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Ep85. 伝えたい気持ち

学ぶ理由は、力を得るためだった。前世の俺にとって。

 知識を増やす。技術を磨く。誰より優秀になる。そのために学んだ。目的は常に自分だった。自分の評価、自分の成果、自分の価値。それ以外の理由で努力した記憶は、ほとんどない。

 思い返せば、前世の俺は常に何かと競っていた。同僚と、同期と、あるいは過去の自分と。誰かに負けることが耐えられなかった。負けるくらいなら徹夜する。徹夜するくらいなら食事を削る。食事を削るくらいなら、人と話す時間を切り捨てる。そうやって積み上げてきたものが、俺の全てだった。積み上げた知識、積み上げた実績、積み上げた評価。それらは確かに俺のものだったが、今となっては、それが何のためだったのか、よく分からない。

 誰かに認められたかったのか。それとも、誰かを見返したかったのか。あるいは、ただ怖かっただけなのか。立ち止まることが、負けることが、必要とされなくなることが。

 答えは出ない。前世の記憶はあるが、前世の感情の細部は、霧の向こうにあるものを眺めるようにぼんやりとしている。ただ確かなのは、あの頃の俺は、言葉を誰かへの贈り物として使ったことが、ほとんどなかったということだ。

 言葉は道具だった。主張するための道具。論破するための道具。自分を有利に見せるための道具。相手の隙を突くための道具。ありがとう、と言う時でさえ、どこかで計算していた。この言葉を言えば相手はどう動くか。この感謝を示せば、次の交渉でどれだけ有利になるか。

 今思えば、ひどい話だ。だが当時の俺には、それが当たり前だった。

 だから今の自分が、あまりにも不思議だった。

   ◇ ◇ ◇

 話したい。その願いが、日に日に強くなっている。

 魔術の研究成果を語りたいわけじゃない。世界の真理を論じたいわけでもない。もっと単純なことだ。もっと、ずっと単純なことだ。

 バーバラに、ありがとうと言いたい。

 毎朝、揺り籠のそばに来てくれる。俺の顔を見て、「おはよう、ルーク」と言ってくれる。その声には飾り気がない。仕事だから笑っているわけでも、義務だから声をかけているわけでもない。ただ、そこにいる小さな命に、きちんと言葉を向けてくれている。それだけのことなのに、俺はその度に胸の奥が温かくなる感覚を覚える。前世では一度も感じたことのない感覚だった。あるいは感じていたのに、気づかないふりをしていたのか。どちらにせよ、今の俺には、あの「おはよう」が、どれほど大切なものかが分かる。だから、ありがとうと言いたい。ちゃんと言葉にして、伝えたい。

 オリヴィアに、会えて嬉しいと言いたい。

 彼女が部屋に入ってくるたびに、何かが変わる気がする。空気が、とでも言えばいいのか。上手く言えない。ただ、彼女がそこにいると、世界が少しだけ明るく見える。それが嬉しい。その嬉しさを、伝えたい。

 それだけだ。それだけなのに、それが、ひどく難しかった。

   ◇ ◇ ◇

 翌日、俺は真剣だった。

 揺り籠の中、誰も見ていない。バーバラは朝の仕事に出ている時間だ。オリヴィアもまだ来ていない。窓から差し込む朝の光が、埃をきらきらと照らしている。静かだった。絶好の訓練時間だ。

「うー」

 声を出す。喉の動きを確認する。舌の位置、息の流れ、口の形。前世の知識を総動員する。人体構造は理解している。発声理論も知っている。乳児がどの順序で言語を獲得していくかも、大まかには把握している。最初は母音から始まり、唇を使う子音が続き、舌先を使う音が後になる。理屈では分かっている。

 だが、知っていることと出来ることは、これほどまでに違うのかと、毎回思い知らされる。

 赤子の身体は、あまりにも言うことを聞かない。頭の中では「ありがとう」と言おうとしている。その意図は確かにある。だが喉から出てくるのは、どうしようもなく曖昧な音の塊だった。

「うあー」

 違う。今のは違う。もっとこう、息を絞って、舌をもう少し前に持ってきて――

「うぁ」

 惜しい。いや、惜しくもないかもしれない。自分では惜しいと思っているが、客観的に聞いたらただの赤子の声と区別がつかないだろう。そもそも俺は今、自分の声を外から聞けないのだから、評価のしようがない。

 それでも続ける。他にやることがないというのも理由のひとつだが、それだけじゃない。やりたいから続ける。伝えたいから続ける。

「うー、うー」

 喉が疲れてきた。赤子の声帯は脆い。無理をすると逆効果になる。前世の知識がそう告げている。少し休もう。天井を見上げながら、息を整える。

 木の天井だった。古いが、丁寧に作られている。梁のひとつひとつに、誰かの仕事の痕跡が見える。この家を建てた人間のことを、俺は知らない。だがその人間は、きっと誰かのために、きちんと仕事をしたのだろう。

 そういうことが、分かるようになった。前世では気にも留めなかったようなことが、今の俺には目に入る。誰かが作ったもの、誰かが積み上げたもの、誰かが残したもの。この世界には、そういうものが溢れている。

 生まれ変わったというのは、こういうことなのかもしれない、と思う。身体だけじゃなく、何かもっと根本的なところが、やり直されているような気がする。

「うー」

 また試みる。今度はもう少し口を開いて。息の使い方を変えて。

   ◇ ◇ ◇

「ふふ」

 笑い声がした。

 しまった。振り向く。オリヴィアだった。いつの間に来たのか。扉が開く音も、足音も、全く聞こえなかった。いや、聞こえていたのかもしれないが、練習に集中しすぎて気づかなかったのか。どちらにせよ、最悪だ。

