Ep97. 雪の日の発見
雪は厄介なものだ。少なくとも、前世の俺にとっては。
交通を乱し、物流を止め、患者の搬送を遅らせ、研究施設の運営にも支障が出る。つまり雪とは、面倒な自然現象だった。それ以上でも以下でもない。雪が降るたびに、俺は舌打ちをするか、あるいは何も感じないかのどちらかだった。感傷を持つ暇などなかったし、持とうとも思わなかった。白く積もった景色を見て、きれいだと感じたことは、前世を通じて一度もなかったと思う。いや、あったかもしれないが、記憶にない。記憶に残らないほど、俺はそれに無関心だった。
前世の仕事は研究だった。専門は医療系で、毎日のように数字と論文と実験データに向き合っていた。成果を出すことが全てだった。いや、正確には、成果を出せないことへの恐怖が全てだった。失敗が怖かった。遅れが怖かった。誰かに追い抜かれることが怖かった。だから常に動いていた。立ち止まることが、なぜか怖かった。立ち止まると、余計なことを考えてしまう気がして。そんな俺にとって、雪とは邪魔なものだった。降り積もるたびに、また余計な時間がかかると思って、顔をしかめた。
だが。
今朝、目を覚ました俺は、窓の外を見て少しだけ言葉を失った。
一面の白だった。屋根も、木々も、畑も、全部が白く染まっている。昨夜まで茶色く枯れた枝をさらしていた庭の樹木は、今朝は綿をかぶったように丸く膨らんでいた。遠くの丘の稜線も、どこか柔らかく滲んで見える。しんと静かだった。信じられないほど。風も、鳥の声も、馬の嘶きも、何も聞こえない。世界そのものが息を潜めているようだった。前世では何度も雪を見たはずなのに、これほど静かな雪景色を見たのは初めてのような気がした。それとも、ただ俺がこれまで気にしていなかっただけなのだろうか。
暖炉の火は昨夜からゆっくりと燃え続けていて、部屋の中は穏やかに温かい。その温もりと、窓の外の白い冷たさの対比が、なぜか妙に心地よかった。俺はしばらく、ぼんやりと窓の外を眺めていた。何か考えていたわけではない。ただ見ていた。それだけだった。そういえば、ただ何かを見るというのが、いつぶりだろうかと思った。前世ではいつも、何かを見ながら別のことを考えていた。画面を見ながら計算をして、人の顔を見ながら次の言葉を組み立てていた。ただ見るという行為を、どこかで失くしていたのかもしれない。
「すごいわねえ」
バーバラも窓辺に立つ。朝の支度を済ませたばかりらしく、エプロンを手に持ったまま、外を見て目を細めていた。その顔はどこか子どものようで、楽しそうだった。大人なのに、雪ごときでと思いかけて、やめた。今の俺も、少しだけ見惚れていたからだ。
「今年は積もったわ」とバーバラは言った。「こんなに積もるのは久しぶりかもしれないわね。去年は大したことなかったから」
「二、三年に一度くらい、こういう年があるのよ。子どもたちは大喜びね」
言いながら彼女は微笑んだ。どこか懐かしそうな顔だった。バーバラにも、雪に心を躍らせた子どもの頃があったのだろう。当たり前のことなのに、なぜかそれが少し新鮮に思えた。俺には、そういう記憶がほとんどない。子どもの頃の雪の記憶といえば、長靴が濡れて不快だったこと、それから登校が面倒だったことくらいだ。雪だるまを作ったかどうかも覚えていない。友達と雪合戦をしたかどうかも。そもそも、一緒に外で遊ぶような友達がいたのかどうかも、今となっては曖昧だ。
しばらくして、勢いよく扉が開いた。
「雪っ!」
オリヴィアだった。予想通りだ。むしろ来ない方がおかしい。
頭には毛糸の帽子、首には大きなマフラー、頬は真っ赤に染まっている。どう考えても外で遊んできた顔だ。手袋はしているが、その上からでもわかるくらい雪まみれになっている。上着にも雪の塊がいくつかくっついていて、部屋に入るなり床に落ちた。目がきらきらしていた。あんなに目を輝かせていられるのは、子どもの特権だと思った。
「見て見て!」と両手を広げる。雪だらけである。
「雪だるま作ったの! トムと!」
最近よく名前を聞くな、と思った。仲直りしてから一層仲良くなったらしい。それは良いことだと頭ではわかっている。わかっているのだが、少しだけ胸がもやっとした。……まだ残っていたのか。この感情が。俺はそれを自覚して、わずかに目を伏せた。子どもらしくない感情だとは思う。だが、どうにもならなかった。感情というのは、理屈で処理できるようなものではない。前世でそれを学んでいたつもりだったが、まだ身についていないらしい。
