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Ep69. 初めて守りたいと思った

「守る」という発想が、俺は昔から反吐が出るほど嫌いだった。

少なくとも、前世の俺という人間を形作っていた価値観において、それは最も忌むべき欺瞞の一つに他ならなかった。


それはあまりにも傲慢だ。誰かを「守ってやる」と口にすること、誰かを「助けてやる」と手を差し伸べること。その行為の根底に潜んでいるのは、美麗な人道主義などではなく、醜悪なまでの優越感だ。相手を自分より劣った弱者だと一方的に決めつけ、保護という名目の檻に閉じ込め、自分を安全で高位な場所に置く。救済のポーズを取る者の裏側には、いつだって「自分は持てる者であり、相手は持たざる者だ」という歪んだ全能感が透けて見えた。他者を憐れむことで、己の価値を確認する。そんなものはただの自己満足であり、自己陶酔の道具に過ぎない。


人は本来、自分の足で立つべきなのだ。過酷な現実の泥をすすり、膝を血に染めながらも、生きたいのであれば自分の力で這い上がるべきだ。他人の差し伸べる生ぬるい手に縋るなど、自立の放棄であり、人間としての敗北を意味する。だからこそ、前世の俺は他者に対して徹底して冷徹であり続けた。救いを求める視線を向けられても、容赦なく切り捨ててきた。それが世界の真理であり、生存闘争における唯一の正解だと信じて疑わなかったからだ。


……だが、それほどまでに冷酷な合理性を突き詰めて生きてきたはずの俺が、今、激しい混乱の渦中にいる。

現在の俺の意識を満たしているのは、前世の俺なら狂気として一蹴したであろう、どうしようもないほどの熱情だった。他人のために命を懸ける愚者の思想だと嘲笑していたはずの衝動が、この小さな、あまりにも小さな胸の奥で狂おしいほどに暴れ回っている。理性が「無意味だ」と告げ、経験が「非合理的だ」と冷笑する。それなのに、俺の魂はただ一つの純粋な欲求に支配されていた。

――誰かを、守りたい。

その対象は、今、俺の目の前で忙しなく動き回っている一人の少女だった。



「ふふーん、今日はこれでルークのお部屋もお掃除おしまい、かな!」


快活な声とともに、少女――オリヴィアが額の汗を拭った。彼女は俺の身の回りの世話をしてくれる、この新しい世界での大切な存在だ。彼女の笑顔はいつも陽だまりのように温かく、その一挙手一投足には、前世の俺がとうに忘れてしまったような純粋な善意が溢れている。


今の俺には、世界を俯瞰して観察することしかできない。なぜなら、現在の俺の肉体は、自力で立ち上がることも、言葉を発することもままならない「赤子」だからだ。前世において、俺は世界の理を解き明かした大魔術師であり、同時に人の生死をその指先一つで左右する高名な治療師でもあった。神童と称えられ、万物の頂点に立つかのように錯覚していた俺が、まさか異世界に転生し、自らの排泄物すら処理できない無力な赤ん坊に成り下がるとは、何の因果の悪戯だろうか。


脳の思考領域は大人であり、前世の膨大な知識と卓越した魔術理論が完全に残っている。それなのに、それを出力するための肉体が決定的に追いついていないのだ。この肉体は、あまりにも脆弱で、不自由で、もどかしい。

腕を伸ばそうとすれば、自分の意図した軌道から大きく外れて虚空を彷徨う。脚に力を入れようとしても、関節はふにゃふにゃと頼りなく、寝返りを打つだけで全身の体力を使い果たす。前世であれば、呼吸をするよりも容易に編み出すことができた最高位の防御魔術や移動魔術も、この未発達な魔力回路では一滴の火花すら生み出すことができない。器が小さすぎるのだ。強大な魂に対して、肉体という名の檻があまりにもお粗末だった。


