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Ep76. 治したい理由

治療とは、技術だ。

 前世の俺は、本気でそう考えていたし、その信念に微塵の疑いも抱いていなかった。

 正確な診断を下し、それに対して最も適切で無駄のない術式を選択する。あとは、己の内に流れる魔力をミリ単位、あるいはそれ以上の極小の精度で完璧に操作し、対象的患部へと流し込むだけ。その三つの要素さえ完璧に揃っていれば、いかなる重病人であろうと、瀕死の重傷者であろうと、人は確実に治る。人体とは精緻な機械のようなものであり、医魔術師とはそれを修繕する高度な技師に過ぎない。

 逆に言えば、そこへ向ける感情などという不確定な要素は、一切不要だった。

 患者の痛みにいちいち寄り添う必要もなければ、不安を和らげるために優しい言葉で励ます必要もない。弱者に向けた偽善の笑顔を見せる必要性など、どこを探しても存在しなかったのだ。

 医療において、結果だけがすべてだ。生かすか、死なせるか。治せばそれでいいし、治せなければ技術不足。ただそれだけの冷徹な世界に、俺は生きていた。……そう思っていた。

 だが、もしその思想が絶対に正しかったというのなら、なぜ前世の俺は、あんなにも誰からも必要とされなかったのだろう。完璧な治療を提供し、多くの命を救ってきたはずの俺が、最後に得たのは孤独と冷たい視線だけだったのはなぜか。その答えを、俺はまだ知らなかった。


川辺から戻った夕方、家の中にはどこか穏やかで温かい空気が満ちていた。

 オリヴィアが小さな手で一生懸命に摘んできたフィルナ草は、台所の隅に丁寧にとり置かれていた。夕暮れの淡い光を浴びて、その青緑色の葉がわずかに輝いている。

「ルーク、見て。きれいでしょう?」

 オリヴィアが、まるで世界で一番の宝物でも見つけたかのように、満面の笑みを浮かべて俺に言った。まだ幼い妹のその純粋な瞳を見つめながら、家の家事を一手に引き受けているバーバラは、優しく目元を和ませて微笑んだ。

「ええ、とってもきれいね、オリヴィア。よく見つけてきてくれたわ」

 バーバラの声は、いつだって聴く者の心を落ち着かせる柔らかさを持っていた。しかし、その温かい言葉とは裏腹に、彼女がフィルナ草の茎をそっと整えるその指先が、俺の視界に飛び込んできた。

 その手は、お世辞にも美しいとは言えないものだった。

 あちこちに深く刻まれたひび割れ。水仕事によるものだろう、全体的に赤みを帯び、乾燥によって皮膚が痛々しく炎症を起こしている。放置していればそのうちひび割れから血が滲み、痛みが悪化するであろうことは、前世の貧弱な知識を引っ張り出すまでもなく明白だった。

 だが、それはごく軽い皮膚の症状に過ぎない。

 前世の俺の基準からすれば、治療の優先順位としては最下位に位置するものだ。一分一秒を争う重篤患者がひしめく戦場のような医療現場において、このような「放っておいても死にはしない軽症」など、目をつぶって通り過ぎるのが当然だった。重篤な者を優先し、限られたリソースを効率的に分配する。それが最も合理的で、最も多くの命を救うための正解の判断だからだ。

 ……なのに。

 今の俺は、自分の小さな身体の中に宿る奇妙な焦燥感を抑えきれずにいた。夕食の準備をするバーバラの、その荒れた指先が、どうしても気になって仕方がなかったのだ。効率的でもなければ、合理的でもない。そんな些細な傷にこれほど心を乱される自分が、酷く奇妙に思えた。


やがて夜が更け、家の中は深い静寂に包まれた。

 隣からは、俺を添い寝で包んでくれているバーバラの、規則正しく、そして一日の労働の疲れをにじませた静かな寝息だけが聞こえてくる。小さな部屋を夜の闇が満たす中、俺はそっと目を開けた。

