜しそうに、ドアを勢いよく開けて出ていった。
元気だな、と思う。本当に。
◇ ◇ ◇
窓から見ていると、オリヴィアが雪だるまのそばにしゃがみ込んで、落ちた頭の部分をかかえ直そうとしているのが見えた。だが雪はもう表面が少し溶けていて、うまくくっつかない。何度か試みて、そのたびに崩れて、それでも彼女は諦めなかった。声は聞こえないが、何か言いながら作業しているようだった。独り言か、あるいはユキまるに話しかけているのかもしれない。
その姿を見ながら、俺はふと前世のことを考えていた。
研究資料は残った。論文も残った。術式も残った。名前も残った。俺が何十年もかけて積み上げたものは、確かに後世に伝わった。それは事実だ。誇ってよいことだったかもしれない。
だが。
俺が死んだとき、泣いた人間はいただろうか。
寂しいと思った人間は、いただろうか。
思い浮かばない。誰も。同僚たちは惜しんだかもしれない。研究上の損失として。でもそれは俺個人への感情ではなく、資料や知識への惜しみだった気がする。俺そのものを、俺という人間を惜しんでくれた人間が、果たして一人でもいたのかどうか。正直、分からない。
残るものばかり追いかけて、残らないものを捨て続けた結果だ。
その時、バーバラが窓の外を見ながら静かに言った。
「消えちゃうって分かってても」
少し間があった。
「大事なものって、あるのよね」
独り言のような声だった。こちらに向けられた言葉ではない。ただ窓の向こうを見ながら、誰にともなく呟いた、ただそれだけの言葉だった。
だが、なぜか胸に刺さった。
消える。なくなる。終わる。
だから価値がないのではない。むしろ、終わるから大切なのかもしれない。終わりがあるから、今この瞬間が輝くのかもしれない。永遠に続くものに、人はそこまで真剣になれるだろうか。桜が美しいのは散るからだと誰かが言っていた気がするが、そういうことなのかもしれなかった。
雪だるま。冬。子供時代。今この時間。
全部、いつか終わる。永遠じゃない。
だからこそ、オリヴィアはあんなにも笑うのだろう。だからこそ、今を楽しむのだろう。消えると分かっているからこそ、今目の前にある大切なものに、全力で向き合えるのだろう。
◇ ◇ ◇
窓の外では、小さな影が何度も作業を繰り返していた。雪の頭を乗せ直そうとするたびに崩れて、それでも拾い直して、また試みる。何度やってもうまくいかないようだったが、オリヴィアは笑っていた。困りながら、でも楽しそうに笑っていた。
やがて、少し形の崩れたままのユキまるが、ひとまず立ち直ったらしかった。オリヴィアが両手を腰に当てて、満足そうに仁王立ちしているのが見える。首はたぶん完全にはくっつかなかっただろう。傾いたままかもしれない。それでも彼女には、それで十分だったようだった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は少しだけ思った。
もし前世に戻れるとしても、もう同じ生き方は選ばないだろう。残るものだけではなく、消えてしまうものも、ちゃんと大切にしたい。論文や術式には残せない何かが、あの笑顔の中にはあった。数字では測れない何かが、この冬の庭にはあった。
そんな風に思える自分が、少しだけ誇らしかった。