だからこそ、俺は日頃からこの無力な現状に苛立ちを抱え、一刻も早く成長するための基礎鍛錬――脳内での魔力循環のシミュレーション――を繰り返していた。すべては、再び誰にも脅かされない絶対的な強者へと戻るため。自分の足で立ち、自分の力で世界を支配するため。そのはずだった。


「よし、じゃあルーク、お着替えの準備をしようね。ちょっと待ってて」


オリヴィアがそう言って、パタパタと部屋の隅へと歩いていく。彼女の足取りはいつも少し危なっかしい。どこか抜けていて、おっちょこちょいで、見ているこちらがハラハラさせられることが多い。前世の俺なら「自己管理の行き届いていない未熟者だ」と一蹴して視界から外していただろう。他人が勝手に転ぼうが、怪我をしようが、それは自己責任の範疇であり、俺の知ったことではない。そう切り捨ててきたはずだった。


だが、今の俺は、彼女の背中から一瞬たりとも目を離すことができなかった。

オリヴィアが立ち上がり、洗濯物のカゴを抱え直そうとした、その刹那のことだった。

彼女の小さな足先が、床に不用意に置かれていた頑丈な木箱の角に引っかかった。


「きゃっ」


短い、小さな悲鳴。

その瞬間、俺の視界の中で、世界の流れが極端に引き伸ばされたかのように遅くなった。


オリヴィアの身体が、ぐらりと不自然に傾く。抱えていたカゴの手が離れ、中身が宙に舞う。彼女の重心は完全に崩れ、床に向かって無防備な姿勢のまま倒れ込もうとしていた。その先には、先ほど彼女が足を引っ掛けた木箱の尖った角がある。もしあの角に顔や頭を強打すれば、ただの擦り傷では済まない。最悪の場合、大量の出血を伴う大怪我になることは、前世の治療師としての知識が瞬時に弾き出した。


(しまっ――)


脳が最悪の結末を予測した瞬間、俺の胸の奥が、今までに経験したことのないほどの強さで跳ね上がった。心臓が痛いほどに脈打ち、全身の血液が沸騰したかのように熱くなる。頭の中が真っ白に染まり、これまでに積み上げてきた冷徹な論理思考が、ドミノ倒しのように一瞬で崩壊していく。


危ない。

助けなければ。

その二つの衝動だけが、原始的な狂暴さで俺の意識を塗りつぶした。


考えるよりも先に、俺の身体は反応していた。

前世の俺であれば、こんな状況は児戯に等しかった。指先をほんの数ミリ動かし、無詠唱で風の結界を展開すればいい。あるいは、重力制御の魔術で彼女の身体の落下速度を相殺し、ふわりと安全に床へ着地させることもできた。距離にしてわずか数メートル。時間にして1秒にも満たない刹那の危機など、俺という存在にとっては、認識した瞬間に解決されているはずの事象だった。


だが、今は違う。

俺の腕は、丸太のように太く頼りない赤ん坊のそれだ。必死に前へ突き出そうとしても、空気の抵抗にすら負けそうなほどに短く、か細い。脚を踏み出そうとしても、腰から下はマットレスに沈み込んだままで、ピクリとも持ち上がらない。魔術を起動しようと脳内で数式を走らせても、体内の魔力はピリピリとした不快な静電気のような刺激を生むだけで、外の世界へ干渉するための形を成さない。


何一つ、できない。

世界を変える力を持っていたはずの俺が、今やただの肉の塊に過ぎない。


「……ぁ!」


それでも、俺は喉を血が滲むほどに締め付け、言葉にならない叫びを上げながら、必死に手を伸ばした。

届くはずがない。その距離を埋める手段など、今の俺には存在しない。客観的に見れば、赤ん坊がベッドの上で無様に手をバタつかせているだけの、滑稽で無意味な光景だ。結果に結びつく可能性などゼロパーセント。何の生産性もない、非合理の極み。


