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Ep95. 未来を待つ楽しさ

|前世の俺は、未来を信じていなかった。


正確には、未来に期待していなかった。


努力すれば成果が出る。研究すれば進歩する。それは信じていた。だがそれは未来への期待ではない。ただの因果関係だ。計算式だ。今日の努力が明日の成果に変換される、それだけの話だ。そこに喜びはない。胸が高鳴るような予感もない。あるのはただ、入力と出力の間に横たわる数字の列だけだった。


前世の俺は医術師だった。それなりに優秀だったと思う。患者の容態を数値で把握し、最適な処置を導き出し、結果を記録する。感情は邪魔だった。泣いている家族を見ても、何かを感じる前に次の手順を考えていた。感傷は判断を鈍らせる。そう思っていた。思い込んでいた。あるいは、そう思うことにしていたのかもしれない。


今になって振り返ると、前世の俺はひどく貧しかった。物質的にではない。内側が、だ。何かを待つということを知らなかった。誰かのことを考えながら眠るということを知らなかった。明日が楽しみだと感じたことが、ほとんどなかった。


それが今は、少し違う。


 ◇ ◇ ◇


オリヴィアとの約束がある。大きくなったら、一緒にクッキーを食べる。たったそれだけの約束だ。世界を変える話ではない。偉業でも、歴史に残る出来事でもない。医魔術の発展にも繋がらない。誰かの命を救うわけでもない。ただ、クッキーを食べるというだけのことだ。


なのに。


なぜだろう、妙に楽しみだった。


それが不思議でならなかった。前世の俺なら一笑に付しただろう。そんなことに期待するのか、と。しかし今の俺はその感覚を否定できない。いや、否定したくない。この小さな楽しみは、前世では一度も味わったことのないものだった。だから余計に、大切にしたいと思う。


その日の昼、オリヴィアは絵本を読んでいた。最近のお気に入りらしく、もう何度目か分からない。表紙には小さな子犬が描かれていて、全体的に丸みを帯びた優しい絵柄だった。俺はその隣で、半ば聞くともなしに耳を傾けていた。


内容は単純だ。迷子になった子犬が、様々な出会いや別れを経て、最後に家族の元へ帰り着く話。論理性は薄い。展開も最初のページを見れば予想できる。前世の俺なら退屈だと切り捨てただろう。こんな話に付き合う時間があるなら文献の一冊でも読んだ方がいい、と。


だが今の俺は、最後まで聞いてしまった。


オリヴィアの声のせいかもしれない。彼女は読み聞かせが上手い。登場人物によって声色を少し変えて、感情の動きに合わせて速さを調節する。それが自然で、わざとらしくなくて、気づけば物語の中へ引き込まれていた。子犬が道に迷って雨に濡れる場面では、どこか胸がざわついた。再会の場面では、何かが少し緩む感じがした。それが何なのかはうまく言葉にできなかったが、不快ではなかった。


「よかったねえ」


最後のページを閉じて、オリヴィアが微笑んだ。俺は絵本ではなく、その横顔を見ていた。嬉しそうだ。本当に、まるで自分のことのように。フィクションの中の、実在しない子犬の帰還を、心から喜んでいる。目尻が少し下がっていて、頬がほんのり上がっている。その表情は、何の計算もなく、ただそのまま感情が顔に出ている顔だった。


その時、ふと思った。


もし前世の俺がこの場にいたら、きっと理解できなかっただろう。絵本の登場人物は実在しない。喜んでも悲しんでも何の利益もない。物語は終わればそれまでで、現実には何も変わらない。なのになぜ喜ぶのか。なぜ泣くのか。なぜ笑うのか。前世の俺にはそれが理解できなかったはずだ。無駄だと思っただろう。非論理的だと片づけただろう。


だが今は、少し分かる。


人は、自分以外の誰かを大切に思える。それが本物でも、物語の中の存在でも、関係なく。その感情は確かに存在していて、その人の中で何かを動かしている。それは計算式には乗らないけれど、だからといって無意味だということにはならない。むしろ逆かもしれない。数字にならないから無価値だと言うなら、前世の俺は大切なものをずっと見落としていたことになる。


そう考えると、少し怖くなった。何十年も生きて、何も感じずにいたのかと思うと。


「ルーク?」


オリヴィアがこちらを見た。「どうしたの? 難しい顔してる」


俺は答えず、手を伸ばした。彼女の袖を掴む。最近よくやる仕草だ。気づけば癖になっていた。なぜそうするのか、自分でもうまく説明できない。引き止めたいわけでも、何かを要求したいわけでもない。ただそこにいてほしい、それだけだ。言葉にするとそれだけのことなのに、言葉にする前に手が動いている。