 じっと暗闇を見つめながら、俺は己の内側へと意識を深く沈めていく。

 この新しく得た小さな赤ん坊の身体の、胸の奥のさらに奥。そこには、前世の全盛期に比べればあまりにも弱々しく、しかし確かに熱を持つ小さな「火種」が存在していた。ルークとしての俺が持つ、魔力の源泉だ。

 俺はその火種へと慎重に意識の触手を伸ばし、そこから魔力を極めて静かに、一滴ずつすくい上げるようにして引き出していった。

 現在の俺の魔力総量は、大人のそれとは比べるべくもないほど微弱だ。しかし、医魔術の本質において重要なのは、一度に放出する出力の大きさではない。どれだけ繊細に、どれだけ正確に術式をコントロールできるかという、圧倒的な「精度」なのだ。前世で神の領域とまで称された俺の魔力操作技術があれば、この限られた魔力であっても、やりようはいくらでもある。

 俺は引き出した魔力を、そっと、本当にガラス細工を扱うかのような慎重さで、自分の右手の指先へと流し込んでいった。

 暗闇の中に、ぽつりと淡い緑色の光が灯る。

 それは医魔術における最も基礎的な光の色だった。前世の戦場で、病院で、何千回、何万回と目にしてきた、見飽きるほど馴染み深い光。それなのに、この幼く未成熟な身体の指先から放たれる緑光は、俺が知っているどの光とも違って見えた。

 冷徹なエネルギーの塊だったはずの光が、なぜかとても柔らかく、配置された空間そのものを優しく包み込むほどに温かい。


俺はバーバラの寝顔を横目に、自分の短い右腕を、寝返りを打つようにしてゆっくりと伸ばした。

 赤ん坊の身体は思うように動かない。ほんの数十センチ先にある彼女の手に触れるだけで、今の俺にとっては全身の筋肉を動かすほどの大仕事だった。もどかしさを堪えながら、短い指先をほんの少しずつ動かし、布団の上に無防備に出されているバーバラの右手に、自分の小さな手のひらをそっと重ねた。

 触れた皮膚は冷たく、そしてやはり、ガサガサと酷く荒れていた。

 毎日、俺たちのために冷たい水に手を浸し、休むことなく働き続けてくれた証拠が、その一枚の皮膚に刻まれている。その事実を肌で理解した瞬間、俺の胸の奥が、まるで見えない手で強く雑に締め付けられたかのように痛んだ。

 なぜだ。なぜ、こんなにも心が騒ぐ。

 前世の俺なら、こんな感情を抱くこと自体がプロフェッショナルとしての敗北であり、技術の鈍りを生むノイズとして即座に切り捨てていただろう。治療とはただの因果の解消であり、感傷が介入する余地などないはずだった。それなのに、今の俺の頭の中は、ただ一つの純粋な願いで埋め尽くされていた。

 この手を、治したい。どうしても、今すぐ楽にしてあげたい。


俺は心の中で小さく息を吐き、自らの脳内に精緻な術式を描き出していった。

 選択するのは、最も初歩的な医魔術。傷ついた細胞を活性化させ、生体の自然治癒力を極限まで高める「細胞活性」。患部の熱と痛みを引き去る「炎症鎮静」。そして、失われた皮膚の障壁を急速に再構築する「表皮再生」。これらを組み合わせた、前世の俺からすればあくびが出るほど単純な複合術式だ。

 だが、今の俺の身体はあまりにも幼く、基盤が脆弱すぎる。ほんの少しでも魔力の制御を誤れば、バーバラの皮膚を傷つけるどころか、俺自身の魔力回路が過負荷で焼き切れてしまう危険性すらあった。

 慎重に、慎重に。一筋の極細の糸を針の穴に通すような感覚で、俺は緑の魔力をバーバラのひび割れた皮膚へと流し込んだ。

 淡い緑色の光が、彼女の手の甲から指先にかけての痛々しい赤みを、優しくなぞるようにして広がっていく。

 じわり、と微かな熱が二人の肌の間で生まれ、バーバラの手の赤みが目に見えて薄れていくのが分かった。皮膚の細かな亀裂が、内側から押し上げられるようにしてゆっくりと塞がっていく。

