表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
96/129

Ep96. 初めての冬支度

前世の俺は、季節に興味がなかった。


春だろうが夏だろうが秋だろうが冬だろうが、研究室の中は大して変わらない。天候は移動の邪魔になるもので、気温は体調管理の対象になるもので、その程度だった。季節を楽しむ、そんな発想はそもそも存在しなかった。時間は研究のためにあり、窓の外の色が変わることに気を留める余裕も、気を留めようという意志もなかった。


思い返せば、前世の俺には季節の記憶がほとんどない。桜が咲いたと誰かが言っていた気はする。雪が積もって交通機関が乱れたことも。だが、それらは記録としての断片であって、体験としての質感を持っていない。皮膚が感じた冷たさも、目が捉えた色の鮮やかさも、どこかに消えてしまっている。あるいは最初から、そういうものとして処理されていたのかもしれない。外界は制御すべき変数であって、味わうべき現象ではなかった。


研究室の同僚が「今年の秋は長いね」と言ったとき、俺は適当に相槌を打った記憶がある。そう言われれば確かに窓の外は赤かったが、それ以上のことは何も感じなかった。感じようとしなかった、というのが正確かもしれない。感情に時間を割くことは、俺にとって非効率の代名詞だった。季節を眺める時間があるなら、論文の一行でも進めた方がいい。そう考えていた。


それだけではない。季節に対してだけではなかった。前世の俺には、生活そのものへの興味が薄かったのかもしれない。研究は好きだった。問いを立て、仮説を作り、検証する。その過程には純粋な喜びがあった。だが、研究の外側にある日常——食べること、眠ること、誰かと言葉を交わすこと——それらは研究を続けるための手段に過ぎなかった。食事は栄養補給で、睡眠は回復で、会話は情報交換だった。それ以上の意味を持てなかった。


今思えば、何か大切なものを通り過ぎていたのかもしれない。だが当時は気づかなかったし、気づこうともしなかった。研究室の中では、それで完結していた。窓の外が何色であろうとも、自分の世界には関係がなかった。


だから今の俺が持っているこの感覚は、前世の俺には説明しようもないものだ。


   ◇ ◇ ◇


この家では違う。


季節は生活そのものだった。


朝、バーバラが窓を開ける。冷たい風が室内に流れ込んだ。


「寒っ」


思わず肩をすくめる。その仕草が妙に可笑しかった。本人は気づいていないだろうが、こういうところは子供っぽい。あるいは、きわめて正直なのかもしれない。寒いと思ったら寒いと言う。体が冷気に反応したら反応のまま動く。何かを取り繕う気配がない。前世の俺の周囲には、そういう種類の人間はほとんどいなかった。反応を見せることは隙を見せることだと、みんなどこかで思っていた気がする。研究者というのは、総じて感情に対してそういう態度を取りやすい。


バーバラは窓枠に手をかけたまま、しばらく外を眺めていた。空は重かった。薄い灰色の雲が低く垂れ込め、光を均等に遮っている。風は乾いていて、草木の匂いではなく、何もない空気の匂いがした。冬が近い時特有の、どこか研ぎ澄まされた空気。土の匂いも、花の匂いもしない。ただ、冷たさと乾きだけがある。夏の空気が持っているあの重さが、どこかに行ってしまっている。


「そろそろ雪かもねえ」


窓の外を見ながら呟く声は、独り言と俺への言葉の中間のような響きだった。確かに空は重い。灰色の雲の質感は、雨のそれとは違う。もっと密で、もっと静かだ。前世の記憶を辿れば、こういう空の日の翌朝には白くなっていることが多かった気がする。


俺はバーバラの横顔を見ていた。窓の外を眺める表情には、特別な感情は読み取れない。ただ、空を読んでいる。生活者として、来る季節を測っている。それが俺には新鮮だった。空を見て何かを感じるという行為そのものが、前世の俺には存在しなかった。天気予報はアプリで確認するものだったし、空の色を見て明日を予測するという習慣は持っていなかった。


それはある意味、失われた能力だったのかもしれないと思う。自然の変化を自分の感覚で読み取る、という能力。機器や数値に代替させてしまったために、気づかないうちに退化したもの。バーバラはそれをまだ持っている。あるいはこの世界では、それが普通なのか。どちらにしても、俺はその横顔を見ながら、羨ましいとも言えない何かを感じていた。


