Ep90. おかえり
# 待つということ
待つという行為は、非効率だ。
前世の俺はそう考えていた。結果が欲しいなら動けばいい。情報が欲しいなら調べればいい。ただ待つだけなど生産性がない、時間の無駄だ——そう切り捨てていた。
医師という職業は、ある意味では「待てない人間」に向いている。患者の容態は刻一刻と変わる。判断を一秒でも誤れば命に関わる。だから俺は常に動き、常に考え、常に手を動かし続けた。研修医の頃から、誰よりも早く病棟に来て、誰よりも遅く帰った。休日も論文を読んだ。学会発表のたびに新しい術式を提案した。難病の治療法を探して、何年もかけて臨床試験を繰り返した。
成果は出た。論文の被引用数は増えた。後輩たちは「先生は化け物だ」と言った。患者の家族が泣いて頭を下げるたびに、俺は「当然のことをしたまでです」と答えた。感謝されることには慣れていたが、それはどこか事務的な感慨でしかなかった。「やるべきことをやった結果として人が助かった」——それだけの話だ、と思っていた。
そうして気づいたら、四十三年の人生が終わっていた。
過労死、というやつだった。
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目が覚めたら赤子だった。
最初の数日は状況の整理に費やした。どうやら別の世界に転生したらしい、という結論は比較的早く出た。前世の記憶が丸ごと残っているのは、転生というシステムの仕様なのか、あるいは俺の脳が異常に頑丈なのか——後者は冗談だが、前者も大概意味が分からない。とにかく俺は、見知らぬ家の、見知らぬ天井を、見知らぬ赤子の目で眺めながら、前世の記憶を整理していた。
家族らしき人間が二人いた。
母親と思われるのが、バーバラという名の女性だ。三十代半ばといったところか。亜麻色の髪を緩くまとめて、いつも穏やかに微笑んでいる。父親の姿はない。死別か離別かは分からないが、バーバラがその話題を避けているように見えるので、俺も深く考えないことにした。
そしてもう一人が、オリヴィアだ。
七歳か八歳、といったところだろうか。くりくりとした目と、少し癖のある栗色の髪が特徴的な少女で、どうやら俺の姉にあたるらしい。俺のことが相当気に入っているようで、バーバラが「オリヴィア、ルークを抱くときはちゃんと首を支えて」と何度言っても、嬉しそうに俺を抱き上げようとする。
近い。いつも顔が近い。
前世の人間関係において、これほど至近距離から顔を覗き込まれた経験はない。同僚とも患者とも、俺は常に「適切な距離」を保っていた。それが礼儀だと思っていたし、必要以上に近づくことで生じる感情的な複雑さを、俺は好まなかった。
しかしオリヴィアにそういった「距離感」の概念はないらしく、彼女は毎日のように俺の顔を覗き込んで、「ルーク、今日も可愛い!」などと言ってくる。
可愛い、と言われる側になったのは、おそらく生まれて初めてだった。
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ある朝、オリヴィアは沈んだ顔で朝食を食べていた。
いつもは「いただきます」の声と同時にスプーンを口に運ぶ勢いなのに、その日はパンを千切っては皿に戻し、千切っては皿に戻し、を繰り返している。バーバラは何も言わず、ただ静かにお茶を飲んでいた。
俺はバーバラの膝の上に抱かれながら、その様子を眺めていた。
やがてオリヴィアが口を開いた。
「……トムと喧嘩した」
トムというのは、近所に住む同い年の男の子だ。オリヴィアが「親友」と呼んでいる相手で、放課後になると二人で庭を駆け回っている姿をよく見かける。
「そう」とバーバラは言った。「何があったの?」
「トムがね、私の絵、変だって言ったの」
絵。オリヴィアは絵を描くのが好きで、先日もクレヨンで大きな虹の絵を描いて、得意げに俺に見せてきた。七色が盛大に混ざり合って、正直なところ何が描きたかったのかは分からなかったが、彼女が満足そうだったのは伝わった。
「変、って言ったのね」
「うん。なんか笑って。虹が空から地面まで刺さってるのは変だって」
「あなたはどう思ったの?」
「……悲しかった。せっかく頑張って描いたのに」
バーバラはしばらく黙っていた。それからゆっくりと言った。
「トムはどんな気持ちで言ったと思う?」
オリヴィアは首を傾けた。「……分からない。意地悪したかったのかな」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。あなたが悲しかったこと、トムは知ってる?」
「知らないと思う。私、何も言わないで帰ってきたから」
「じゃあ、伝えてみる?」
オリヴィアは少し考えて、それからまたパンを千切り始めた。返事はなかった。
バーバラもそれ以上は何も言わなかった。