止めろ、と冷徹な理性が脳の片隅で囁く。そんな無駄な動きにエネルギーを消費するな、結果は変わらない、他人の失敗を背負い込むな、と前世の俺が冷笑する。

だが、止められなかった。止めるわけにはいかなかった。たとえどれほど無様であろうとも、届かないと分かっていても、彼女の手を、彼女の身体を掴もうとする衝動を、俺自身の意志で制御することがどうしてもできなかった。


ドサリ、と大きな音が響く。


心臓が止まるかと思った。俺は恐怖に目を見開き、彼女の姿を追った。

結果から言えば、最悪の事態は免れていた。オリヴィアは床に激突する直前、驚異的な野生の勘というべきか、とっさに近くの壁に右手を突き、驚くべき反射神経で体勢を立て直していたのだ。木箱の角に頭をぶつけることもなく、彼女の身体は膝をついた状態で静止していた。


「びっくりしたぁ……。もー、誰あんなところに木箱置いたの。わたし、本当にドジだなぁ……」


オリヴィアは床にへたり込んだまま、痛む手首をさすりつつ、へらりといつもの締まりのない苦笑いを浮かべた。


その顔を見た瞬間。

俺の全身から、文字通り全ての力が抜けた。張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、背中を冷たい汗が伝わっていく。

怪我はない。無事だ。彼女はどこも傷ついていない。


その事実を認識した時、俺の心の底から湧き上がってきたのは、言葉にできないほどの深い、深い安堵感だった。あまりの安心感に、視界が少しだけ滲むような感覚さえあった。


理解不能だ。本当に、自分のこの反応が理解できない。

前世の俺にとって、患者の生死や負傷の有無は、純粋な「治療結果」のデータに過ぎなかった。手術が成功したか、失敗したか。投薬が適切だったか、否か。そこにあるのは技術的な因果関係だけであり、成功すれば己の技量を誇り、失敗すれば次への改善点を探る、それだけの冷徹なルーティンだった。そこに個人的な感情を挟むなど、一流の治療師のすることではないと徹底して己を律してきたし、実際に他人の無事に涙するような感性は、とうの昔に摩耗して消え去っていたはずだった。


だが、今のこれは一体何なのだ。

技術の優劣も、魔術の成果も、自己の利益も関係ない。

ただ、目の前の、いつも自分を世話してくれる少女が怪我をせずに済んだ。ただ、それだけのことだ。それだけの、世界全体から見れば極小の出来事に過ぎないというのに、どうしてこれほどまでに胸が熱くなり、激しく揺さぶられているのだろうか。


「ルーク?」


床の洗濯物を拾い集めていたオリヴィアが、ふと顔を上げた。そして、ベッドの上で未だに小さな手を伸ばしたまま、肩で荒い息をついている俺の姿を見て、少しだけ丸い目をさらに丸くした。

彼女は膝立ちのまま俺の元へと近寄り、その顔を覗き込んできた。


「もしかして……ルーク。今、わたしが転びそうになったのを見て、助けようとしてくれたの?」


その真っ直ぐな問いかけに対して、俺は否定する言葉を持たなかった。声が出せないという物理的な理由だけでなく、俺の魂そのものが、彼女の言葉を肯定していたからだ。

事実、その通りだ。否定のしようがない。

何の力もないくせに。腕も短く、脚も動かず、魔術さえ使えない、ただ守られるだけの存在のくせに。それでも俺は、傲慢にも彼女を助けたいと願った。自分の身を挺してでも、彼女を守りたかった。その無謀で、矛盾に満ちた感情が、確かに俺の中に存在していたのだ。


「……ぅ、る」


悔しさが、言葉にならない掠れた声となって唇の隙間から漏れ出た。

どうしようもなく、自分が無力であるという事実が、刃のように胸を突き刺す。

前世の俺であれば。かつての強大な力を保持した俺であれば、こんな距離、この程度の突発的な事故など、眉一つ動かさずに防ぎ切ってみせた。それなのに、今の俺は、彼女が危機に瀕している瞬間、ただベッドの上で無様に手を伸ばし、視線を彷徨わせることしかできなかった。彼女が自力で危機を回避してくれたから良かったものの、もし本当にあのまま倒れていたら、俺は何もできずにその悲劇を見届けることしかできなかったのだ。