「あとね! 転んだ!」
威張る話ではない。
「三回!」
なおさら威張る話ではない。
バーバラが吹き出す。「怪我しなかった?」
「大丈夫!」とオリヴィアは元気よく答えた。顔を見れば確かに大丈夫そうだ。それを確認して、俺も少し安心した。自分でも気づかないうちに、息を詰めていたらしい。転んで怪我をしたと聞いたわけでもないのに。胸が三回のたびに少しずつ締まって、大丈夫という声でほどけた。
バーバラはオリヴィアの帽子を脱がせて、雪を払い始めた。「まったく、もう少し気をつけなさい。三回も転んだら靴の中まで濡れてるんじゃないの?」
「濡れてるー」とオリヴィアは嬉しそうに言った。濡れていることを全く気にしていない。バーバラが呆れ顔で笑いながら、「ちょっと待ってなさい、乾いた靴下持ってくるから」と奥へ引っ込んだ。
残されたオリヴィアは、靴を脱ぎながらもまだ外が気になるのか、何度も窓の方を振り返っていた。そのたびに頬がほころんでいる。雪だるまがよほど気に入ったのだろう。あるいは、雪そのものがそれだけ楽しいのか。
その時だった。オリヴィアが窓の外を指差した。
「ねえルーク。雪って不思議だよね」
不思議? 何がだ。俺は少し首を傾げた。
「全部白くなるの」とオリヴィアは言った。外を見ながら、どこか不思議そうに、けれど嬉しそうに。「汚いところも、古いところも、全部きれいになる」
そう言って笑った。
その言葉が、なぜか胸に残った。
俺は窓の外をもう一度見た。確かにそうだった。昨日まで泥まみれだった畑の畦道も、腐りかけた材木を積んである隅っこも、草が枯れてみすぼらしかった庭の端も、今朝は全部等しく白い。区別がつかない。どれが汚れていたか、どれが古かったか、もう見た目にはわからない。雪はそういうものを、全部まとめて覆い隠す。
オリヴィアはその事実を、ただ純粋に不思議と言った。そこに深い意味はないのかもしれない。子どもが雪を見て感じたことを、そのまま口にしただけかもしれない。だが俺には、その言葉が妙に刺さった。刺さって、しばらく抜けなかった。
前世。俺は失敗ばかり見ていた。後悔ばかり見ていた。
母との関係。あれだけ近くにいたのに、最後まで本当のことを話せなかった。何を考えているかわからないと言われ続けて、俺の方も、どうすれば伝わるのかわからないまま時間が過ぎた。最後に顔を見たのはいつだったろう。記憶が曖昧だ。それが怖い。大事なことほど、どこかに滑り落ちていく。謝りたいことがあった。礼を言いたいことがあった。それがどれほどあったか、数えることもしなかった。数えれば、ちゃんと伝えなかったことへの後悔が大きくなるから。そういう臆病さを、合理性と呼んで誤魔化していた。
人間関係。研究室の同僚たちとは、仕事の話しかしなかった。飲みに行こうと誘われたことが何度かあったと思うが、全部断った。断る理由はいつも仕事だった。本当に仕事があったのか、それとも億劫だっただけなのか、今となっては判然としない。彼らの名前は覚えている。顔も覚えている。何年も同じ空間にいた。だが、何を笑っていたか、何を悩んでいたか、そういうことは何も知らない。知ろうとしなかったのだと思う。知ってしまうと、関わることになる。関われば、失うことも出てくる。そう思っていた。
傲慢だった自分。自分は人よりものがわかると思っていた。感情に流されず、合理的に判断できると思っていた。それが傲慢だとは気づかなかった。気づいた時には、周りに誰もいなかった。いや、いたのかもしれない。ただ俺が見ていなかっただけで。
孤独だった人生。孤独を選んでいたのか、気づいたら孤独になっていたのか、それすらわからない。どちらでも同じことかもしれないが。ただ、孤独であることを正当化する言葉は山ほど持っていた。一人の方が効率がいい、人間関係はコストがかかる、感情に振り回されない方が仕事は捗る。全部本当のことだった。本当のことだから、なおさら厄介だった。本当のことを並べれば、どんな選択も正当化できる。俺はそうやって、たくさんのものを手放してきた。
