Ep75. 世界は思ったより広くて
前世の俺は、綺麗事を信じない男だった。
「知識とは、人を救うためのものだ」――もしもそんな言葉を耳にすれば、当時の俺なら鼻で笑っていただろう。
俺にとって、知識とは力だった。より正確に言うならば、他者より先に知ること、他者より深く理解すること。それこそが絶対的な優位を生む武器であり、存在理由のすべてだった。その思想は、俺が修めていた医魔術においても全く同じだった。病理を知り、術式を知り、肉体の構造を知る。知っている者だけが治す資格を持ち、知っている者だけが上に立てる。だから俺は、狂ったように学び、貪欲に知識を集めた。そこに「目の前の人間を救いたい」という純粋な慈悲などひとかけらもなかった。ただ、自分が誰よりも優れていると証明するためだけに、俺は白衣を血と魔力に染め続けていたのだ。他人の命を救うたびに周囲は俺を聖者と崇めたが、その実、俺が愛していたのは医学の深淵であって、患者の未来ではなかった。病を打ち倒す快感、難病のパズルを解き明かす全能感、それだけが俺のガソリンだった。
……そして、その傲慢な歩みの果て、最後には誰も残らなかった。
俺の周囲から人は去り、あるいは俺が切り捨て、最後はただ凍てつくような孤独だけが手元に残った。実に見事な皮肉だった。知識という力で世界の頂点に立ったつもりが、その実、自ら作った監獄に閉じ込められていたのだから。死の間際、俺の枕元には誰もいなかった。冷徹なシステムのように知識を積み上げ、他者を見下し続けた男の末路としては、あまりにも妥当で、あまりにも虚しい結末だった。
「今日はね、川の向こうまで行こう」
そんな俺の冷え切った回想を溶かすように、頭上から穏やかな声が降ってきた。
視界が揺れ、身体が宙に浮く。オリヴィアが俺を抱き上げたのだ。相変わらず、その腕の使い方は少しぎこちない。首の据わりきらない赤ん坊の身体をどう扱えばいいのか、戸惑っているのが密着した身体の硬さから伝わってくる。だが、以前ほど俺の中に不安はなかった。彼女は彼女なりに、毎日俺を抱き上げる中で、少しずつ痛まない、苦しくない抱き方を覚えていったのだろう。人間は学習する。何も分からないこの世界での赤子としての俺も、そして目の前の不器用な少女も。その事実が、今の俺にはそれほど悪くないものに思えた。
村の小道を進むにつれて、頬を撫でる冬の空気が冷たさを増していく。しかし、俺を包む毛布の内側は驚くほど暖かかった。衣服越しに、オリヴィアの確かな体温が伝わってくるからだ。前世の俺であれば、こうした他者との過度な接触は煩わしさの極みだった。近すぎる物理的距離、こちらの都合を無視して注がれる無遠慮な好意、そして自他の境界を曖昧にするような、気味の悪い生ぬるい温度。そのすべてを嫌悪し、孤高であることこそが至高だと信じて疑わなかった。だが、今は少し違う。単に、この赤ん坊の身体が環境に慣れたというのもあるかもしれない。しかし、理由はそれだけではなかった。この胸を浸す温度を、心のどこかで「心地よい」と感じている自分が確かにいるのだ。……頑なに認めたくはないが、俺の心は確実に、この小さな村の営みによって弛められつつあった。
冬の村は静かだった。畑は雪と霜に覆われ、時折、風が木々を揺らす音だけが響く。オリヴィアは歌うような足取りで歩を進めていく。彼女が踏み締める霜柱のサクサクという音が、妙に耳に心地いい。すれ違う村人が「おや、オリヴィア、お散歩かい?」「ルークを冷やさないようにね」と声をかけてくる。オリヴィアはそのたびに嬉しそうに笑い、俺の毛布を少しだけ直す。前世の俺なら、こんな生産性のない会話のやり取りなど時間の無駄だと一蹴していただろう。だが、今の俺は、その無駄としか思えない時間の連なりに、不思議な安らぎを覚えていた。
やがて、さらさらと澄んだ水のせせらぎが聞こえてきた。村の外縁を流れる小川だ。川辺に着くと、そこには冬の低い日差しを浴びて、きらきらと輝く水面が広がっていた。透き通った水は底の小石まで綺麗に映し出している。オリヴィアは川辺のなだらかな斜面に腰を下ろし、俺を膝の上に座らせるようにして抱き直した。
その時、俺の視界の端に、見覚えのある植物が飛び込んできた。
川のすぐ近く、湿った土壌からひっそりと、しかし力強く生い茂る草。細く、しなやかな茎。そして特徴的な、わずかに銀色を帯びた淡い緑の葉。冬の厳しい寒さの中でも枯れることなく、青々とした生命力を湛えているその姿。
――フィルナ草だ。
前世の記憶が、鮮明な知識の引き出しとなって脳裏に蘇る。これは軽い炎症を抑え、皮膚の代謝を促進する初歩薬の素材だ。すり潰して煎じれば、肌荒れや乾燥によるひび割れ、あかぎれに劇的な効果をもたらす。前世の俺にとっては、医療の初期段階で扱う退屈なほどありふれた雑草に過ぎなかった。もっと高度な、一国を救うような秘薬や術式にばかり目を向けていた当時の俺なら、目に入っても通り過ぎていたはずの存在。