窓が閉められる。室内に入り込んだ冷気は、少しずつ部屋の温度に溶け込んでいく。バーバラは何事もなかったように朝の支度を再開した。


朝食の匂いが漂い始める。何かを煮ている匂いだ。冬の朝の定番らしく、最近よく嗅ぐ。食べることができないのは相変わらず惜しいが、匂いは届く。それだけでも、季節を感じる手がかりになっていた。夏の朝とは違う種類の温かさが、台所から流れてくる。


食事の匂いと、冷たい外気の残り香が、部屋の中で混ざっている。それが冬の朝の匂いなのだろうと思った。単体では説明できないが、組み合わさって何かになる。前世の俺は匂いに注意を払うことがなかった。研究室の消毒の匂いと、コーヒーの匂いくらいしか記憶にない。こういう複雑な、生活の積み重なりから生まれる匂いを、俺はずっと嗅いでいなかったのだ。


   ◇ ◇ ◇


昼頃、オリヴィアがやって来た。


今日は何やら大荷物だった。両手いっぱいに布を抱え、毛糸の玉がいくつも入った袋を肩にかけ、さらに木箱まで持ってきている。玄関先で少しよろめきながら、それでも落とさずに家の中に入ってきた。荷物の割に足取りが軽い。もともとあの少女は、エネルギーの総量が人より多い。どこからそれが来るのか、見ていると不思議に思うことがある。


「冬支度するの!」


元気よく宣言する。


何だそれは、と思った。が、すぐに理解した。


オリヴィアは荷物を床に下ろすと、まず暖炉の周りから手をつけ始めた。灰を取り除き、煉瓦のすき間を確認する。薪の残量を確かめ、足りないと見るや外へ行って補充してきた。毛布は窓際で干し、埃を叩く。木箱の中身を一つずつ取り出して点検する。蜜蝋のろうそく、針と糸、予備の手袋。それから暖炉の傍に置くための厚い敷物。隅々まで丁寧だった。


てきぱきと動く様子を眺めながら、俺はそれが何であるかを考えていた。


冬支度。季節を迎える準備。


前世では見たことのない光景だった。研究室には空調があり、季節の変化に対して生活様式を変える必要がなかった。寒くなれば設定温度を上げ、暑くなれば下げる。それだけで済んだ。外の世界がどう変わろうとも、室内の環境はほぼ一定に保たれていた。備蓄も冬支度も、俺の生活には存在しなかった。必要なものは必要になったときに買えばいい。そういう感覚で生きていた。


だが、ここは違う。暖炉に薪がなければ凍える。毛布が湿っていれば眠れない。冬が来る前に準備をしなければ、冬に足をすくわれる。季節は管理の対象ではなく、共に生きるべき相手だった。敵でも味方でもなく、ただそこにある大きなものとして、受け入れて、備える。その姿勢が、前世の俺には欠けていたものだと思う。制御できないものを前にしたとき、前世の俺は無視するか克服しようとするかのどちらかしかなかった。


合理的と言えば合理的だ。だが、それだけではない気もした。オリヴィアの動きには、義務感よりも何か別のものが混じっていた。準備すること自体を、楽しんでいるように見えた。来る冬を恐れているのではなく、迎えようとしている。その違いは小さいようで、おそらく大きい。冬が脅威である前に、冬が訪問者になっている。そういう関係の結び方が、俺には新しかった。恐れるものに備えるのと、来るものを待ち望むのとでは、同じ準備でも心の向きが違う。準備している人間の顔が、全く違う。


オリヴィアの顔は、後者だった。


薪を積み上げながら、オリヴィアが鼻歌を歌い始めた。どこかで聞いたことのあるような旋律だった。もしかしたら、この季節の定番の歌なのかもしれない。バーバラも口の端で笑いながら作業を続けていた。二人の間には、こういう準備を毎年繰り返してきた歴史がある。その歴史に、俺はまだいない。今年が初めてだ。それでも、部屋の端でこうして見ていることは許されている。