俺はその会話を聞きながら、前世の母親のことを考えた。彼女は感情的な人間で、俺が何か悩んでいると矢継ぎ早にアドバイスを重ねた。「こうすればいい」「ああすればよかった」「なぜそうしなかったの」——善意だったのは分かっているが、その度に俺は少し疲れた。
バーバラの「聞いて、問いかけて、待つ」という姿勢は、不思議と心地よかった。
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昼過ぎになって、オリヴィアはソファの端に座り、膝を抱えていた。
バーバラは台所で昼食の片付けをしている。鍋を洗う音が、規則正しくリズムを刻んでいた。
俺はオリヴィアの隣に——正確には、彼女が敷いた毛布の上に——寝かされていた。赤子というのは基本的に自分では移動できないので、置かれた場所にいるしかない。これが不本意極まりないのだが、今日ばかりはそれが偶然の幸運になった。
オリヴィアはしばらく窓の外を眺めていた。
それから急に、俺の方を見た。
「ルーク、私どうすればいいと思う?」
言えるわけがない。喋れない。そもそも俺は赤子で、彼女の弟で、前世の記憶があるとはいえ、この小さな体では声を出すことすら満足にできない。
だが。
オリヴィアは、俺が何かを「分かっている」と信じているらしかった。根拠のない信頼だが、子供というのはそういうものかもしれない。
俺は彼女を見上げた。それだけだ。返事もできないし、頷くこともできない。ただ見上げる。
するとオリヴィアは少し間を置いてから、自分で話し始めた。
「……トムはね、悪い子じゃないんだよ。いつも一緒に遊んでくれるし、私が転んだときも助けてくれた。ただ、たまに思ったことをそのまま言っちゃうんだよね」
俺は引き続き、見上げていた。
「私も、もしかしたら、変な絵だったかもしれないし。でも悲しかったのは本当だし。うーん」
彼女は眉根を寄せて、しばらく考え込んだ。
その時、俺は自分でも驚くような衝動に駆られた。
手を動かした。赤子の手は思い通りに動かない。だがなんとか、近くにあったオリヴィアの袖の端を、指でつまんだ。
オリヴィアが俺を見た。
何を伝えたかったのか、俺自身よく分からない。「行ってこい」でもなく「大丈夫だ」でもなく、ただなんとなく——何か言いたかった。言えないから、手を動かした。それだけだった。
だがオリヴィアは少しの間俺の手を見て、それからふっと表情が変わった。
「……そうだね」
何がそうなのかは分からない。
「行ってくる」
彼女は立ち上がって、台所のバーバラに「トムのとこ行ってきていい?」と声をかけた。
「もちろん」とバーバラが答えた。「暗くなる前に帰ってくるのよ」
「分かった!」
玄関の扉が閉まる音がした。
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それから、待った。
非効率な行為だ。そう分かっていても、待つしかなかった。
バーバラは編み物を始めた。針が規則的に動く音と、窓の外で鳥が鳴く声だけが部屋に満ちていた。光が少しずつ傾いて、床の上に伸びる影が長くなっていった。
平和だ。あまりにも平和で、だからこそ落ち着かない。
もし仲直りできなかったら——という考えが頭をよぎる。馬鹿馬鹿しい。当人でもない俺が何を心配している。だいたい子供の喧嘩などというものは、大人が思うほど複雑なものではないはずだ。前世でも、病院の廊下で子供たちが言い争いをして、十分後には一緒に笑っている場面を何度も見た。
だが、気になるものは気になる。
オリヴィアは傷ついていた。それは本物だった。悲しみも、躊躇いも、それでも動こうとした瞬間の小さな決意も、全部本物だった。そういうものが本物であればあるほど、結果もまた切実に思えてくる。
バーバラは編み物を続けている。心配していないのだろうか、と一瞬思ったが、おそらく違う。心配しながら、待っているのだ。子供を信じて、待てる人間というのは、それだけで十分に強い。
俺にはそれができなかった。
前世の俺は、何事も「確認」せずにいられなかった。患者の術後経過、投薬の効果、後輩の指導結果——常にデータを取り、数値で確かめ、目に見える形で成果を把握しないと気が済まなかった。それは医師としては正しい姿勢だったかもしれないが、人間関係においては少し窮屈だったかもしれない。
信じて、待つ。
その二つがどれほど難しいか、赤子になって初めて実感している。
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その時だった。
勢いよく扉が開いた。
「ただいまー!」
声が弾んでいる。靴を脱ぐ音も、廊下を走る足音も、全部明るかった。その一声で結果は分かった。
「おかえり」とバーバラが笑う。「どうだった?」
オリヴィアは満面の笑みで答えた。
「仲直りした!」
