Ep93. 眠れない夜
前世の俺は、眠るのが嫌いだった。時間の無駄だからだ。眠っている間は研究できない。知識も増えない。成果も出ない。だから最低限しか眠らなかった。疲労回復のための作業。それ以上でも以下でもない。今思えば、随分と味気ない人生だった。
◇ ◇ ◇
その夜、なぜか眠れなかった。
赤子の身体は眠気に忠実だ。普段ならすぐ意識が沈む。だが今日は違った。目が冴えていた。
窓の外では風が鳴っている。小さな家。古い木材の軋む音。暖炉の残り火。ただそれだけのことが、妙に意識の表層に引っかかって、眠りの入り口をふさいでいた。静かな夜だった。静かすぎるくらいに。
バーバラは寝ている。少し離れたベッドから、規則正しい寝息が聞こえる。疲れていたのだろう。今日も働いていた。俺のために。生活のために。そういうことを、彼女は当たり前のようにやってのける。文句も言わず、愚痴もこぼさず、ただ淡々と、しかし確かな温かさを持って。
その寝顔を見ながら、ふと思った。
前世の母は、こんな顔で眠っていただろうか。
◇ ◇ ◇
記憶を探る。だが曖昧だ。覚えていない。いや、正確に言えば、見ようとしていなかったのだ。
母はいた。確かにいた。食事も作っていた。洗濯もしていた。俺を育てていた。だが俺はそれを当然だと思っていた。感謝もしていない。理解しようともしていない。ただ漠然と、愛されていないと思い込んでいた。
今になって考えると、本当にそうだったのか自信がない。本当に愛されていなかったのか。それとも、俺が受け取れなかっただけなのか。受け取る器を持っていなかったのか。最初からそういう人間だったのか、それとも何かの拍子にそうなったのか。
答えはない。もう確かめられない。前世は終わった。過去は戻らない。
それでも考えてしまうのは、今の俺がバーバラの寝顔を見ているからだろう。比べてしまう。あの頃の記憶と、今のこの温度を。靄がかかったような薄い過去と、鮮明すぎるほど鮮明な現在を。
どちらが正しかったのかは分からない。ただ、今が違うことだけは分かる。
◇ ◇ ◇
バーバラは俺を愛している。
疑いようもなく。見返りもなく。当たり前のように。それは前世の俺がずっと欲しかったものだ。長い研究室の夜に、積み上げた論文の山の向こうで、うっすら思い描いていたものだ。欲しいと口には出さなかった。出す相手もいなかった。そもそも欲しいという感情があることに、自分では気づいていなかったかもしれない。
それを今、こうして得ている。
奇妙な話だと思う。前世で手に入れられなかったものを、転生した先でこんなにあっさり与えられてしまうとは。努力もしていない。相応しいことも何もしていない。ただそこにいたら、バーバラが俺を選んで、愛してくれた。
手に入れた今になって、初めて気づく。
愛されることは、案外、怖い。
◇ ◇ ◇
失いたくないからだ。
これが欲しいと思う前は、失う怖さもなかった。何も持っていない人間は、何も失わない。前世の俺は、そうやって生きてきた。人と深く関わらなかった。必要以上に踏み込まなかった。感情を交わさなかった。そうすることで、傷つかなかった。同時に、何も得られなかった。
それが正しい生き方だとは思っていなかったが、間違いだとも思っていなかった。ただそういうものだと思っていた。研究に生きて、知識を積んで、成果を出す。人生はそういうものだと。人との繋がりは、その邪魔になるものだと。
今はそれが根本からひっくり返っている。
オリヴィアに嫉妬した時に思い知った。あの時の俺は、自分がこれほど感情的になれることを知らなかった。嫉妬なんて、子供のするものだと思っていた。だが実際にそれが胸の中で燃え上がった時、俺は驚くより先に混乱した。こんなにも誰かを失いたくないと思うのか、と。こんなにも、誰かが自分の前からいなくなることを恐れるのか、と。
仲直りを心配した時も同じだった。どんな顔をして会えばいいか、どんな言葉を選べばいいか、本当に元に戻れるのかどうか、頭の中でぐるぐる繰り返して、眠れない夜があった。馬鹿みたいだと思った。しかし止められなかった。
大切になるほど、怖くなる。それが今の俺には分かる。骨身に染みるほどよく分かる。
◇ ◇ ◇
前世の俺は、失うのが怖くて人を遠ざけた。
