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Ep87. 初めての嫉妬

嫉妬は、非合理な感情だ。前世の俺は、そう定義していた。

他人を羨む。他人の成功を妬む。そういった感情は生産性がなく、時間の無駄でしかない。もし本当に欲しいものがあるなら、自分の力で手に入れればいい。それだけの話だ。だから俺は、自分は嫉妬とは無縁の人間だと信じて疑わなかった。

……実際には、違ったのだろう。ただ、欲しいものが何もなかっただけで。

 ◇ ◇ ◇

「ルーク、また来るねー!」

今日もオリヴィアが帰る時間になった。いつものことだ。何もおかしくない。彼女には彼女の生活があって、ずっとここにいるわけではないのは最初から分かっている。日が傾き始める頃合いに彼女が腰を上げ、笑顔で手を振りながら去っていく。その光景は、ここ数週間ですっかり見慣れたものになっていた。

ただ、今日は少し違った。

「じゃあね、トム」

家の前で、一人の少年が手を振っていた。六歳くらいだろうか。村の子供らしく、日に焼けた顔で白い歯を見せて笑っている。オリヴィアもその笑顔に応えながら、楽しそうに何か言葉を交わしていた。自然に。当たり前のように。まるで昔からの友人同士みたいに。

俺は縁側から、その光景をぼんやりと眺めていた。

なるほど、そうか。オリヴィアには友達がいる。当然だ。何もおかしくない。彼女は明るくて、優しくて、誰とでも分け隔てなく接することができる。友人の一人や二人どころか、十人いたとしても何ら不思議ではない。論理的に考えれば、百パーセント正しい。

なのに。

胸の奥が少しだけ、もやもやした。

何だこれは。この違和感は。説明のつかない不快感。俺は咄嗟に原因を探り始めた。症状を整理して、考えられる要因を一つ一つ潰していく。体調の問題か。いや、特に悪いところはない。空腹か。それも違う。睡眠不足か。昨夜は十分に眠った。では何だ。この感覚の正体は何だ。

数秒後、俺は結論に辿り着いた。

……嫉妬だ。

馬鹿な、と思った。本気か、とも思った。相手はトムとかいう六歳の子供だぞ。競争相手ですらない。比較するまでもない。なのに俺は、オリヴィアがあの少年と笑い合っているのを見て、少しだけ面白くなかった。それが嫉妬以外の何であるというのか。

自分自身の感情に、心底呆れた。

前世で散々「非合理だ」「時間の無駄だ」と切り捨ててきた感情が、よりにもよって六歳の子供相手に湧いてくるとは。医魔術師として優秀だと自認していた俺が、こんなにも単純な感情に振り回されるとは。情けないにもほどがある。

 ◇ ◇ ◇

「ルーク?」

考え込んでいる間に、オリヴィアが戻ってきていた。いつもの笑顔。柔らかな声。だが俺は、なんとなく視線を逸らした。自分でも理由が分からない。いや、分かっている。ただ認めたくないだけだ。

「どうしたの? なんかいつもと違う顔してる」

オリヴィアが首を傾げ、俺の顔を覗き込んでくる。当然だ。赤子が不機嫌そうな顔をしていれば、誰だって気になる。俺だって自分の感情を把握したくなかったが、残念ながら原因はすでに特定済みだった。

「もしかして眠い?」

違う。

「お腹空いた?」

それも違う。

「うーん……」

オリヴィアはしばらく真剣に考えていたが、やがてふっと柔らかく笑った。

「甘えたいのかな」

その一言に、俺は全力で否定したくなった。違う。断じて違う。俺は元天才医魔術師だ。そんな赤子みたいな——

……いや。

幼児だった。現在進行形で。

言い訳が成立しないことに気づいた瞬間、俺の中で何かが静かに折れた。まずいな、と思った。これは言い逃れのできない敗北だ。感情に振り回された、などという生易しいものではなく、感情に完全に主導権を握られて、さらにそれを他人に看破されてしまった。オリヴィアはにこにこしているが、彼女はおそらく本質を突いている。甘えたい。その三文字が、的外れでないのが余計に腹立たしい。

もっとも、腹を立てたところで何も変わらないのだが。

オリヴィアが俺を抱き上げる。温かな腕が背中に回り、軽く叩く。トントン、と規則的なリズム。それだけなのに、さっきまでのもやもやが、するすると薄れていくのを感じた。まるで霧が風に払われるように。あんなにくっきりとした輪郭を持っていた不快感が、体温一つでこんなに簡単に溶けてしまうとは。

……最悪だ。

こんなに単純なのか、俺の感情というやつは。ちょっと抱きしめられただけで、あれだけ渦巻いていた不快感がほとんど消えてしまった。論理でも分析でも制御できないくせに、物理的な温もりにはあっさり懐柔される。笑えもしない。情けないを通り越して、もはや清々しいくらいだ。