 現在の俺の魔力では、一瞬で完全な白魚のような手へと戻すような芸当は不可能だ。しかし、確かに彼女の手は改善され、痛みの原因となっていた炎症は確実に鎮静化していた。

 治療は成功だ。術式が完全に収束したその瞬間、突如として強烈な疲労感の波が、俺の小さな身体を容赦なく襲った。

「……っ」

 あまりの目眩に、思わず小さな声を漏らしてしまう。視界が急激にぐらぐらと揺れ、周囲の景色が二重三重にブレていく。やはり、この身体で医魔術を行使するのは、今の段階では明らかな無理があったのだ。体内の魔力が底をつきかけ、身体が激しい拒絶反応を起こしている。

 しかし、激しい息切れを堪えながらも、俺の心の中に後悔の念は一辺倒も存在しなかった。それどころか、奇妙な満足感が胸を満たしていた。


「……ルーク?」

 静寂を引き裂くようにして、頭上から微かな、掠れた声が聞こえた。

 しまった、と俺は心の中で息を呑んだ。魔力の行使による気配の揺らぎか、あるいは俺の漏らした吐息のせいで、彼女を起こしてしまったのだろうか。

 しかし、慌てて見上げた先にあるバーバラの瞳は、しっかりと開いてはいなかった。彼女は完全に覚醒しておらず、半分ほど夢の世界に足を踏み入れたまま、ぼんやりとした視線で俺の小さな姿を見つめているだけだった。

 彼女は状況を何も理解していないようだった。なぜ夜中にルークが自分の手を握っているのか、なぜ自分の手が先ほどまでと違って妙に軽やかで痛まないのか、その理由を深く考える思考力は、今の彼女の脳には残っていない。

 ただ、バーバラは本能的な優しさに突き動かされるようにして、俺の小さな身体をその細い腕で、そっと抱き寄せた。

「……ありがとう、ルーク」

 それは、明日になれば本人すら忘れてしまっているであろう、寝言のようなくらいに小さな、微かな呟きだった。

 彼女が何に対してお礼を言ったのかは分からない。夜中に起きてしまった赤ん坊を安心させるための、母親としての無意識の言葉だったのかもしれない。俺の秘められた治療行為に、奇跡的に気づいたわけでは決してないはずだ。

 それでも。その実体のない、不確かなはずの「ありがとう」という言葉は、不思議なほど真っ直ぐに、俺の冷え切っていた胸の奥深くへと沁み渡っていった。前世でどれほど完璧な治療を施しても、誰からも与えられることのなかった、温かい光のような響きを持って。


なぜ、俺はこんなにも彼女の手を治したいと思ったのだろうか。

 その明確な理由を、前世で知性の塊とまで言われた俺の頭脳をもってしても、未だに上手く言葉で説明することができない。

 己の持つ高度な技術を誇示するためではない。周囲から高い評価を得て、名声を手に入れるためでもない。誰かよりも優位に立ち、自尊心を満たすためでもない。そんな前世での行動原理のどれを当てはめてみても、今の俺の行動の言い訳にはなり得なかった。

 ただ、ただ純粋に。

 この目の前にいる優しい人が、明日起きる時に、少しでも身体が楽になっていてほしい。明日もまた笑顔でいられるように、その痛みを少しでも取り除いてあげたい。

 そう思ったのだ。それ以外の理由は、何もなかった。

 そのあまりにも単純で、あるいは子供じみた感情の揺らぎが。

 前世の俺が人生を捧げて構築してきた、どんなに緻密で高度な、神の領域の術式よりも――ずっと複雑で理解しがたくて、そして。

 何よりもずっと、尊いもののように思えてならなかった。

 腕の中に伝わるバーバラの体温を感じながら、俺は深い疲労感に身を任せ、今度は心地よい眠りへとゆっくりと落ちていった。指先に残る淡い緑の残光はすでに消えていたが、俺の心の中に灯った新しい火種は、決して消えることなく、静かに燃え続けていた。

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