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Ep94. 朝の約束

約束とは契約だ。


前世の俺はそう考えていた。守るべき事項。果たすべき義務。それ以上でも以下でもない。だから、約束を楽しみにする感覚が理解できなかった。未来の予定に心を弾ませる。誰かとの約束を待ち遠しく思う。そんな感情は非合理だと思っていた。


……今は少し違う。


   ◇ ◇ ◇


翌朝、俺が目を覚ますと、珍しくオリヴィアが来ていなかった。いつもなら、もう顔を出していてもおかしくない時間だ。少し気になる。いや、かなり気になる。


「今日は遅いわねえ」


バーバラも同じことを思ったらしい。窓の外を見る。冬空は晴れている。体調不良ではなさそうだ。


   ◇ ◇ ◇


その時、扉が開いた。


「おはよう!」


元気な声。オリヴィアだ。そして、手には小さな籠。


「見て!」


得意げに掲げる。中には丸い焼き菓子。少し形は不揃いだが、丁寧に作られている。


「クッキー?」


バーバラが尋ねると、オリヴィアはにっこりと頷いた。


「うん! トムと一緒に作ったの!」


なるほど。仲直りしたあと、さらに仲良くなったらしい。


「仲直り記念なんだって」


オリヴィアが笑う。


「だからルークにも持ってきたの」


食べられないのだが。相変わらずだ、この少女は。


だが、不思議と嬉しかった。自分のことを思い出してくれた。それだけで。


   ◇ ◇ ◇


「今度ね」


オリヴィアが俺を見ながら言う。


「ルークが大きくなったら、一緒に食べようね」


その言葉に、俺は少しだけ固まった。


大きくなったら、という話だ。数年先。まだ遠い時間。


前世の俺は、未来を計画でしか見ていなかった。研究計画。実験予定。目標達成までの工程。そんなものばかりが頭の中を占めていた。誰かと過ごす未来を思い描いたことなど、一度もなかったように思う。未来とは、こなすべきタスクが並んだロードマップであって、心を弾ませるものではなかった。温かみのある色をしていなかった。


だが、今の未来は違う。


一緒に話す未来。一緒に笑う未来。一緒に食卓を囲む未来。そういうものが自然と頭に浮かぶ。それがひどく新鮮で、同時に、ひどく当たり前のことのように感じられる。この感覚が何なのか、前世の語彙では上手く言い表せない。ただ、悪くないと思っていた。悪くない、どころか。


   ◇ ◇ ◇


「約束だからね」


オリヴィアが小指を立てる。


「絶対だよ」


俺はその指を見た。小さくて、丸みのある指。まだ指切りなんてできない。それでも、小さな手を伸ばして、その指に触れた。


「ふふ」


オリヴィアが笑う。


「約束成立」


   ◇ ◇ ◇


約束。


契約ではない。義務でもない。未来を楽しみにするための言葉。誰かとの間に結ぶ、柔らかくて温かい約束事。それを守るのは義務感からではなく、その未来が来ることを、心のどこかで待ち望んでいるからだ。


前世の俺には、そんな発想がなかった。約束とは履行すべき事項であり、感情が介在する余地はないと思っていた。待ち望むとか、楽しみにするとか、そういう言葉は約束という概念とは別の引き出しに入っていた。繋がっていなかった。


でも今は、繋がっている。


オリヴィアが小指を立てた瞬間、俺の中に生まれたのは義務感ではなかった。もっと柔らかくて、もっと軽くて、けれど確かな何かだった。数年後、クッキーを一緒に食べるという、ただそれだけの未来を、俺は既に少し楽しみにしている。


   ◇ ◇ ◇


そういう約束もあるのだと。


俺はまた一つ、この人生で初めて知ったのだった。


前世では手に入れられなかったもの。計画にも工程にも書き込めないもの。でも今の俺は赤ん坊で、バーバラに世話をされて、オリヴィアに会いに来てもらって、指に触れることしかできないけれど。


それで十分だと思えている。


むしろ、十分以上だ。


   ◇ ◇ ◇


窓の外では冬の日差しが柔らかく差し込んでいた。オリヴィアはクッキーの籠をバーバラに手渡して、それからまた俺のそばに来て、しゃがみ込んで顔を覗き込んだ。


「ルーク、ちゃんと聞いてたよね?」


聞いていた。全部。


「返事できないのはわかってるけど」


オリヴィアがくすくす笑う。


「でも、わかってると思うから」


この少女は不思議だ。赤ん坊に話しかけて、赤ん坊が理解していると信じている。普通はそんなことを思わないだろう。でも、オリヴィアは迷いなくそうする。根拠があるわけでもないのに、確信している顔をしている。