だろうな——と思いながら、俺は内心少し照れくさいような気持ちになった。知っていた、と言いたいところだが、本当は少し心配していた。だが今となっては、そんな不安が馬鹿らしくなるくらい、彼女は嬉しそうだった。
「私がごめんって言ったらね、トムもごめんって言って、それで終わり!」
単純だ。実に単純。
前世の大人たちならもっと複雑になる。責任の所在、立場の違い、損得の計算、引くに引けない意地——余計なものが山ほど絡み合う。謝ること一つとっても、誰が先か、どんな言葉を使うか、どこで言うか、誰かに見られていないか、後から蒸し返されないか……そういった考えが邪魔をして、肝心な一言が出てこない。
だが子供は違う。謝る。許す。終わり。
なんて単純で、なんて難しいことだろう。
「よかったわね」とバーバラが微笑む。
「うん!」
オリヴィアは何度も頷いた。それから突然こちらを向いた。
「ルークもありがとう!」
俺を抱き上げる。近い。今日も近い。だが今は少しだけ許そう。
「背中押してくれたもんね」
違う。俺は何もしていない。袖を掴んだだけだ。言葉もない、助言もない、ただ手が届く範囲にいて、たまたま動いただけだ。だが彼女はそう思っているらしい。
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不思議だ、と俺は思った。
前世の俺は、もっと有用なことを山ほどしてきた。難病を治した。新しい術式を開発した。何人もの命を救った。数え切れないほどの患者と家族に感謝された。それなのに、こんな風に感謝された記憶は、どこか薄い。
患者の家族が涙を流して礼を言うとき、俺はいつも少し距離を置いて受け取っていた。「当然のことをしました」「私ではなくチーム全体の成果です」「お役に立てて何よりです」——そういった言葉で丁寧に、しかし確実に、感謝を「処理」していた。感情として受け取らずに、情報として処理していた。
なぜそうしていたのか、今になって少し分かる気がする。
感謝を受け取るということは、相手との間に何かが生まれることだ。感謝する側とされる側の間に、小さな繋がりができる。俺はその繋がりを、怖れていたのかもしれない。繋がれば、失うことを考える。失うことを考えれば、感情が揺れる。感情が揺れれば、判断が鈍る——そういう連鎖を、どこかで恐れていた。
だから俺は、いつも「十分な距離」の後ろに立っていた。
袖を掴んだだけ。それだけなのに、オリヴィアは嬉しそうに笑う。
なら——もしかすると、人を支えるというのは、必ずしも大きな力じゃなくていいのかもしれない。凄い技術も、圧倒的な才能も、時には必要だろう。だが、誰かの隣にいること。ただそこにいて、相手が自分で動き出すのを待つこと。それだけで救われる人もいる。
それは待つことだ。
非効率で、生産性がなくて、俺が最も苦手としていた、あの行為だ。
「えへへ」
オリヴィアが笑う。その顔がまた近い。眩しいくらいに近い。
その笑顔を見ながら、俺は静かに思った。
前世の俺は、治療の方法ばかり学んでいた。術式、薬理、診断アルゴリズム——人体の仕組みと、それが壊れたときの直し方を、誰よりも深く学んだ。だが人を支える方法は、何ひとつ知らなかったのかもしれない。隣に立つことの意味を、待つことの価値を、何も知らないまま四十三年が終わった。
そして今、その一番初歩的なことを、年下の少女から学んでいる。
まったく。
人生とは、本当に予想外の連続だった。
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夜になって、バーバラが俺を寝かしつけながら小さく歌を歌った。知らない言葉の、知らないメロディだったが、やさしい声だった。
オリヴィアはもう隣の部屋で眠っているらしく、家の中は静かだった。
俺は天井を見上げながら、今日のことを反芻した。
待つことを、俺はずっと「何もしないこと」だと思っていた。だが違うのかもしれない。待つというのは、相手を信じることだ。相手が自分で動けると信じて、その邪魔をしないことだ。バーバラがオリヴィアに「行ってみれば」と無理に背中を押さなかったように。俺がオリヴィアに「こうすべきだ」と言葉を尽くさなかったように——正確には言えなかったのだが——それが結果的に、彼女の背を押した。
支えるというのは、もしかすると「何もしないように見えて、何かをしている」ことなのかもしれない。
そこにいること。見ていること。信じていること。
それだけで、人は動けることがある。
眠くなってきた。赤子の体は正直で、考え事の途中でも容赦なく意識を沈めていく。
次の人生では、もう少し上手くやろう。
治す技術だけでなく、支える技術も。誰かの隣に立つことを、もう少し恐れずに。
そんなことを思いながら、俺は眠った。
窓の外では、まだ鳥が鳴いていた。




