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Ep78. 誰かのために

変化というものは、たいてい自覚よりも先に現れる。それは水面に落ちた一滴の雫が広がる波紋のように、静かに、しかし確実に、これまでの自分という領域を侵食していく。前世の俺であれば、そんな微かな心の揺らぎなど、精度の低い観測データがもたらした「誤差」として一顧だにせず切り捨てていただろう。


人は簡単には変わらない。それが、かつて魔道の頂を極めようとした俺の揺るぎない持論だった。


性格、価値観、そして長年の経験によって形作られた思考の癖。一度強固に形成された魂の雛形は、たとえ死を越え、異なる肉体に宿ったとしても、そう簡単には崩れない。だからこそ、俺はこの新しい人生で「自分自身が変われる」などとは、心の底では信じていなかったのだ。


「人生をやり直す」「人に愛される生き方を目指す」。そう決意したときでさえ、俺の心は冷徹な観察者の視点を保っていた。この挑戦は、俺にとって一種の社会実験に過ぎなかったのだ。前世の反省を材料に、異なる変数を投入し、どのような結果が得られるかを検証する。経過を記録し、もし成功すればそれは僥倖であり、失敗したとしても「やはり人間は変われない」という予測通りの結論が得られるだけのこと。その程度の、冷めた期待。


……だが。今朝の俺は、明らかにこれまでの観測データにはない、未知の熱量を孕んでいた。


きっかけは、バーバラの手が治ったことだった。魔術を駆使し、彼女の長年の苦しみを取り除いた。その事実は、これまでのどんな魔道的な達成感とも異なる、奇妙な余韻を俺の胸に残していた。満足感、安堵、そして何より驚かされたのは、その先に湧き上がってきた「もっと何かをしたい」という渇望にも似た衝動だった。


かつての俺が抱いていたのは、知識への欲求か、あるいは権威への執着だった。しかし、今この小さな胸を支配しているのは、それらとは全く異質の、純粋で、剥き出しの欲求だ。


昼過ぎ、窓から差し込む陽光が部屋を暖かく照らす頃、いつものように騒がしくも愛らしい足音が近づいてきた。

「ルークー!」

弾んだ声とともに現れたのは、オリヴィアだった。彼女はいつも、嵐のように俺の世界の境界線を踏み越えてくる。だが、その直後だった。

「あいたっ」

小さな悲鳴が上がり、俺は反射的に視線を向けた。どうやら、浮かれた拍子に玄関の段差に足を取られたらしい。転倒するほどではなかったが、彼女は膝を抱えるようにしてその場にうずくまった。


俺は即座に状況を分析する。彼女が抑えている膝には、薄く赤い線が走っていた。ほんの数センチ、皮膚が擦れただけの小さな傷だ。出血もほとんどなく、医学的な観測によれば、放置しておいても数日で自然治癒するレベルの軽傷。医魔術師として患者に優先順位をつけるなら、間違いなく最下層に分類される事案だ。


だが、オリヴィアが痛みにわずかだけ顔をしかめる。その刹那、俺の胸の奥にある「火種」が、爆発的な勢いで燃え上がった。


治したい。今すぐに。その痛みを取り除き、彼女の表情から曇りを消し去りたい。その衝動は、論理的な思考回路を焼き切らんばかりの勢いで脳内を駆け巡った。


自分でも驚くほどの、短絡的で、激しい感情。これは、彼女に恩を売るための打算ではない。今後の関係を有利に運ぶための戦略でもない。ただ、目の前のこの少女に、一瞬たりとも痛い思いをしてほしくない。理由はそれだけで十分だった。


「だいじょうぶ、これくらい。へっちゃらだよ」

オリヴィアは俺の視線に気づくと、無理に口角を上げて笑ってみせた。だが、俺の目は誤魔化せない。表情筋の微細な硬直、無意識に痛む足を庇うような重心の移動。彼女は明らかに痛みを堪えている。


治せる。今の俺なら、この程度の傷など瞬きをする間に消し去ることができる。

しかし、理性が冷徹に警鐘を鳴らす。ここで魔術を使えば、彼女に、あるいは周囲に不自然な癒え方を目撃されるリスクがある。自分の正体や能力の秘匿は、この「実験」を継続する上での絶対条件だ。リスクとリターンの計算が合わない。


それでも、感情は理性の制止を振り切り、暴走しようとしていた。葛藤が渦巻く中、オリヴィアが俺を優しく抱き上げた。

「びっくりさせちゃったよね、ごめんね。私がドジなせいで」

……違う。謝る必要などどこにある。傷ついたのはお前の方で、痛いのもお前のはずなのに。何故、真っ先に自分よりも俺の動揺を気遣うのか。その無防備で、あまりにもお人好しな優しさに触れた瞬間、俺の中の堤防が決壊した。


気づけば、俺の小さな指先は、自然な動作を装って彼女の膝に触れていた。

オリヴィアが俺の動きに注意を向ける前の、ほんの一瞬。俺は体内の魔力を極限まで精緻にコントロールし、指先へと集束させた。


術式は「微細治癒」。

通常の治癒魔法のような派手な発光も、魔力の霧散も許さない。ぎりぎりまで圧縮し、現象の痕跡を一切残さない隠密術式。前世の熟練した医術師ですら困難とする高等技術だが、驚くべきことに、この子供の身体は治癒魔法に対して異常なまでの親和性を示した。イメージが、寸分の狂いもなく現実へと書き換えられていく。


「……あれ?」

オリヴィアが目を瞬かせた。苦痛に歪んでいた彼女の眉間がふっと緩み、不思議そうに自分の膝を見つめる。

「痛くない……。えへへ、もう治っちゃったみたい。私、意外と頑丈なのかな」

彼女は屈託のない笑顔を見せた。


成功だ。それも、完璧なまでの成功。魔術を使った形跡は微塵も残らず、彼女はそれを単なる自然な快復だと思い込んでいる。

本来の俺であれば、自らの技術の正確さを誇り、隠蔽が完遂されたことに達成感を覚える場面だろう。しかし、今、俺の胸を包み込んでいるのは、そんな冷たい自己満足ではなかった。


ただ、目の前の大切な存在から苦痛が去ったこと。それに対する、深く、穏やかな安堵感。


「よかった、怖くなかったよ」と言わんばかりに彼女の服の袖を握ると、オリヴィアは「ルークは本当に優しいね」と言って、俺をさらに強く抱きしめた。


その温もりの中で、俺は静かに、自らの中の「変化」を肯定していた。

誰かのために力を使うということ。それは、見返りや称賛、あるいは目的の達成といった報酬を必要としない、それ自体が完結した救いなのだ。

ただ、相手が痛くなくなった。ただ、相手が笑った。

それだけで、凍りついていたはずの魂が満たされていく。


そんな、理屈では説明のつかない幸福な感覚を。俺は、この二度目の人生において、生まれて初めて知ったのだ。

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