前世の自分が見たら何と言うだろう。「感情に支配されるな、それが判断を鈍らせる」とでも言いながら眉をひそめるか。あるいはもっと単純に、「なぜそんなことで動揺するんだ」と首を傾げるか。どちらにせよ、現在の俺を見て納得する答えは出せないだろう。前世の俺には、この温もりの意味が分からなかっただろうから。

だが。

認めざるを得なかった。俺は今、生まれて初めて、誰かを独占したいと思っている。

 ◇ ◇ ◇

もちろん、そんな権利はない。オリヴィアは俺の専属でもなければ、俺のために生きているわけでもない。彼女が村の子供たちと仲良くするのは当然のことだし、それを妬むのは幼稚だ。そんなことは理解している。頭では完全に理解している。

だが、感情というものは、理屈だけでは動かないらしい。

これは前世では気づかなかったことだった。いや、正確には、気づく機会がなかった。前世の俺は常に目的のために動いていた。研究、治療、技術の向上。欲しいものは全て、努力と知識によって手に入れられるものだった。誰かに傍にいてほしいとか、自分だけを見てほしいとか、そういった類の感情は、はじめから俺の辞書には載っていなかった。

欲しいものがなければ、嫉妬は生まれない。

単純な話だ。前世の俺が嫉妬と無縁だったのは、自分が優れていたからでも感情をコントロールできていたからでもなく、ただ誰かを大切に思ったことがなかっただけなのかもしれない。

その考えに行き着いたとき、不思議と自己嫌悪よりも先に、妙な納得感があった。

 ◇ ◇ ◇

オリヴィアの腕の中で、俺はぼんやりと空を見上げた。夕暮れが近い。空の端が橙色に染まり始め、雲の輪郭が柔らかく溶けている。風が一つ吹いて、草の匂いを連れてきた。遠くで鳥が鳴き、少し離れたところで子供たちの笑い声がした。村の夕方は、いつもこういう匂いと音で満たされている。前世の記憶にはなかった感覚だ。

「ルークってさ」

オリヴィアが言った。背中を叩く手は止まらないまま。

「なんか考えてること多そうだよね。赤ちゃんなのに」

俺は答えなかった。答えられるわけがない。だが、図星ではあった。赤子の外見をしていながら、中身はだいぶ複雑なことになっている。嫉妬を分析して、結論を出して、また落ち込んで、それを誰かの体温に癒される。普通の赤子はここまで面倒くさい内側を持っていないだろう。

「まあ、何考えてるか全部分かるわけじゃないけど」

彼女は続ける。声は穏やかで、どこか遠くを見ているようだった。窓の外の夕空を眺めているのか、あるいは何か別のものを見ているのか。

「でも一緒にいると、なんか安心するんだよね。不思議だけど」

その言葉に、俺の胸の奥で何かが小さく動いた。もやもやとは違う。もっと静かで、もっと温かいもの。言葉にしろと言われたら困る。ただ、悪くない感覚だった。むしろ、嫉妬の後に感じる感情としては随分と居心地がよかった。

オリヴィアが「よし」と言いながら、俺を少し高く抱え直す。

「晩ご飯にしようか。今日は何食べたい? って聞いても分からないか」

くすくすと笑いながら、彼女は家の中へ戻っていく。廊下を歩く足音が、夕方の静けさの中に小さく響く。俺はその胸に収まりながら、さっきまで自分が感じていた嫉妬のことを思い返した。

馬鹿げている、と思う。六歳の子供に嫉妬して、それだけで一人でぐるぐると考え込んで、抱き上げられたらすぐに落ち着いて。前世の俺が聞いたら笑い飛ばすか、あるいは哀れみの視線を向けるかのどちらかだろう。少なくとも、共感はしてくれなかったはずだ。あの頃の俺にとって、感情は制御すべき変数であって、受け入れるべき現象ではなかった。

でも。

その厄介な感情たちは、全部、俺がオリヴィアのことを大切に思っているから生まれたものだ。嫉妬も、独占欲も、寂しさも。そういった感情の裏側には、必ず誰かへの想いがある。憎しみさえも、時には愛着の裏返しだと聞いたことがある。俺が感じていたものはそこまで歪んでいないが、根っこにあるものは同じだ。誰かのことを失いたくない、という気持ち。そこから来ていた。

前世では知らなかった。知る必要がないと思っていた。必要ないのではなく、単に経験がなかっただけだったのかもしれないが。

今の俺は、まだそれを上手く扱えない。振り回されて、一人で結論を出して、あっさり体温に負ける。情けない限りだ。それでも。

その感情さえも、少しだけ愛おしく思えた。

誰かを大切に思うことを、俺はまだ覚えたばかりだ。だからこそ、不格好で、制御不能で、六歳相手に胸をもやもやさせる。それが今の俺の現在地なのだろう。そう思えば、この嫉妬も、まんざら悪いものではないかもしれなかった。

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