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Ep89. 仲直りの方法

# 修正版


前世の俺は、謝るのが下手だった。


いや、正確には——謝る必要を感じていなかった。


自分が正しいなら謝らない。自分が間違っているなら修正する。それだけだ。感情の問題は非効率だった。誰かが傷ついたとしても、それは事実に対する反応であって、俺が事実を曲げるべき理由にはならない、と思っていた。謝罪というのは間違いを認める行為であって、間違っていなければ謝る必要はない。そういう理屈で生きていた。


だから、いつの間にか周囲から人がいなくなった。少しずつ、少しずつ。誰かが去った、というより、誰かが来なくなった、という感じだったから、最初はよく気づかなかった。今なら分かる。人は正しさだけでは繋がれない。正しくても、冷たければ、やがて人は離れていく。温度のない言葉は、どれだけ正確でも人の心には届かない。


◇ ◇ ◇


翌日、オリヴィアは朝から落ち着かなかった。


窓の外を見ては、ため息をついて、また窓を見る。忙しい、と俺は思った。本当に分かりやすい。彼女は部屋の中をうろうろと歩き回り、何かを言いかけては止めて、また歩いた。足音が少しだけ落ち着きなく床を叩く。窓辺に寄って外を眺めて、何も見ていない目のまま、また部屋の中心に戻ってくる。その繰り返しだった。


「会いに行こうかなあ」


ぽつりと呟いて、そのまま黙った。独り言のつもりだったのかもしれないが、声が部屋に広がって消えるまでの間、彼女は誰かに答えを求めるように中空を見つめていた。答えが空気の中にでも書いてあるかのように。もちろん、何も書いてない。


「でもなあ……」


続きは声にならなかった。言葉の代わりに、小さな息が出た。それが答えの代わりになってしまっている。行きたい、という気持ちは本物だ。だけど、その一歩を踏み出すことが、どうしてこんなに難しい。


行きたい。でも怖い。


その繰り返しだ。言葉にしないまま表情がくるくる変わる。唇を噛んで、眉を寄せて、また窓の外に目を向ける。空は何も答えない。当たり前だが。


俺には少し意外だった。オリヴィアは強い、と思っていた。人懐っこくて、怖いもの知らずで、誰とでも気安く話せる人間だと。初めて会った日から、彼女にはそういう雰囲気があった。警戒心が薄いというか、人との距離が近いというか、壁を作らない人だという印象。だから、こんなふうに怖じ気づくとは思っていなかった。


だが、違うらしい。


彼女が躊躇しているのは、弱いからじゃない。大切だから怖いのだ。失いたくないから。傷つきたくないから。勇気が出ない。どうでもいい相手には怖さを感じない。怖いということは、それだけ大事だということだ。俺はようやくそれを、今になって理解し始めていた。強さと怖さは矛盾しない。それどころか、本当に強い人間ほど、失うことの怖さを知っている。


◇ ◇ ◇


その時、バーバラが洗濯物を畳みながら言った。


「仲直りしたいの?」


声のトーンは穏やかで、責めるでも急かすでもなかった。ただ、事実を確認するように。バーバラはオリヴィアの動きを見ていたはずだが、特に何も言わずにずっと洗濯物と向き合っていた。あのうろうろを、ため息を、呟きを、全部聞いていて、それでもこのタイミングまで待っていた。


「うん」とオリヴィアが答えた。短く、しかし迷いなく。そこだけは揺れていなかった。行きたいかどうか、という問いへの答えは最初から決まっていたのだ。揺れていたのは、行けるかどうか、という別の問いに対してだった。


「じゃあ会いに行けばいいじゃない」


簡単に言う。まるで「お腹が空いたなら何か食べれば」くらいの温度で。バーバラの手は洗濯物の上で規則正しく動き続けていた。畳んで、重ねて、また次の一枚を手に取る。


オリヴィアは唇を尖らせた。「でも怒ってるかも」


「そうかもね」


「許してくれないかも」


「そうかもね」


「嫌われたかも」


「そうかもね」


三度同じように答えた。同意したわけでも、否定したわけでもない。ただ、可能性を認めた。その正直さが、妙に誠実だった。「そんなことない」と言って励ますのは簡単だ。でもバーバラはそうしなかった。怒っているかもしれない、許してくれないかもしれない、嫌われたかもしれない——そのどれも、本当にそうかもしれないから。


三度同じように答えて、そこでバーバラは微笑んだ。手が一瞬止まって、オリヴィアの方を見た。


「でも、会いに行かなかったらもっと分からないでしょう?」


オリヴィアが黙った。俺も黙った。


バーバラは特別なことを言ったわけじゃない。論理的な反論でも、気の利いた励ましでもない。ただ当たり前のことを、当たり前に言っただけだ。それなのに、妙に納得していた。


