Ep86. 言葉より先に
人は、言葉で誰かを救う。
前世の俺は、そういう考えをどこか馬鹿にしていた。
励まし。慰め。優しい言葉。そんなものより薬の方が確実だ。治癒魔術の方が効果的だ。現実を変えるのは技術であって、言葉ではない。そう思っていた。
……だが、最近は少し自信がなくなっている。
◇ ◇ ◇
オリヴィアの指先に、小さな傷があった。
浅い。本当に浅い。放置しても数日で治る程度のもので、医魔術師としては診る価値もないような傷だ。それでも、俺は妙に気になった。ただの擦り傷だと頭では分かっている。血も滲んでいないし、腫れもない。なのに目が離せなかった。何故だろうと思いながら、俺はその傷を見つめ続けた。
「どうしたの?」
俺の視線を追って、オリヴィアが自分の指を見る。
「ああ、これ?」
軽く笑って、「平気平気」と言う。
だが、本当に平気なら、人はわざわざ説明しない。少しは痛かったのだろう。少しは怖かったのだろう。そういうことが、今は分かる。大人でも子供でも、傷を見せた瞬間に「平気」と言う人間は、たいてい平気ではない。「平気」という言葉は、相手を安心させようとする言葉であると同時に、自分自身に言い聞かせる言葉でもある。前世の俺は、患者にそう言われるたびに額面通りに受け取っていた。平気と言っている、では診察を進めよう、と。
以前の俺なら、傷を見て、治して、終わり、それだけだった。だが今は違う。傷だけではなく、その向こう側を考えている。痛かったか。驚いたか。泣かなかったのか。そんなことを、ぼんやりと思う。
医者として俺はずっと、目に見えるものだけを治してきた。検査結果、数値、症状。それらを正確に分析して、適切な処置を施す。それが医療だと思っていた。感情は邪魔だった。感傷は判断を鈍らせると思っていた。だから俺は、できる限り感情を排除しようとしていた。患者を「患者」として見るのが正しいと思っていた。人間として見始めたら、冷静でいられなくなると思っていた。それは一種の自己防衛だったのかもしれない、と今になって思う。
◇ ◇ ◇
不意に、前世の記憶がよみがえる。
診療室。消毒薬の匂い。震える患者。不安そうな家族。そして、無表情な俺。
「治りますか?」
何度も聞かれた問いだった。その度に俺は、「確率は七十八パーセントです」などと答えていた。正しい。事実だ。医学的にも適切な答えだった。統計に基づいた、誠実な回答のつもりだった。嘘はついていない。希望を持たせすぎることもなく、絶望させることもなく、ただ正確な情報を伝えていた。
だが今になって思う。あの人たちが欲しかったのは、数字だけだったのだろうか。
震えながら「治りますか」と聞いた患者は、何を求めていたのか。潤んだ目で俺を見た家族は、俺に何を期待していたのか。七十八パーセントという数字を聞いて、彼らは安心したのか。それとも残りの二十二パーセントに怯えたのか。俺はその後を見なかった。答えを告げたら、また次の患者のところへ向かっていた。
患者の手が震えていた。家族の目が潤んでいた。それを見ながら俺は、パーセンテージと統計データを並べていた。間違いではなかった。けれど、何かが足りなかった。その「何か」が何なのか、当時の俺には分からなかった。いや、分かろうとしていなかったのかもしれない。
ある夜のことを思い出す。深夜の病棟、廊下の端で泣いている家族がいた。術後の経過は良好で、医学的に言えば安心していい状況だった。それでもその人は泣いていた。俺は通りかかって足を止め、「経過は順調です」と告げた。家族は俺を見て、一瞬何かを期待するような目をして、それからすぐにうつむいた。俺はそのまま歩き去った。
今なら分かる。あの人が聞きたかったのは経過報告ではなかった。ただ、誰かに「大丈夫です」と言ってほしかっただけなのだ。数字の話ではなく、人間の言葉で。あなたの大切な人は、ちゃんと大丈夫ですよ、と。そういう温度のある言葉で。
だが当時の俺には、それが分からなかった。分からないまま、医者であり続けた。そして気がついたら、もうこの世界にいた。
◇ ◇ ◇
「ルーク?」
オリヴィアが俺の額をつつく。考え込みすぎたらしい。
「難しい顔してる」
赤子に向かって言う台詞ではない。だが、否定できない。俺はたしかに難しい顔をしていたのだろう。オリヴィアにはよくそう言われる。前世のことを考えている時、俺はどんな顔をしているのだろうか。
その時だった。俺は小さく手を伸ばした。オリヴィアの傷のある指。そこを、そっと握る。本当に軽く、優しく。魔術は使わない。治癒もしない。ただ握る。それだけ。
言葉の代わりに、大丈夫か、と。痛くないか、と。伝えたかった。