「バーバラさん、薪はまだありますか」


「裏においてあるわよ。でも確認してもらえると助かる」


二人のやりとりを聞きながら、俺は暖炉の赤みを眺めていた。炎はまだ小さい。これから何度も薪をくべて、長い冬を越えるのだろう。炎というのは、見ていて飽きないものだと気づいた。一定のようで一定ではなく、揺れながら燃え続ける。前世の俺はおそらく、炎をこんなに長く眺めたことがなかった。


   ◇ ◇ ◇


しばらくして、オリヴィアが木箱の底から何かを取り出した。


小さな帽子だった。白い毛糸で編まれている。少し歪だ。左右が微妙に非対称で、縁の処理も完全とは言い難い。だが、丁寧に作られていることは一目でわかった。毛糸の密度が均一で、編み目を数えながら作った跡がある。一目一目、確かめながら進んだのだろう。形よりも確かさを優先した結果、こういう形になった。そういう経緯が、手触りから伝わってくるような気がした。失敗した跡もある。ほどいてやり直した痕跡が、何か所かに見えた。


「できたて!」


得意満面だ。


「私が編んだの!」


……ほう。


これは驚いた。あの落ち着きのない少女が、編み物を。一か所に座って、針を動かし続けて、形にした。あの、部屋の中でも動き回り続けるあのオリヴィアが。どれだけの時間がかかったのか見当もつかないが、根気がいる作業であることは確かだ。何度も手を止めたくなっただろう。何度か実際に止めて、また戻ってきたのかもしれない。


「すごいじゃない」


バーバラも感心している。


実際、年齢を考えれば十分以上に上手い。編み目は整っており、形もそれとわかる帽子の形をしている。多少の歪みは愛嬌の範疇だ。初めて挑んだにしては、あるいは何度か失敗してようやく完成したにしては、これは上出来だと思う。失敗作があったとしたら、それを見てみたい気もした。どんな形で諦めかけて、どんな形で続けたのか。帽子の形になる前の過程が、この帽子に含まれている。


「ルーク用!」


そう言って、俺の頭に被せる。


少し大きい。少し斜めになる。だが暖かかった。


毛糸の柔らかさが頭皮に触れる。外気とは隔絶された、小さくて確かな温もり。物理的な暖かさは当然として、俺はそれとは別の何かも感じていた。うまく言語化できないが、確かにあった。感情と呼ぶべきものかどうかも定かではないが、胸の辺りに何かが生まれていた。押しつけられた感情ではなく、自分の内側から湧いてくる、静かで小さなもの。


不思議な気分だった。


前世でも贈り物は受け取った。表彰品。記念品。高価な品。研究の成果に対する報酬として渡されるものもあった。それらはどれも、物としての価値は持っていた。機能や希少性や金銭的な換算価値が、そこにあった。だが、誰かが自分のためだけに時間を使って作った物は、ほとんど記憶にない。


考えてみれば当然かもしれない。前世の俺の周囲にいたのは、互いに効率を求める人間たちだった。贈り物も、その論理から外れなかった。手作りは非効率であり、市販の高品質な品物を買う方が合理的だ。だから誰も手作りのものを贈らなかったし、俺も求めなかった。そういう環境にいたから、誰かが時間をかけて自分のために何かを作るという行為を、俺はほとんど経験しなかった。


あるいは、経験していたのに気づかなかったのかもしれない。受け取っていたのに、価値を測れなかったのかもしれない。効率という尺度しか持っていなかったから、それ以外のものを見落としてきた。どれだけのものを、そうやって通り過ぎたのか。今となっては確かめようもない。


だが今はわかる。少なくとも今の俺には、この帽子の価値がわかる。それは、前世では持っていなかった能力だ。赤子の身体で生まれ直して、この家の中で育ちながら、少しずつ身につけてきたものだ。失うことで得るものがある、とは前世では考えもしなかったが、案外そうかもしれない。


「似合う!」


オリヴィアが笑う。


「かわいい!」


それは余計だ。元天才医魔術師に向かってかわいいとは何だ。


……いや。今は赤子だったな。客観的には正しい評価かもしれない。


オリヴィアは俺の頭の上の帽子を見て、何度も満足そうに頷いた。その顔を見ながら、俺は帽子に触れた。指先に柔らかい毛糸の感触。暖かい。そして少しだけ誇らしい、という気分が確かにあった。誰かに作ってもらったという事実が、物理的な温もりとは別の温もりを生んでいた。


