Ep88. 初めての喧嘩
人間関係は面倒だ。
前世の俺は、そう結論づけていた。期待するから裏切られる。近づくから傷つく。好意を向ければ向けるほど、返ってくるものへの期待が膨らんで、その期待が外れたときの落差が大きくなる。人はそれを「傷つく」と呼ぶ。だったら最初から期待しなければいい。最初から距離を置けばいい。それが合理的だ。
実際、俺はそうして生きてきた。職場では必要最低限の会話だけを交わし、飲み会には適当な理由をつけて断り、誰かの悩みを聞く立場にはなるべく近づかなかった。人の感情というのは伝染する。悲しみも、怒りも、不安も。関わるほどにそれが移ってくる。俺はそれが苦手だった。いや、正直に言えば、怖かったのかもしれない。
孤独だったが、少なくとも面倒は少なかった。誰かに振り回されることもなく、誰かのために消耗することもなく、静かで整理された日常があった。それを俺は「効率的な生き方」と呼んでいた。
……今なら分かる。あれは楽だっただけだ。効率的でも合理的でもなく、ただ怖くて、逃げていただけだ。
◇ ◇ ◇
翌日、オリヴィアは少し遅れてやって来た。
いつもなら昼前には来る。元気よく扉を開けて、「おはようございまーす」などと言いながら入ってくる。その声を聞くたびに、バーバラが「はいはい、うるさいわよ」と苦笑いして、俺は本から目を上げて小さく頷く。そういう朝の流れが、いつの間にか当たり前になっていた。
だが今日は違った。昼を過ぎても来ない。バーバラが「遅いわね」と言いながら窓の外を見た。俺も何となく扉の方に目を向ける。珍しいこともあるものだと思いながら、しかし特に気にせず本に戻った。が、やはり集中できなかった。
さらに少し経って、ようやく扉が開いた。
「こんにちはー」
声に元気がない。
俺はすぐに気づいた。声のトーンだけじゃない。顔色が普段より少し白く、視線が定まらず、歩き方もどこかぎこちない。靴を脱ぐ動作も、荷物を置く動作も、どこかぼんやりしている。医魔術師としての観察眼が告げている。何かあった。外傷ではない。内側の問題だ。
「どうしたの?」
バーバラも気づいたらしい。いつもとは違う空気を敏感に感じ取って、手を止めてオリヴィアを見ていた。
オリヴィアは曖昧に笑った。
「ちょっとね」
その笑顔が無理をしている。笑おうとして、うまく笑えていない。口の端は上がっているのに、目が笑っていない。俺にも分かる。最近になって、人の表情を見るようになったから。前世では他人の顔など積極的に見なかった。見れば関わることになる。関われば面倒になる。だから目を逸らすのが習慣だった。だが今は違う。この小さな体で、この小さな世界で、気づいたら俺は人の顔を見るようになっていた。
バーバラはそれ以上は聞かなかった。聞いたところで話さないと分かったのか、あるいは本人が話したくなるまで待つつもりなのか。「お茶、入れましょうか」とだけ言って、台所の方へ向かった。その判断は正しいと思った。
◇ ◇ ◇
しばらくして、バーバラが台所へ行く。部屋には俺とオリヴィアだけになった。
静かだった。オリヴィアはいつもの場所、窓の近くの椅子に座っている。だが今日はいつものように外を見ていない。膝の上に手を置いて、どこか遠くを見ているような、見ていないような、そういう目をしていた。
台所の方から、お湯が沸く音が聞こえてくる。カップを取り出す音。茶葉の缶が開く音。バーバラが戻ってくるまで、まだ少し時間がある。
俺は本を閉じた。どうせ読めていなかった。さっきからずっと同じ行を眺めていた気がする。
すると、オリヴィアがぽつりと言った。
「喧嘩しちゃった」
ああ、やはりか。声のトーンで、そういう類のことだと思っていた。体の不調ではなく、心の問題。しかも一人で抱えているタイプの。俺は小さく頷いた。
「トムと」
昨日の少年だ。明るくて人懐こい、オリヴィアの幼馴染だったか友人だったか。昨日ここに来たとき、二人はいつも通りに見えた。少なくとも俺の目にはそう映った。だが昨日の今日で、何かがあったらしい。
詳しく聞きたい。何があったのか。どんな言葉が交わされたのか。どちらが先に声を荒げたのか。あるいは声を荒げるほどでもなく、ただ静かにすれ違ったのか。知りたいと思う。だが聞けない。言葉がない。俺はまだ赤ん坊と呼ばれる年齢で、発声もままならない。伝えたいことがあっても、形にならない。それがもどかしかった。
オリヴィアは続けた。
「ほんとは仲直りしたいんだけど」
膝を抱える。椅子の上でぎゅっと体を縮める。
「でも向こうも怒ってるし」
少し間があった。
「私も悪いし」
その言葉は正直だった。自分にも非があると分かっている。それでも動けない。そういうことだろう。
「なんか、どうしていいか分からなくて」
俯いたその横顔が、小さかった。いつも元気で、よく笑って、俺のことを子供扱いしてくるくせに年齢の割に妙に大人びたところもある少女が、今は本当に子供みたいに見えた。いや、彼女はまだ子供なのだが。それでも普段はそれを感じさせない何かがあって、今日初めて、ああ彼女も子供なんだと思った。