怒っているかもしれない。許してくれないかもしれない。嫌われたかもしれない。全部、そうかもしれない。でも、行かなければ何も変わらない。それどころか、答えさえ出ない。どれだけ部屋の中で考え続けても、窓の外を何度見ても、その人の気持ちだけは、その人のところに行かなければ分からない。可能性を恐れて動かないことは、悪い結果を確定させることとどう違うのか。行って拒絶されることと、行かずに何も変わらないことと、どちらがより遠いのか。


◇ ◇ ◇


前世の俺は、傷つく可能性を避けてきた。


だから人を遠ざけた。拒絶されるくらいなら近づかない。失望するくらいなら期待しない。合理的だった、と当時は思っていた。傷つかなければその分だけ効率的に生きられる。感情のコストを最小化すれば、余計な消耗をせずに済む。そういう計算だった。感情は変数だ。変数が増えれば予測が難しくなる。だから変数を排除することで、俺は自分の人生をより制御しやすくしようとしていた。


だが、その結果、最後に残ったのは孤独だった。


傷つかなかった代わりに、何も得られなかった。誰かと笑ったことも、誰かに謝ったことも、誰かのために少しだけ勇気を出したことも。全部避けたまま、気づけば周囲は静かになっていた。寂しいとも思わなかった。それすら感じないように、うまくやっていたから。今思えば、それが一番まずかったのかもしれない。感情を排除したつもりが、感情を感じる能力ごと失っていた。


傷つく可能性を避けることは、傷つくことを防ぐのではなく、傷つくための機会ごと消すことだ。そして傷つく機会がなければ、喜ぶ機会もない。感動する機会も、誰かを大切に思う機会も。全部セットだったのだ、と今ならわかる。


◇ ◇ ◇


「……行ってみる」


オリヴィアが立ち上がった。声は少し震えていたが、立ち上がる動作は迷いなかった。小さく拳を握って、一度だけ深く息を吸う。何かを決めた顔だった。怖いのは変わっていないはずだ。でも、怖いまま行くことにしたのだと、その顔が言っていた。


「うん」とバーバラが頷いた。洗濯物を畳む手を止めずに、しかし確かに彼女の顔を見て。


「いってらっしゃい」


それだけ言った。それだけでよかった。余計な言葉は要らない。行ってきな、頑張れ、大丈夫だよ、何も言わなくていい。「いってらっしゃい」という一言に、帰ってくる場所があるということが含まれている。それだけで十分だ。


オリヴィアは何も答えずに、扉に向かって歩き始めた。


少し緊張した顔で。少し怖そうな顔で。それでも、ちゃんと前を向いて。


扉が閉まる音がした。続いて廊下を歩く足音。最初はゆっくりだったが、段々と足音の間隔が縮まって、やがて聞こえなくなった。静かになった。


◇ ◇ ◇


俺は天井を見上げた。


部屋の中が、さっきより少し広くなったような気がした。人がひとりいなくなっただけで、空気の質が変わる。残った沈黙は重くなく、どちらかといえば穏やかだった。バーバラはまた洗濯物を畳み始めている。その音だけが規則正しく続いている。さっきまでのオリヴィアのうろうろとした足音とは違う、落ち着いたリズムだった。


たぶん、大丈夫だろう。


根拠はない。論理的でもない。あの場面を見て、確率を計算したわけでも、過去の事例を参照したわけでもない。ただ、そう思った。前世の俺なら「根拠のない楽観は無意味だ」と切り捨てていただろう。でも今は、根拠のない確信というのも、それはそれで意味を持つと思っている。


あの少女は優しい。昨日、傷ついていたのに、今日も相手のことを考えていた。怒っているかもしれない、許してくれないかもしれないと怖がりながら、それでも「会いに行こうかな」と呟いていた。自分がどう思われているかを心配しながらも、相手がどんな気持ちでいるかを気にしていた。そういう人間を、そう簡単に嫌いにはなれない。たとえ一度傷ついたとしても、そういう人が来てくれたなら、きっと扉を開けたくなる。


だから、待とう。


帰ってくるのを。結果を。そして——彼女がどんな顔で笑うのかを。少しだけ楽しみにしながら。


前世の俺には、こういう待ち方ができなかった。誰かの帰りを待つには、その人を大切に思っていることを認めなければならない。期待しなければならない。期待するということは、裏切られる可能性を引き受けるということだ。それが怖かったから、最初から待たない選択をしていた。期待しなければ失望しない。待たなければ裏切られない。そういう生き方をしていた。


今は、待てる気がした。


結果がどうなるかは分からない。オリヴィアが笑顔で帰ってくるかもしれないし、泣きながら帰ってくるかもしれない。何も解決しないまま戻ってくることだってある。でも、それでいい。どんな顔で帰ってきたとしても、扉が開く瞬間を待っていることには変わりない。何があっても聞くつもりで、ここにいる。


バーバラが静かに洗濯物を畳んでいる。俺は天井を見たまま、少しだけ目を閉じた。


扉が開く音を、待った。

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