しかし、その瞬間。俺の脳裏に、この家で俺を育ててくれているバーバラの手が、唐突に、そして鮮明に浮かび上がった。
彼女の手は、お世辞にも美しいとは言えなかった。赤く腫れ上がり、ところどころ皮膚が裂けて痛々しく荒れた指先。凍えるような冬の寒さの中、毎日休むことなく続けられる冷たい水仕事。洗濯、炊事、掃除、そして俺の世話。家族のために働きづめになっている、その象徴のような手。俺が赤ん坊の身体で泣くたびに、その荒れた手で優しく、包み込むように撫でてくれた。その時の、少しガサガサとした、けれど温かい皮膚の感触を、俺の身体が記憶していた。
(あれに……あの手の荒れに、この草は確実に効く)
その事実を、純粋な知識として思い出した瞬間だった。俺の胸の奥、まだ小さく未熟なはずの魔力の核が、ドクンと大きく、そして優しく揺れた。
治したい。あの痛々しい手を、少しでも楽にしてやりたい。
ただそれだけの、あまりにも単純で、前世の俺なら「感傷的でくだらない」と切り捨てていたはずの衝動。しかし、その衝動が引き金となった瞬間、体内の魔力がまるで意志を持ったかのように、温かく、かつてないほど滑らかに波打ったのだ。
……なるほど、と俺は内心で息を漏らした。この世界の理、そして俺に与えられたこの力は、前世の魔術とは根本的に性質が違うらしい。前世の魔術は冷徹な計算と支配の力だった。だが、この世界における力は、誰かを救いたい、誰かを支えたいと心から願った時にこそ、最も強く、最も純粋に駆動する。
それは、かつて効率と優位性だけを追い求めていた俺から見れば、非合理的で、しかし――少しだけ、美しい仕組みに思えた。
「どうしたの? ルーク、じっとそれを見て」
俺の視線が一点に固定されていることに気づいたのだろう。オリヴィアが俺の顔を覗き込み、それから俺の視線を追うようにして、足元のフィルナ草に目を向けた。
「あ、この草かわいいよね。銀色に光ってて」
オリヴィアが屈託のない声で言う。
違う、と俺は心の中で毒づく。かわいいではない。薬効分類で言えば、これは外用消炎鎮痛カテゴリの多年生草本であり、有効成分の抽出には特定の温度管理が――。
そこまで思考を走らせて、俺はふと自嘲気味に笑った。待て。別に、かわいいという評価でもいいのではないか。
この植物を、緻密な薬効を持つ「薬草」として定義するのも、あるいはただの「かわいい草花」として愛でるのも、どちらかが正解でどちらかが間違いというわけではない。世界をどう切り取るかは、個人の自由だ。前世の俺は、あらゆるものに『正しい価値とラベル』を貼り付け、それ以外の見方を無駄だと切り捨てて生きてきた。だから世界が狭く、息苦しかったのだ。ただの草花として愛でる彼女の視点もまた、世界を彩る一つの正解なのだと理解した瞬間、俺の目の前の視界が、パッと洗われたように少しだけ広がった気がした。
「せっかくだから、摘んで帰ろっか」
オリヴィアが細い指先で、フィルナ草の茎を優しく一本摘み取った。それを、俺の目の前に掲げて見せてくれる。日の光に透けた銀緑色の葉が、彼女の指先で綺麗に揺れていた。
「これ、バーバラさんにお土産にしたら、喜ぶかな。いつもお仕事頑張ってくれてるから、お部屋に飾ったら綺麗だし」
彼女の口から出たその言葉に、俺の胸が、静かに、しかし抗いようのない熱さで満たされていくのが分かった。
同じことを、俺たちは考えていたのだ。ただ、その結論に至る理由が少し違うだけ。オリヴィアは、ただ何となく、綺麗だから、喜んでほしいからという純粋な直感で。俺は、その草が持つ確かな薬効を知っていて、彼女の手を治せるという論理的な裏付けがあるから。
目的の背景は違えど、辿り着く先が「大切な人を喜ばせたい、救いたい」という同じ場所であるならば、それはなんと愛おしく、悪くないことだろう。
前世の俺が信じなかった綺麗事は、この世界では確かに、ごく当たり前の日常として足元に転がっていた。世界は、俺が思っていたよりもずっと広かった。そして、俺が怯え、拒絶していたよりも、ずっとずっと優しかった。
知識とは、他者を引き離すための武器ではない。こうして、誰かの痛みを和らげ、誰かを支えるためにこそ使えるものなのだ。
そう心から思えた、その日の冬空は、どこまでも高く、やけに澄み切って見えた。オリヴィアの腕に抱かれながら、俺は手渡された銀色の葉を小さな手で握りしめ、いつか自分の知識と魔力で、この優しい世界を守るための力を蓄えようと、静かに胸に誓っていた。