俺が誇らしいのか、オリヴィアが誇らしいのか、どちらとも言えた。どちらでもあった気もする。そのどちらでもある、という感覚が、贈り物の持つ特別な力なのかもしれない。


バーバラがオリヴィアの頭を一度なでた。ぽん、と軽く。オリヴィアは照れたように笑った。その笑顔はいつもより少し柔らかかった。得意気な顔でも、騒がしい笑顔でもなく、何かを達成した後の、静かな満足だった。努力が形になって、渡せたことへの。


それを見ながら、俺は帽子の重みを頭の上に感じていた。軽い。だが確かにある。誰かがそこに置いてくれたものが、ある。


   ◇ ◇ ◇


「ねえ、今年は初雪早そうじゃない?」


オリヴィアが窓の外に目をやりながら言う。


「そうねえ。去年より早いかもしれないわ」


バーバラが応じる。


二人は窓の外の空を眺めながら、冬の話を続けた。去年の大雪のこと。一度だけ暖炉が壊れて、毛布にくるまって一晩過ごしたこと。雪の日にバーバラが転んで、オリヴィアがずっと笑っていたこと。笑うくらいなら助けろ、とバーバラが言って、それでもオリヴィアは笑い続けたこと。


それらは俺の知らない話だった。俺がこの家に来る前の冬の話だ。だが、話を聞きながら、その情景がぼんやりと浮かんできた。雪の積もった庭。転んだバーバラと笑うオリヴィア。白い息。冷たい朝。凍った水路。二人分の足跡が雪の上に残っている。


なぜかそれが、遠い記憶ではなく、つい最近のことのように感じられた。


前世では、冬に誰かとそういう話をした記憶がない。笑い話として残っている冬の出来事がない。季節が話題の核心になったことがない。季節はいつも背景だった。換気扇の音のように、常にそこにあるが意識されない何かだった。


ここでは違う。季節は話の中心に来る。今年の冬はどうか、去年の冬はどうだったか、来年の冬にはこうしよう。時間の流れを季節で区切り、季節を軸に生活を組み立てる。それは俺が前世で持っていなかったリズムだった。季節が巡るたびに、ここに住む人間の記憶が更新されていく。来年の冬になったとき、今日のことも話題になるのだろうか。オリヴィアが帽子を編んで持ってきた冬、として。


オリヴィアが薪を一本、暖炉にくべた。炎が少し大きくなる。部屋が少し明るくなる。影が揺れる。


「今年もあったかく過ごせるといいね」


独り言のように言う。


誰に向けた言葉かは、はっきりしなかった。バーバラか、俺か、あるいは部屋全体か。だが、その言葉は確かに部屋の中に広がって、そのまま静かに沈んでいった。俺もその言葉の中に含まれているような気がした。含まれていると、自然に感じた。


   ◇ ◇ ◇


帰り際、オリヴィアは玄関先で振り返った。


「また来るね」


それだけ言って、出ていった。約束でも宣言でもなく、当たり前のことを確認するような言い方だった。次の冬支度もここでする、という前提が、その短い言葉の中にある。俺はそれを聞きながら、次の冬支度のことを思った。来年の今頃、またオリヴィアがやってくる。何かを持ってくる。そのとき俺はもう少し大きくなっているだろう。何かが変わっているだろう。それでもここにいるだろう。


扉が閉まって、オリヴィアの足音が遠ざかった。荷物の大半はこの家に残していった。毛布、薪、蜜蝋のろうそく、針と糸。冬を越すための道具たち。木箱の中に整然と並んでいる。


バーバラはしばらくそれを眺めてから、一つずつ適切な場所に仕舞っていった。毛布は寝室の箪笥。ろうそくは棚の奥。針と糸は裁縫箱へ。慣れた手つきで、迷いなく。この家のどこに何があるべきかを、身体が覚えている。何年分もの繰り返しが、身体に刻まれている。季節のたびに同じことをして、同じ場所に仕舞って、また次の季節に取り出す。その繰り返しが、生活というものを作っていくのかもしれない。