 聞かれていた。しかも笑われた。

「頑張ってお話してるの?」

 そう言って覗き込んでくる。近い。本当に近い。大きな目が、俺の顔をまっすぐに見ている。その目には、からかう色はなかった。純粋に、微笑ましいと思っている目だった。それがかえって、むずがゆい。

 最近はもう、その距離にも慣れてしまった。最初の頃は、これほど近くに顔を寄せられるたびに、妙な緊張があった。前世でも今世でも、他人にここまで近づかれることには、慣れていなかったのだ。だが今は違う。その顔が見知ったもので、その体温が馴染んだもので、その存在が当たり前のものになっている。

 慣れというのは恐ろしい。いや、恐ろしいというより、不思議だ。人間は、こんなにも変われるのか、と。

「えらいね」

 頭を撫でられる。大きな手だった。柔らかい手だった。以前なら不満だった。子供扱いされるのは好きじゃない。そもそも前世の記憶を持っている以上、精神的には赤子でも何でもない。頭を撫でられるいわれはない、とずっと思っていた。

 だが今は少し違う。

 その手が優しいことを知っている。この手が、何度も自分の世話をしてくれたことを知っている。泣いている時にあやしてくれた手で、眠れない夜に背中を叩いてくれた手で、ただそこにいてくれた時間の積み重ねが、この手には染み込んでいる。

 だから、嫌ではなかった。むしろ、少しだけほっとする感覚があった。それが何なのか、うまく言葉にできないが、悪いものではなかった。

「ルークが最初に何を話すのか楽しみだなあ」

 オリヴィアが言う。独り言のような、問いかけのような、不思議な言葉だった。俺は思わず彼女を見る。その横顔は穏やかで、今日の朝の光を受けて、少し眩しそうに目を細めていた。

 言いたい。今すぐ。言えるなら、今すぐ言いたい。

 だが無理だ。それは分かっている。分かっているが、それでも、言葉が喉の奥で詰まっているような感覚があった。出てこない。出てこないが、確かにそこにある。

 それでも、前より少しだけ近づいている気がする。毎日、少しずつ、確実に。今日の「うぁ」は、昨日の「うー」より、少しだけ形になっていた気がする。気がするだけかもしれないが、それでいい。少しずつでいい。

 そう思っていた、その時だった。

   ◇ ◇ ◇

 オリヴィアの指先に、小さな切り傷を見つける。

 右手の人差し指の、第一関節の少し下。昨日はなかった。昨日、この手に撫でられた時には、なかった。包丁か。あるいは木材か、紙か、何か鋭いものに触れたのか。浅い傷だ。もう血は止まっている。放っておいても治る。大人の身体なら、こんな傷は数日で消える。

 だが、俺の視線はそこに釘付けになった。

 痛かっただろうか。ちゃんと消毒したのか。この世界の衛生状況を考えれば、浅い傷でも化膿のリスクはゼロではない。ちゃんと処置したのか。あるいは、忙しくて後回しにしていないか。

 そんなことを、考えている自分に気づく。

 前世の俺なら、この程度の傷に関心など持たなかった。他人の小さな怪我を心配するなどという習慣が、そもそもなかった。自分の怪我でさえ、仕事に支障が出るかどうかでしか判断しなかった。他人の痛みを想像する、その回路が、前世の俺には弱かった。使っていなかったから、鈍くなっていたのか。あるいは最初からそういう人間だったのか。

 だが今は、気になる。心配になる。治したいと思う。

 自分でも驚くほど、素直に、そう思う。

 ああ、そういうことか、と俺は思った。

 俺が話せるようになりたい理由。それは、誰かに自分を伝えたいからだけじゃない。誰かを気遣いたいからだ。大丈夫か、と聞きたい。痛くないか、と聞きたい。ありがとう、と伝えたい。そういう言葉を、きちんと声にして、届けたいからだ。

 前世の俺は、言葉を武器として使った。主張のために、説得のために、あるいは黙らせるために。言葉は常に、自分のためにあった。

 だが今の俺は、言葉を贈り物として使いたいと思っている。受け取った相手が、少しだけ温かくなるような言葉を。重荷にならない、ただそっと置いておくような言葉を。

 その変化が、いつ起きたのか、俺には分からない。気づいたらそうなっていた。バーバラに最初に話しかけてもらった日だったのか、オリヴィアに初めて頭を撫でられた日だったのか、あるいはもっと小さな、数え切れないほどの瞬間の積み重ねだったのか。

 どちらにせよ、確かなことがひとつある。

 俺は変わった。

 前世の記憶を持ったまま、この小さな身体で、この見知らぬ世界で、何かが変わった。それは悪いことじゃないと思う。むしろ、ずっとこうであればよかった、とさえ思う。前世の俺に教えてやりたいくらいだが、それは叶わない。

 だから今の俺が、きちんと覚えておかなければならない。言葉は贈り物だということを。誰かの痛みを気にかけることが、弱さじゃないということを。ありがとうと言える人間の方が、言えない人間より、ずっと豊かだということを。

 オリヴィアがまだそこにいる。傷のある指先で、俺の小さな手を包むように握っている。温かい。

 言いたいことが、喉の奥にある。まだ言葉にならない。でも確かにある。

 毎日、少しずつ。

 その変化に、俺自身が、一番驚いていた。

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