その事実が、猛烈に歯痒く、情けなく、自分自身に対する激しい憤りとなって体内を駆け巡る。かつて世界の頂点の一角にいた男が、ただの一人の少女の危機に対して、これほどまでに無力であるという現実が、耐え難いほどの屈辱だった。


だが、俺のそんな内面の荒れ模様を余所に、オリヴィアの表情が優しく緩んだ。


「ふふっ」


彼女は小さく、愛おしそうに微笑んだ。その笑顔には、俺をからかうような色も、子供扱いして見下すような色も一切なかった。ただただ、純粋な感謝と、温かい愛情だけがそこにあった。

そして、彼女はそっと右手を伸ばし、俺の頼りない頭のてっぺんを、壊れ物を扱うかのように優しく撫でた。


「ありがとね、ルーク。うれしいな。ルークはとっても優しい男の子だね」


たった一言。彼女の口から紡がれた、ささやかな感謝の言葉。

それだけで、俺の胸の奥が、今度は全く違う理由で強く、激しく震えた。

彼女の手のひらから伝わってくる体温が、皮膚を通じて、俺の凍りついていた前世の魂の深層にまでじわりと染み込んでいく。その温もりは、前世で浴びてきたどんな称賛の声よりも、どんな莫大な報酬よりも、深く俺の心を充足させていった。


――ああ、そうか。


その瞬間、俺を縛り付けていた前世の呪縛が、音を立てて崩れ去ったような気がした。


守りたいと思うことは、決して優越感の裏返しなどではない。相手を弱者と見下し、自分が上位に立つための欺瞞でもない。

ただ、その存在が大切だからだ。

自分にとって、失いたくないほどにかけがえのない存在だから。

傷ついてほしくない。痛い思いをしてほしくない。ただ、穏やかに、健やかに、笑っていてほしい。

そんな、ひどく単純で、一切の不純物がない、剥き出しの願い。

それこそが、人間が抱く「守りたい」という感情の、真実の正体だったのだ。


前世の俺は、効率と合理性を求めるあまり、この最も根源的で美しい感情を「弱さ」として切り捨ててしまっていた。他者を守る者を傲慢だと断じた俺自身こそが、本当の愛を知らない、最も浅ましく傲慢な存在だったのではないか。オリヴィアの温かい手のひらに撫でられながら、俺は己の過去の過ちに気づかされ、同時に、今この瞬間に新しい感情を手に入れたことを確信した。


今の俺は赤子だ。誰かに守られなければ生きていけない、世界で最も脆弱な存在の一人だ。

しかし、この胸に宿った炎は、前世のどの魔術よりも熱く、力強く燃え盛っている。


俺は生まれて初めて、心の底から、強く、激しく願った。

もっと早く、この不自由な肉体を動かせるようになりたい。

もっとたくさんの言葉を覚え、彼女と意思を通わせ、その心を支えられるようになりたい。

もっと、強く。この世界の理を塗り替えるほどの力を、再びこの手に掴み取りたい。


この小さくて、脆くて、どうしようもない無力さを、一刻も早く脱しなくてはならない。

いつかまた訪れるかもしれない本当の危機の時、ただ見ているだけの無様な存在で終わらないために。

今度こそ、俺にとって大切なこの少女を、自分の手で、完璧に守り抜くために。


独りよがりの強さではない、誰かを守るための本当の強さを手に入れる。そのためなら、どんな過酷な試練であっても乗り越えてみせる。

オリヴィアの優しい手のひらの温もりを感じながら、俺は小さな拳を強く握り締め、自分の新しい人生の第一歩を、ここに固く誓った。この世界で、ルークとして、大切な人を守るために――俺は、ちゃんと生きる。

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