それが俺には眩しかった。


前世の自分は、証拠のないことを信じなかった。データのないことを断言しなかった。確かめられないことには常に留保をつけた。それが正しいと思っていた。思考の誠実さだと。


でも。


証拠もなく信じてもらえることが、こんなにも温かいとは知らなかった。


   ◇ ◇ ◇


「またね、ルーク」


オリヴィアが立ち上がる。


帰り際、籠を持ったバーバラと何か話している。クッキーのレシピのことらしい。次はもっと上手く焼けると思う、とオリヴィアが言っている。バーバラが笑いながら頷いている。


その光景を、俺はじっと見ていた。


こういう日常が、俺には前世になかった。誰かと他愛のないことを話して、笑って、また会おうと言い合う。そういう当たり前が、前世の俺の周りにはなかった。あったのかもしれないけれど、俺が気づいていなかっただけかもしれない。あるいは、あったとしても大事にしていなかったのかもしれない。


今はそれが惜しいと思う。


少しだけ。


   ◇ ◇ ◇


扉が閉まった。


オリヴィアが帰った後の部屋は、少し静かだ。バーバラがクッキーを一枚つまみながら「美味しいわねえ」と言っている。そうか、食べられるのか。形が不揃いでも、ちゃんと美味しいのか。


俺はそれを聞きながら、数年後のことを考えた。


大きくなったら、一緒に食べよう。


オリヴィアはそう言った。絶対、とも言った。その言葉は義務として受け取る必要はない。ただ、そういう未来を一緒に想像したいという意思表示だ。俺もその未来に行きたいという気持ちがある。それだけでいい。それだけで成立する約束がある。


前世の俺が聞いたら笑うかもしれない。契約書もない、罰則もない、そんなものが何の意味を持つのかと言うかもしれない。


でも今の俺は知っている。


意味は、ある。


   ◇ ◇ ◇


冬の日差しがゆっくりと移動して、床に細長い光の帯を作っていた。バーバラが鼻歌を歌いながら何かをしている。クッキーの香りがまだ少し残っている。


俺はまどろみながら、約束という言葉を頭の中で転がした。


契約。義務。履行。前世ではそういう言葉と一緒に存在していた概念が、今は全然違う形をしている。もっと丸くて、もっと軽くて、でも手放したくない形をしている。


楽しみにするためのもの。


待ち望むためのもの。


誰かと未来を共有するためのもの。


それが約束なのだと、今ならわかる気がした。


   ◇ ◇ ◇


眠くなってきた。


赤ん坊の体はすぐ眠くなる。それが少し不便だとも思うけれど、今はそれほど悪くない気もしている。眠る前に少し考えて、また目を覚ましたらまた誰かがいる。そういう繰り返しが今の俺の日常で、前世とは全く違う時間の流れで、でもそこには確かに何かが積み重なっていく感じがある。


関係性が育っていく。


感情が育っていく。


俺が育っていく。


前世では、育てるものは研究だけだった。でも今は違う。育てられるものがたくさんある。育てていきたいものがたくさんある。


オリヴィアとの約束も、その一つだ。


   ◇ ◇ ◇


まぶたが重くなる。


数年後、俺はちゃんと大きくなるだろうか。この世界のことを、まだ俺はよく知らない。前世の知識がどこまで役に立つかも、正直わからない。どんな世界で、どんなルールがあって、どんな人間関係が待っているのか。そういう不確定要素が山ほどある。


でも、今はそれがそれほど怖くない。


前世の俺なら、不確定要素を嫌った。計算できないことは不安の種だった。予測できない未来には、できる限り備えようとした。でも今は、わからないことの中に、楽しみになるものが混じっていると知っている。


少なくとも、オリヴィアが持ってきてくれたクッキーを一緒に食べられるくらいには、ちゃんとやっていけると思う。根拠はない。でも、そう思っている。


……これが、楽しみにするということか。


   ◇ ◇ ◇


俺はそのまま、柔らかい眠りの中に落ちていった。バーバラの鼻歌が遠くなっていく。クッキーの香りがほんの少し残っている。数年後の食卓を、俺はまぶたの裏にぼんやりと思い描きながら、意識を手放した。

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