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Ep79. 痛みを消したあとに

治せば終わり。それが、前世の俺にとっての絶対的な常識だった。


かつての世界で、俺は数え切れないほどの「症例」と向き合ってきた。目の前にあるのは生身の人間ではなく、修復すべき壊れた機構に過ぎない。症状を取り除き、原因を断ち、一定の経過を確認する。それ以上の工程は蛇足であり、無意味だ。治療という行為に余韻など必要ないし、ましてや感傷など治療の精度を鈍らせる不純物でしかなかった。患者が流す涙も、救われた後に見せる安堵の笑顔も、俺にとっては数値化できない無価値なデータの一つ。結果さえ出れば、それで十分だと思っていたのだ。


だが、今の俺は揺り籠の中にいる。無力で、言葉すら持たない赤子の身として。そして今、オリヴィアの膝に残っていた傷を密かに癒した直後の俺の胸には、前世では決して味わうことのなかった妙なざわつきが、澱のように残っていた。


「――ほんとだ、不思議。さっきまであんなに痛かったのに」


オリヴィアが自分の膝を手のひらで何度もさすりながら、不思議そうに首を傾げている。赤く腫れていたはずの肌は、俺が微かな魔力を通したことで、今は何事もなかったかのように滑らかだ。当然の結果だ。俺が治したのだから。その事実を誇り、胸を張って理屈を説明したいという欲求が微かに湧くが、今の俺にそれを伝える術はない。


いや、仮に今、俺が大人の言葉を話せたとしても、たぶん真実は言わなかっただろう。この力、この秘密は、まだ世に出すべきではないと理性が警鐘を鳴らしている。しかし、その冷徹な判断のすぐ裏側で、別の感情が芽吹いていた。ほんの少しだけ。本当に、指の先ほどの小さな願望だが。この奇跡の正体が俺であることを、彼女に知ってほしいと願っている自分がいた。


「ルークが、元気をくれたのかな?」


オリヴィアがくすりと笑い、俺の顔を覗き込む。そして、彼女はそっと自分の額を、俺の額にくっつけてきた。


近い。近すぎる。前世の俺であれば、パーソナルスペースを侵された不快感や、赤子としての防衛本能で全力の泣き声を上げていたであろう距離だ。しかし今、俺が感じているのは不快感ではなかった。ただ、熱い。触れ合った場所から伝わる体温のせいだけではない。心臓の鼓動が早まり、顔が火照っていくのが自分でもわかる。認めがたい事実だが、これは羞恥だ。数十年を「鉄の仮面」で通してきた俺が、少女の無垢な慈しみに、これほどまでにかき乱されている。


「ありがと、ルーク」


その一言が、静かな部屋に溶ける。その瞬間、俺の胸の奥で小さな火種がふわりと灯った。それと呼応するように、体内の魔力が波紋のように揺れる。不思議なことに、その揺れは以前の訓練時よりもずっと自然で、かつ驚くほど安定していた。


興味深い現象だ。かつて学んだ理論では、魔力とは精神の集中によって制御するものだった。しかし今、俺が経験しているのは「感情」と「魔力」が不可分に結びつき、互いを高め合っている状態だ。分析家としての俺は、この未知の因果関係を定義しようと脳をフル回転させる。だが、今はその分析よりも先に、別の原始的な充足感が胸を満たしていた。


(――悪くない)


誰かに心から感謝されるということが。その笑顔を、一番近くで守れたということが。こんなにも、自分の存在を肯定してくれるものだとは知らなかった。


日が傾き、部屋が夕闇の橙色に染まり始めた頃。オリヴィアが軽やかな足取りで家路につき、入れ替わりでバーバラが洗濯物の籠を抱えて部屋に入ってきた。彼女は鼻歌を歌いながら、乾いたシーツを器用に畳んでいく。


「今日はオリヴィアちゃん、ずいぶん機嫌がよかったわね。何かいいことでもあったのかしら?」


バーバラが独り言のように呟く。俺はそれに応えるように、揺り籠の中で静かに目を閉じた。いいことがあったのか、という問いへの答えは「あった」以外にない。彼女の痛みを消し去り、彼女を笑顔にした。だが、それによって救われたのは、実のところ俺の方だったのかもしれない。


治したあとに残るもの。それは、前世の俺が見ようともしなかった景色のすべてだった。


痛みが消えた後の安堵。未来への希望を宿した笑顔。そして、それを受け取った側から返ってくる純粋な感謝。それらは別個の事象ではなく、一つの大きな「循環」としてつながっている。医魔術とは、単に欠損した組織を修復するだけの技術ではないのだ。誰かを苦痛から解放し、その喜びが周囲を照らし、巡り巡ってまた自分自身をも満たしていく。そんな、静かで温かなエネルギーの循環。


もしこの仮説が正しいのなら、前世の俺は、医術における最も肝心な部分を何ひとつ理解していなかったことになる。優秀な技術者ではあっても、決して「医者」ではなかったのだ。


ひどい皮肉だ。命を全うして死に、一度すべてを失って赤子にまで巻き戻されて、ようやくそんな単純なことに気づくなんて。かつての同僚たちが今の俺を見れば、腹を抱えて笑うかもしれない。


だが、俺は少しも悲観していなかった。やり直しなのだ。この小さく不自由な体で、一歩ずつ進んでいく。前世で捨て去った感情を拾い集め、新しい医魔術の形を模索していく時間は、まだ十分に残されている。


夕闇が深まり、眠気がゆっくりと降りてくる。俺は温かな魔力の余韻に包まれながら、心地よい微睡みの中へと沈んでいった。今なら、まだ間に合う。この新しい人生という長い時間を使って、俺は今度こそ本当の意味で、誰かを「癒す」ということが何なのかを証明してみせる。

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