正確にはそうではないのかもしれない。失うのが怖いという感情があったかどうか、今となっては定かではない。ただ、深く関わることを避けていた。関わりの薄い人間は失っても痛くない。だから関わりを薄くしておく。その方が合理的だと思っていた。
合理的。その言葉を俺はよく使っていた。感情を切り捨てる時の、言い訳として。大事なものから目を背ける時の、錦の御旗として。今思えば、ずいぶんと便利な言葉を使っていた。合理的という衣を着せれば、自分の弱さを弱さと認めなくて済んだ。
弱さとはつまり、傷つくことへの恐れだ。
傷つきたくないから、何も持たない。何も持たなければ、失わない。失わなければ、傷つかない。完璧な論理に見えた。穴のない回路に見えた。しかしその回路は、入力も出力もなかった。電気は流れているかもしれないが、何も照らさず、何も動かさず、ただ静かにそこにあるだけだった。
それが前世の俺の人生だった。静かで、整然として、何もない。
◇ ◇ ◇
今は違う。
怖い。失うのが怖い。バーバラを失いたくない。オリヴィアを失いたくない。この小さな家の、古い木材の軋みも、暖炉の残り火も、規則正しい寝息も、全部失いたくない。そう思うと、胸のどこかがきゅっと締まる感じがする。赤子の身体で感じるそれは、前世では知らなかった感覚だ。
だが、それでもいいと思える。
怖くてもいい。傷つくかもしれなくてもいい。その代わりに、今の俺には得られるものがある。バーバラの温もり。オリヴィアとの時間。朝になれば聞こえてくる声。名前を呼ばれること。抱き上げられること。そういう、前世では持っていなかった無数の小さなことが、今の俺を満たしている。
それは数値化できない。論文にも書けない。成果として発表できるものでもない。だが確かに存在している。前世の俺が積み上げた知識よりも、ずっと確かな重さで、今ここに存在している。
◇ ◇ ◇
ふと、前世のことを考える。
俺は何かを成し遂げたのだろうか。研究成果を残したのだろうか。記憶は曖昧で、自分がどれほどのことを成したのか、はっきりとは思い出せない。けれど仮に何かを残せていたとして、それが今の俺にとって何の意味を持つだろうか。前世の成果は前世のものだ。この身体には関係ない。バーバラにも、オリヴィアにも、この小さな村にも、何の関係もない。
ならば、ここで積み上げていくしかない。この世界で、この身体で、この関係の中で。医魔術を学んで、誰かの役に立って、失いたくない人たちを守れるようになって。それが今の俺の道だ。前世の続きではなく、今世の始まりとして。
もっとも、今の俺にできることは限られている。まだ赤子だ。歩くことも、話すこともできない。医魔術などまだはるか遠い先の話だ。しかし、それでいいとも思う。急がなくていい。前世の俺は常に急いでいた。もっと早く、もっと多く、もっと先へと。何かに追われるように生きていた。今世にはまだ時間がある。前世よりもずっと多くのことを、ゆっくりと積み上げていける。それは悪くない。むしろ、ありがたいことだと思う。
◇ ◇ ◇
バーバラの寝息が、少し変わった。寝返りを打ったのだろう。一瞬だけ止まって、また規則正しく戻る。
俺はその音を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。
怖くてもいい。傷つくかもしれなくてもいい。その代わりに得られるものがある。今の俺は、ようやくそれを知り始めている。そしてそれはきっと、医魔術よりも、知識よりも、もっと人生の根っこにあるものなのだろう。成果よりも先に、土台として必要なものなのだろう。前世の俺が積み上げ損ねたものなのだろう。
そんなことを考えながら、久しぶりに穏やかな気持ちで眠りについた。
外では風が鳴り続けていた。古い家が軋んでいた。暖炉の残り火が、静かに燃えていた。それだけのことが、今の俺にはありがたかった。ここにあること。ここにいること。バーバラの寝息が聞こえる距離にいること。眠るのが嫌いだった前世の俺には、分からなかったことだ。
眠りの中にも、何かがある。夢があるとか、癒しがあるとかいう話ではない。ただ、誰かの傍で目を閉じるという行為そのものに、意味がある。前世の俺が切り捨てていたものの中に、案外大事なものが混じっていたのかもしれない。
まあ、それに気づいたのが今世でよかった。そう思いながら、俺は眠った。