俺は彼女を眺めながら、前世の自分を思い出していた。
前世の俺なら、こういう場面で何と言っただろう。おそらく「謝ればいい」と言っただろう。それで終わりだ。原因を分析して、自分に非があるなら謝って、相手に非があるなら指摘して、それで解決しなければ縁を切ればいい。人間関係とはそういうものだ。合理的に処理すべき事案だ。以上。
だが今は違う。そんなことは、きっと彼女も分かっている。謝ればいいということは分かっている。問題はそこじゃない。
怖いのだ。
謝っても許してもらえなかったら、どうしよう。嫌われたら、どうしよう。もう元に戻れなかったら、どうしよう。そういう不安が足を止める。動き出す前に、最悪の結果が頭をよぎる。だから動けない。それは弱さではなく、大切にしているからこそだと、今の俺には分かる。前世の俺には分からなかったことだ。
大切だから怖い。失いたくないから動けない。そういう感情は、何も大切にしていなかった俺には縁のないものだった。
◇ ◇ ◇
気づけば、俺は手を伸ばしていた。
オリヴィアの袖を掴む。小さな手で、小さな力で、それでもぎゅっと。
「……ルーク?」
彼女が顔を上げた。目が合う。俺は何も言えない。言葉がない。この体では言葉がない。もどかしい。こういうとき、前世の体だったならと思う。言葉を持っていたなら、と。
だが、それでも伝えたかった。
大丈夫だ、と。きっと何とかなる、と。お前は優しいから、と。その優しさを知っている相手なら、きっと分かってくれると。
言葉にならないまま、俺は彼女を見ていた。ただ見ていた。袖を掴んだまま、目を逸らさずに。
前世なら絶対にしなかった行動だ。他人の袖を掴むなど。感情を表に出して、伝えようとするなど。惨めだと思っていた。弱いと思っていた。だが今は違う。こうすることが自然だった。気づいたら動いていた。
しばらく見つめ合ったあと、オリヴィアが小さく笑った。
「ふふ」
最初はかすかな笑いだった。それから少し、口元が柔らかくなった。
「励ましてくれてるの?」
……そうだ。たぶん、そういうことだ。うまく言えないし、言葉にもならないが、そういうことだ。俺は小さく頷いた。
「ありがと」
そう言って、彼女は俺の頭を撫でた。ゆっくりと、優しく。その手は少しだけ元気を取り戻していた。さっきまでの俯いた横顔とは違う。まだ不安は残っているだろうが、それでも少し、浮上してきた感じがした。
台所からバーバラが戻ってくる音がした。カップの触れ合う音、ゆっくりとした足音。俺はそっと袖から手を離した。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、オリヴィアは帰り際に「明日、トムに会ってみる」と言った。
決意、というほど大げさなものではなかった。ぽつりと、独り言みたいに言っただけだ。バーバラは「そう」とだけ答えて、お茶のカップを片付けていた。俺は何も言えなかったが、小さく頷いた。
彼女は笑った。さっきよりもずっと自然な笑い方で。
「じゃあね、ルーク。また明日」
扉が閉まる。足音が遠ざかる。
バーバラが「あの子、大丈夫そうね」と言った。俺は答えなかった。答えられなかった。ただ、そうだなと思った。大丈夫だろう、と思った。なぜそう思うのかは分からないが、そう思った。
◇ ◇ ◇
人間関係は面倒だ。
それは間違っていない。喧嘩もする。傷つくこともある。不安にもなる。思い通りにいかないことの方が多い。相手の気持ちは読めないし、自分の気持ちだって上手く伝えられない。距離感を間違えることもある。言葉が足りないこともある。言いすぎることもある。それが人と人との間にあるものだ。
だが、それでも人は誰かと関わる。
その理由を、俺は少しずつ理解し始めていた。面倒なことの先に、失いたくない何かがあるからなのだと。喧嘩をしても仲直りしようとするのは、その相手が大切だからだ。傷ついても距離を置かないのは、失う方が怖いからだ。不安を抱えながらも手を伸ばすのは、繋がっていたいからだ。
前世の俺はそれを「非合理的だ」と思っていた。傷つくリスクを冒してまで関わるのは損だと思っていた。だが違う。失う痛みを知っているということは、それだけ大切なものがあるということだ。それは損ではない。豊かさだ。
俺はまだ言葉を持たない。感情を上手く表に出すこともできない。この小さな体では、できることが限られている。それでも今日、袖を掴んだ。それで何かが伝わった。言葉がなくても、伝わるものがある。それを知った。
人間関係は面倒だ。
でも、俺はもう逃げない気がした。少なくとも、逃げたいとは思わなかった。この面倒の中に、前世では手に入れられなかった何かがある。それが何かは、まだうまく言えない。言葉を持っていないから、というだけでもないだろう。
ただ、オリヴィアの手の温かさは分かった。
それで十分だと、今は思う。