「ふふ」


オリヴィアが小さく笑った。「今日は甘えん坊だね」


違う、と思った。たぶん違う。いや、少しは合っているかもしれない。正確に言い表せなくて、俺は黙ったままでいた。でも訂正する気にもなれなかった。彼女が笑っていたから。それでいいと思えたから。


オリヴィアは袖を掴まれたまま、特に払いのけるでもなく、また別の本を手に取った。今度は絵本ではなく、薄い植物の図鑑だった。ページをめくりながら時々俺に見せて、「これ綺麗じゃない?」とか「この実、食べられるって書いてある」とか、独り言とも話しかけともつかない言葉を口にしていた。俺はそれを聞きながら、袖を握ったまま、ただそこにいた。


不思議と、何もしなくていい時間だった。


前世では、何もしていない時間が怖かった。何かをしていなければという焦りがあった。時間は有限で、消費するなら生産性のある使い方をしなければという強迫に近い感覚。休息でさえ、次の作業のための投資として捉えていた。本当の意味で、ただそこにいるということができなかった。


でも今は違う。


袖一枚分の距離で、誰かがそこにいる。それだけで十分だった。


 ◇ ◇ ◇


夕方になって、部屋に西日が差し込んできた。オリヴィアが図鑑を閉じて伸びをする。「もうこんな時間か」と言いながら立ち上がろうとして、俺がまだ袖を握っていることに気づいて、また笑った。


「離してあげるから、ちゃんとご飯食べるんだよ」


まるで子供に言い聞かせるような言い方だ。俺は子供なのだから当然かもしれないが、中身は違う。だがそれを指摘する気にもなれなかった。指摘したところで何が変わるわけでもないし、それよりも今この会話が心地よかった。


手を離した。オリヴィアが立ち上がる。去り際に俺の頭を軽く撫でて、部屋を出て行った。残ったのは西日と、かすかに残る彼女の気配だけだった。


俺は天井を見上げながら、今日のことを頭の中で繰り返した。絵本の子犬。オリヴィアの横顔。袖を掴んだこと。それだけでいいと思えた時間。どれも些細なことだ。記録に残すほどのことでもない。前世の俺なら、一日の終わりに振り返る価値もないと思っただろう。


だが今は、こういうことが積み重なっていく気がした。


記憶というより、何か別のものが積み重なっていく感覚。言葉にするのが難しい。ただ、悪くないと思った。いや、それ以上だ。少しずつ何かが満たされていくような感覚があった。


バーバラがいる未来。オリヴィアがいる未来。いつか話せる未来。いつか歩ける未来。そして、約束を果たす未来。


まだ遠い。今の俺には、できないことの方がずっと多い。言葉はまだ思うように出ない。体も思うように動かない。前世の知識はあっても、それを発揮できる体が追いついていない。もどかしいことばかりだ。


だが。


その遠ささえ悪くない、と思えるようになった。待つということを、ようやく覚え始めた気がする。前世では一度も知らなかった感覚だ。未来を楽しみに待つということ。誰かとの約束を胸に抱えて、今日を過ごすということ。それがこんなにも、生きることを豊かにするのだと、今の俺は少しずつ理解し始めていた。


前世の俺は、未来を数字で測った。効率と生産性と成果の積み重ねとして未来を捉えて、その先に何があるかを考えなかった。何のために進むのかを問わなかった。ただ進むことが正しいと思っていた。


今の俺は、未来を人で考えている。


あの人がいる場所へ行きたい。あの人と話したい。あの人と笑いたい。そういう方向に未来が伸びている。数字ではなく、顔が浮かぶ。名前が思い浮かぶ。それがどれほど遠くても、辿り着きたいと思える理由になる。


西日がゆっくりと薄れていく。部屋が静かになる。今日も終わっていく。


それでいい、と思った。今日もここにいた。それだけで十分だ。明日もきっとオリヴィアは絵本を読むだろう。バーバラはいつもの声で俺を呼ぶだろう。そしていつかもっと遠い未来に、約束通りクッキーを一緒に食べるだろう。


待つことは、贅沢だ。前世では一度も知らなかった、とても贅沢な感情だった。そしてその贅沢を、今の俺はようやく少しずつ手に入れ始めていた。

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