消せない。なかったことにはならない。それは事実だ。どれだけ遠い前世の話であっても、それは確かに俺が生きた時間であり、俺が選んだ道だ。否定することも、忘れることも、できない。
だが。
雪が景色を変えるように、人生も、少しずつ違う見え方になることがあるのかもしれない。
消えるわけではない。汚れが落ちるわけでも、傷がなくなるわけでもない。ただ雪が降り積もって、表面が白く覆われる。それだけのことなのに、景色は確かに変わる。昨日と同じ場所なのに、まるで別の場所のように見える。そういうことが、人の目にも起きうるのかもしれない。見え方が変わるだけで、見えているものは変わる。見えているものが変われば、感じ方も変わる。
やり直し、という言葉の意味を、俺はずっと勘違いしていたのかもしれない。
過去を消すことではない。別人になることでもない。そんなことはできないし、するべきでもないのだろう。前世の俺が積み上げた失敗も、後悔も、孤独も、全部ひっくるめて今の俺がある。それを消したところで、今の俺もどこかに消えてしまうような気がする。俺が今ここにいるのは、前世で散々失敗したからかもしれない。転んで、傷ついて、それでも朝が来て、という繰り返しの末に、ようやく何かに気づき始めている。
やり直しとは、同じ自分のまま、違う景色を見ることなのかもしれない。
前世で俺が見ていた雪は、ただの厄介な自然現象だった。その見方が間違っていたとは思わない。事実としてそういう側面はある。ただ、それしか見ていなかった。窓の外の白い景色を、一度も立ち止まって眺めなかった。静けさに耳を澄ませなかった。今思えば、雪だけの話じゃなかったのだろう。人の笑顔も、季節の変わり目も、夕暮れの色も、そういうものを俺はずっと横目で通り過ぎてきた。勿体なかったと思う。遅れた後悔だとわかっていても、そう思わずにはいられない。
今の俺は、少しだけ違う見え方をしている。同じ雪を見て、言葉を失った。それだけのことかもしれないが、俺には大きな違いに思えた。
窓の外で雪が降る。暖炉の火が揺れる。オリヴィアがバーバラに靴下を渡してもらいながら、まだ外の雪だるまのことを話している。トムがどれだけ頑張って大きな雪玉を作ったか、自分が帽子の代わりに何を乗せたか、それを身振り手振りで説明している。バーバラが微笑みながら聞いている。
その光景を見ながら、俺は初めて、この人生を心から好きになり始めていた。
前世の記憶を持ったまま生まれ直すというのは、最初のうちは奇妙な感覚だった。自分が子どもの体をしているのに、中身は疲れた大人のままで、周りとどう距離を取ればいいのかわからなかった。感情の扱い方も、関係の築き方も、何もかもがうまくできなかった。前世でもうまくできなかったのだから、当然といえば当然だが。
それでも、少しずつ変わってきた気がする。変わろうとしたわけではない。ただ、バーバラがそこにいて、オリヴィアがそこにいて、毎日が続いていった。それだけのことかもしれない。だが、それで十分だったのかもしれない。誰かがそこにいて、毎日が来て、自分も何かを感じる。前世では当たり前だったはずのそれが、今はありがたかった。
雪はまだ降っていた。細かくて軽い雪が、風もないのにゆっくりと落ちてくる。窓ガラスに触れて消えていくものもあれば、積もったものの上にさらに重なっていくものもある。どれが正解というわけでもない。ただ降って、積もって、やがて溶ける。それだけだ。
俺もそういうものかもしれないと、ふと思った。何かになろうとして、うまくいかなかった。誰かのためになろうとして、空回りした。前世でも、今世でも、たぶんこれからも、失敗はするだろう。転ぶだろう。三回どころか、もっと。それでも、オリヴィアが「大丈夫!」と言いながら笑っていたように、何かがあっても続いていくのだと思う。続いていけばいい。それだけでいい。そう思えるようになったのは、いつからだろう。気づいたらそう思っていた。それもまた、雪のようなものかもしれない。気づいた時には、もう積もっていた。
暖炉の薪がぱちりと音を立てた。オリヴィアが「あ、お腹すいた」と言った。バーバラが笑いながら「朝ごはんにしましょう」と立ち上がった。
白い景色はまだそこにある。
俺は少しだけ、それを好きだと思った。