俺はその様子を見ながら、帽子に触れていた。


まだ頭に乗っている。少し大きくて少し斜め。バーバラが苦笑いしながら直そうとしたが、俺は直させなかった。なぜそうしたのかは、自分でもよくわからない。ただ、このままがいい、という気分があった。理由を言語化する前に、そう感じた。


前世の俺は、完璧でないものを好まなかった。非対称は不快で、誤差は修正すべきで、理想から逸脱したものはその度合いに応じて価値を失うと、そう考えていた。だが、この帽子の歪みは気にならなかった。むしろ、その歪みの中にオリヴィアが費やした時間が見える気がして、それがいいと思った。


完璧な形よりも、誰かの痕跡の方が暖かい。


それが発見なのか、それとも赤子の脳が感情に引きずられているだけなのか、判断はつかなかった。どちらでもいい気もした。判断を留保することが、前世の俺には苦痛だったが、今の俺にはそうでもない。わからないままでも、暖かいものは暖かい。それだけで十分だという感覚が、少しずつ育ってきている。


バーバラが仕舞い終えて、椅子に腰を下ろした。大きく一つ息をつく。一日の終わりの、疲れを逃がすような息。


「よく働いたわ、今日は」


誰に言うでもなく呟く。


俺は何も言わなかった。言えないし、言う必要もないと思った。ただ、バーバラの言葉が部屋に広がって消えるのを、一緒に聞いていた。


しばらくの間、部屋の中は静かだった。炎の音だけがある。薪が燃える微かな音と、ときどき爆ぜる音。それが部屋の呼吸のように聞こえた。前世の研究室にも機材の稼働音があったが、あれは無機質な音だった。炎の音は違う。聞いていると、何か生きているものが傍にいるような気がする。


バーバラが目を閉じた。眠るつもりはないかもしれないが、ただ休んでいる。今日の疲れを、今日のうちに解かしている。そういう時間の使い方ができる人だと思った。前世の俺は、疲れを翌日に持ち越し続けて、それが溜まっていくことにも気づかなかった。休むことの意味を、知らなかった。


   ◇ ◇ ◇


夜、バーバラが火の番をしながら、何かを口ずさんでいた。


聞いたことのない曲だったが、冬の歌のように感じた。旋律が緩やかで、どこか眠たくなるような。炎の揺れるリズムと、不思議と合っていた。歌詞はよく聞き取れなかったが、繰り返されるフレーズがあって、その部分だけは輪郭を持って聞こえた。何かを待つ、あるいは何かが来る、そういう内容のように思えた。


窓の外は暗くなっていた。風の音がする。


前世の夜は静かだった。研究室の機材の低い駆動音と、廊下の換気の音。外の音はガラスと壁に遮られて、ほとんど届かなかった。都市の夜に人工的な光があって、季節が変わっても夜の質感はほとんど変わらなかった。


ここの夜は違う。風が聞こえ、木が鳴り、動物の声がすることもある。夜の濃さが季節で変わる。冬の夜は特に、闇が深くて静かだ。音が一つひとつ、くっきりと聞こえる。風が木の葉を散らす音と、枝が揺れる音と、遠くの獣の声。それらが層をなして、夜を作っている。夏の夜とは全く違う種類の静けさだ。


バーバラの歌声が続く。俺は眠気を感じながら、帽子の感触を確かめた。柔らかい。暖かい。


眠気の中で、今日のことを順番に思い返した。朝の冷たい風。バーバラが空を読む横顔。オリヴィアの大荷物。暖炉の赤み。白い帽子。それらが一つの線でつながって、今日という一日になっている。前世の俺の一日には、こういう線がなかった気がする。朝が来て、研究して、夜が来る。その間にあるものは、ほとんど何も残らなかった。今日の記憶が明日に続く感覚が、あまりなかった。季節のない生活は、記憶もまた積み重ならないのかもしれない。


季節は生活そのものだ、とさっき思った。だが今は、もう少し違う言い方が浮かんでいた。


季節は、誰かと過ごすための器なのかもしれない。


去年の冬、バーバラとオリヴィアは雪の中で笑った。今年の冬、俺はこの帽子を被って暖炉の前にいる。来年の冬には、また何かが起きるだろう。それが何であるかはわからない。だが、来年の冬もここにいるだろうという感覚が、なんとなくあった。根拠のない感覚だったが、不安でもなかった。ただ、そうなるだろうと思っていた。この部屋に、この暖炉に、この二人と一緒に、また冬を迎えるだろうと。