この体はまだ小さくて、言葉もろくに出てこない。俺にできることは限られている。前世では手術もできたし、薬も処方できたし、難解な診断もこなせた。だが今は、傷一つ癒せない。道具もない。技術を振るう場もない。あるのは、この小さな手と、伝えたいという気持ちだけだ。
だから握った。それ以外に方法がなかったから。
オリヴィアは少し驚いたあと、ふわりと笑った。
「心配してくれてるの?」
俺は答えられない。まだ言葉がない。だが彼女は勝手に答えを見つけたらしく、「ありがとう」と言った。
その一言で、胸の奥が、じんわり温かくなった。
不思議な感覚だった。前世では、患者に礼を言われることもあった。手術が成功した時、薬が効いた時、検査結果が良好だった時。そういう時に「ありがとうございました」と言われた。もちろん悪い気はしなかった。だが、今感じているこの温かさとは、何かが違う。
あの時の礼は、俺の技術に向けられたものだった。今のオリヴィアの「ありがとう」は、俺自身に向けられている。何もできなかった俺に。ただ握っただけの俺に。傷も治せず、気の利いた言葉も言えず、ただそこにいるだけの俺に。
技術がなくても、届くものがある。そういうことなのかもしれない。
◇ ◇ ◇
考えてみれば、この転生の生活で、俺は何度かそういう場面を経験してきた。
熱を出して眠れない夜、傍にいてくれた人の体温。泣いている時、何も言わずに背中をさすってくれた手。転んで擦り傷を作った時、大げさなくらい心配そうな顔で覗き込んでくる目。声をかけてもらえなくても、名前を呼ばれなくても、ただそこにいてくれるというだけで、不思議と落ち着いた夜がいくつもあった。
どれも、医療行為ではない。傷を治す技術でもない。だが、どれも確かに俺の何かを和らげた。痛みそのものではなく、痛みに伴う不安や孤独を。
前世の俺はそういうものを、非科学的だと思っていた。プラセボ効果の一種だとか、情緒的な慰めに過ぎないとか、そういう風に片付けていた。だが今の俺には、それが全て正確な分析だったとしても、何かが足りない気がしてならない。
プラセボであっても、人は楽になる。情緒的であっても、人は救われる。それを「効果がある」と呼ばずに何と呼ぶのか。数字で測れないものが、確かに存在する。前世ではそれを切り捨てていた。今世では、それを誰かに与えてもらっている。そして今日、俺は初めて、それを誰かに返そうとした。
うまくできたかどうかは分からない。ただ握っただけだ。言葉一つ言えなかった。それでもオリヴィアは笑ってくれた。「ありがとう」と言ってくれた。
だから多分、伝わったのだと思う。
言葉がなくても、伝わるものがある。それもまた、この小さな体で学んでいることの一つだ。逆説的だが、言葉を持たないからこそ、言葉以外の伝え方を考えるようになった。言葉があれば、俺はまた前世の癖に戻っていたかもしれない。「傷は浅いですね、治癒は早いでしょう」と告げて終わりにしていたかもしれない。言葉を持てない今だからこそ、俺は手を伸ばした。
◇ ◇ ◇
言葉は大事だ。きっと、とても大事だ。
だが、言葉だけが全てじゃない。伝えたい気持ちが先にある。言葉は、その後から追いついてくるものなのかもしれない。気持ちが先にあって、それを形にしようとした時に、初めて言葉になる。言葉から始めようとするから、どこかちぐはぐになる。前世の俺は、いつも言葉から始めていた。正確な言葉を選んで、適切な情報を伝えて、それで十分だと思っていた。
だが人間は、言葉の前にある何かを、ちゃんと感じ取る。
前世では理解できなかったこと。患者が欲しかったもの。家族が求めていたもの。深夜の廊下で泣いていたあの人が聞きたかったこと。全部、今になって少しずつ分かってきている。遠回りもいいところだ。一度死んで転生して、赤子として生き直して、ようやく気づき始めている。
もし前世のまま年を重ねていたとしたら、俺は最後まで気づかなかったかもしれない。優秀な医者のまま、何かが足りないことも知らないまま、人生を終えていたかもしれない。それはそれで一つの生き方だが、今の俺にはそれが惜しく思える。
それでも、今の俺は悪くないと思えた。
前世の俺には持てなかったものを、今の俺は少しずつ持ち始めている。技術でも知識でもなく、もっと単純で、もっと根本的な何かを。うまく名前はつけられないが、確かにそれはある。オリヴィアの「ありがとう」が胸を温めた、あの感覚の中に。
オリヴィアの笑顔を見ながら、俺はそんなことを考えていた。
小さな傷一つから学ぶなんて、ずいぶん遠回りな人生だ。
だが、悪くない。
少なくとも今の俺は、そう思えた。




