Ep08. 逃げる理由、残る理由
人はなぜ逃げるのか。
答えは単純だ。
危険だからだ。
理解できないもの。
制御できないもの。
予測できないもの。
それらはすべて、危険だ。
だから距離を取る。
関わらない。
見ないふりをする。
それが、最も効率的な防御手段だ。
——前世の俺は、そうやって生きてきた。
◇ ◇ ◇
「ルークー」
オリヴィアの声。
いつもと同じ。
軽くて、明るくて、遠慮がない。
だが。
俺の側は、同じではない。
◇ ◇ ◇
昨日の言葉。
——好き。
たった一言。
それだけで、構造が崩れた。
予測不能の変数。
未定義の感情。
処理不能。
◇ ◇ ◇
だから。
今日は、距離を取る。
◇ ◇ ◇
俺は視線を逸らした。
意図的に。
明確に。
以前の状態へ戻す。
観測者の位置へ。
◇ ◇ ◇
「……あれ?」
オリヴィアが首を傾げる。
反応あり。
当然だ。
これまでと違うのだから。
◇ ◇ ◇
問題ない。
想定内だ。
距離を取れば、反応は変わる。
それもデータの一つ。
◇ ◇ ◇
「眠いのかな?」
軽い声。
深くは踏み込んでこない。
表面だけをなぞる対応。
——助かる。
◇ ◇ ◇
このまま維持すればいい。
距離を保つ。
干渉を減らす。
変数を排除する。
安定する。
◇ ◇ ◇
——はずだった。
◇ ◇ ◇
「……ねえ、ルーク」
声が変わる。
少しだけ。
本当に少しだけ。
◇ ◇ ◇
踏み込んできた。
◇ ◇ ◇
「もしかして、嫌いになっちゃった?」
◇ ◇ ◇
——何だ、それは。
◇ ◇ ◇
理解が追いつかない。
嫌い?
なぜその結論になる。
論理が飛躍している。
中間がない。
◇ ◇ ◇
だが。
その声は。
軽くなかった。
◇ ◇ ◇
わずかに。
ほんのわずかに。
揺れている。
◇ ◇ ◇
ああ。
そうか。
◇ ◇ ◇
距離を取る、という行動は。
それだけで。
意味を持つのか。
◇ ◇ ◇
拒絶として。
◇ ◇ ◇
……面倒だ。
実に面倒だ。
こちらはただ、安全圏に戻っただけだ。
合理的判断。
最適解。
それなのに。
相手の中では、別の意味になる。
◇ ◇ ◇
非効率だ。
あまりにも。
◇ ◇ ◇
だが。
その非効率の結果が。
今、目の前にある。
◇ ◇ ◇
「……ぁ」
声が出る。
反射ではない。
だが、完全な意図でもない。
◇ ◇ ◇
何をすべきか。
選択肢はある。
無視する。
泣く。
関わる。
◇ ◇ ◇
無視は、悪手だ。
関係が悪化する。
データとしても価値が低い。
◇ ◇ ◇
泣くのは、論外だ。
それはただの拒絶になる。
前回の失敗を繰り返すだけ。
◇ ◇ ◇
ならば。
残るは一つ。
◇ ◇ ◇
関わる。
◇ ◇ ◇
俺は、ゆっくりと視線を戻した。
逸らした視線を。
もう一度。
まっすぐに。
◇ ◇ ◇
「……あ」
オリヴィアが小さく声を漏らす。
反応あり。
即時。
◇ ◇ ◇
いい。
まだ修正は可能だ。
◇ ◇ ◇
俺は手を動かした。
前回のように、強くはしない。
軽く。
本当に軽く。
触れるだけ。
◇ ◇ ◇
接触。
◇ ◇ ◇
「……よかった」
オリヴィアが言う。
その声は。
今までで一番、小さかった。
◇ ◇ ◇
……なるほど。
◇ ◇ ◇
これは。
成功ではない。
だが。
失敗でもない。
◇ ◇ ◇
中間。
◇ ◇ ◇
不安定で。
曖昧で。
評価しづらい状態。
◇ ◇ ◇
だが。
完全な破綻よりは、はるかにマシだ。
◇ ◇ ◇
「びっくりした……」
オリヴィアが笑う。
少しだけ。
本当に少しだけ、力の抜けた笑い。
◇ ◇ ◇
回復。
関係は維持された。
◇ ◇ ◇
俺は思考する。
整理する。
今回の結果を。
◇ ◇ ◇
距離を取る行為は。
単なる防御ではない。
◇ ◇ ◇
攻撃にもなる。
◇ ◇ ◇
意図せず。
無自覚に。
◇ ◇ ◇
そして。
その影響は。
こちらの想定よりも、大きい。
◇ ◇ ◇
……面倒だ。
本当に。
◇ ◇ ◇
だが。
ひとつだけ、わかったことがある。
◇ ◇ ◇
逃げるのは、簡単だ。
だが。
残るには——理由がいる。
◇ ◇ ◇
俺は、まだ。
その理由を、持っていない。
◇ ◇ ◇
それでも。
◇ ◇ ◇
手を、離さなかった。