前世では、季節の先を考えることがなかった。今年の論文を書き終えたら次の研究があり、次の研究が終わったらまた次がある。時間は線形で、季節は無関係だった。終わりに向かって進むだけで、巡るものがなかった。


だが、ここでは季節が巡る。巡るということは、戻ってくるということだ。来年の冬にはまた冬支度をするだろう。またオリヴィアが何かを持ってくるだろう。バーバラがまた空を見て、雪を予測するだろう。そういう繰り返しの中に、生活があった。繰り返すことで積み上がるものがあった。去年の冬があって、今年の冬があって、それが来年の冬の土台になる。記憶が層になって、時間が深みを持つ。


それは研究とは全く異なる時間の使い方だった。成果を積み上げるのではなく、ただ繰り返す。繰り返すことに意味がある。前世の俺には理解しがたかったかもしれないが、今の俺には少しわかる気がした。わかる、というよりは、感じられる、と言う方が近いかもしれない。


   ◇ ◇ ◇


バーバラの歌が静かに終わった。炎が揺れている。


窓の外では、今年最初の雪が静かに降り始めていた。


音もなく、ゆっくりと。暗い夜に白いものが降ってくる。窓ガラスに張り付いてはとけ、また新しい雪が来る。バーバラは気づいていないようだった。あるいは気づいていて、あえて言わないのかもしれない。先に眠らせようとしているのかもしれないし、ただ自分の時間として持っていたいのかもしれない。


俺は見ていた。


雪を見て何かを感じるのは、これが初めてかもしれない。前世でも雪は降った。だが、それは移動を困難にするものだった。除雪の手間が増え、電車が遅延し、予定が狂う。厄介な気象現象として処理されていた。今は違う。白いものが降る。部屋の中は暖かい。頭の上には歪んだ帽子がある。暖炉の赤みがある。バーバラの息遣いがある。


それだけのことが、不思議なほど豊かに感じられた。


季節に興味がなかった前世の俺が、今こうして雪を眺めている。感想が浮かんでいる。雪は静かだ、と思っている。冬はこういうものなのかもしれない、と思っている。朝にバーバラが窓を開け、昼にオリヴィアが冬支度をして、夜に雪が降り始めた。一日の中に、季節が通っていた。


それは発見だった。


研究室の中で発見したどんな事実とも違う種類の、小さくて個人的な発見だった。だが、だからこそ確かに、俺のものだった。誰かに奪われることもなく、数値に変換されることもなく、論文に書かれることもなく、ただここにある。この部屋に、この夜に、俺だけが持っている。


前世の俺に今日のことを話したとしたら、何と言うだろうか。と、少しだけ考えた。帽子を編んでもらった、と言っても意味が伝わらないかもしれない。暖炉の前で過ごした、と言っても価値がわからないかもしれない。雪が降り始めた、と言っても感慨がないかもしれない。何も生産していない一日だ、と片づけてしまうかもしれない。


だが今の俺にはわかる。今日は豊かな一日だった。意味のない時間は一瞬もなかった。冬が来て、備えが整って、誰かが俺のために時間を使ってくれた。それを受け取った。それでいい。それで十分だ。


誰かと過ごす冬は、こういうものなのかもしれない。


窓の外では雪が降り続けている。静かに、静かに、積もっていく。朝になれば白くなっているだろう。バーバラが窓を開けて、また空を読むだろう。そういう明日が来ることが、今の俺にはわかる。それもまた、前世の俺には持てなかった感覚だった。


明日の朝が楽しみだ、と思っていることに気づいた。前世では、明日を楽しみにしたことがほとんどなかった。明日も研究があり、明後日も研究がある。それだけだった。だが今は、明日の朝の雪が楽しみだ。バーバラがどんな顔をするか。オリヴィアに知らせたら驚くだろうか。そういう小さなことが、翌朝を待つ理由になっている。


季節の中で生きるとは、こういうことなのかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