Ep70. 小さな決意
無力であること、それ自体にはとうの昔に慣れていた。少なくとも、この新しい人生が始まってからは、無力感こそが俺の影のように四六時中寄り添い続ける、最も親密な相棒だったと言ってもいい。
かつて世界を震撼させ、己の知略と魔術ですべてを支配していた男が、今や自らの意思で寝返りを打つことすらままならない肉体に閉じ込められている。この皮肉な現実を前に、最初の頃はどれほどの絶望と屈辱に身を焼かれたことだろう。だが、人間というのは恐ろしいほどに環境に適応する生き物だ。どれほど強大な魂を持っていようとも、器たる肉体が赤ん坊のものである以上、できることなど何一つない。
泣くことしかできず、誰かの手によって抱き上げられ、ただただ世界から守られる側でしかいられない。それが、赤子という生き物の定義であり、この世界において絶対に覆しようのない物理的な現実だった。
だからこそ、俺はある程度、この境遇を受け入れていた。受け入れるしかなかった、と言うのが正しいかもしれない。焦ったところで、未発達な筋肉が急に躍動するわけでもなければ、空っぽの魔力回路が突然満たされるわけでもない。今はまだ、その時ではないのだ。力を取り戻し、再び自分の足で大地に立つためには、どうしても絶対的な時間必要だった。どれほど天才と謳われた前世の俺であっても、成長のステップを飛び越えることはできない。
合理的に、客観的に考えれば、そう結論づけて大人しく時を待つのが最も賢明な選択肢だった。感情を殺し、ただの無垢な乳児を演じながら、肉体の成熟をじっと待つ。それはかつての俺にとって、それほど難しいことではないはずだった。
……だが、どうしても割り切れない何かが、俺の胸の奥で燻り続けていた。
引き金となったのは、昨日の出来事だ。ほんの一瞬の、しかし俺の誇りを根底から揺るがすような出来事だった。目の前で、あの無邪気で危なっかしい少女――オリヴィアが、予期せぬ小さな危機に直面していた。大したことのない、大人から見れば他愛のないトラブルだったかもしれない。しかし、その時の俺にとっては、世界が崩壊するほどの重みを持っていた。
俺は本能的に、彼女を助けようと小さな手を伸ばした。かつてのように、指先一つで嵐を呼び、地を裂くような圧倒的な魔術を展開するイメージを脳裏に描きながら、必死に腕を突き出したのだ。しかし、俺の指先が空を切った瞬間、そこからは何の奇跡も生まれなかった。風の一吹きすら起こせず、ただ短く不格好な幼児の腕が、虚しく空間を彷徨っただけだった。
結局、俺の心配をよそに、オリヴィアは持ち前の高い身体能力か、あるいはただの偶然か、驚くような器用さで自らぐっと体勢を立て直し、転ぶことなく踏みとどまってみせた。何事もなかったかのようにケラケラと笑う彼女の姿を見て、俺は安堵すると同時に、言いようのない冷や汗が背中を伝うのを感じていた。彼女が自力で難を逃れたから良かったものの、あの瞬間に味わった、全身の血が凍りつくような無力感。もし彼女があのまま倒れていたら、俺には何もできなかったという冷酷な事実が、妙に深く、視界の裏に焼き付いて離れなかった。かつてあれほどの力を誇った俺が、目の前の大切な一人が揺らいだ瞬間に、支える手立てすら持たない。その現実が、これほどまでに痛烈な苦痛を伴うものだとは、想像すらしていなかったのだ。
夜が明け、静かな朝が訪れた。
眠りから覚めると、視界に飛び込んできたのは、窓の隙間から斜めに差し込む細い陽光だった。空気はシンと冷え切っており、吸い込むたびに未熟な肺を微かに刺激する。その冷たさが、現実の輪郭を冷酷なまでに際立たせていた。
部屋の中は、奇妙なほどに静まり返っていた。いつもなら、この時間にはすでに部屋中を忙しなく動き回り、俺の世話をするために準備を始めているはずの気配がない。怪訝に思いながら、俺は視線をすぐ傍らのベッドへと向けた。
バーバラは、まだ深い眠りの中にいた。
それは、この家に生まれてから初めて目にする光景だったかもしれない。彼女はいつも、俺が目を覚ますよりもずっと早くに起き出し、竈に火を入れ、温かいミルクを用意し、慈愛に満ちた笑顔で俺を迎え入れてくれる。そんな彼女が、未だに微睡みの中から抜け出せずにいる。
疲れているのだろう。ここ数日、彼女は俺の世話だけでなく、家事や他の雑務に追われ、明らかに休息が足りていない様子だった。眠っている彼女の顔をじっと見つめると、普段の健康的な血色は身を潜め、どこか痛々しいほどに青白く、疲弊の色が濃く滲み出ているのが分かった。
その寝顔を見た瞬間、俺の胸の中に、言いようのない激しいざわめきが沸き起こった。冷たい風が、心臓を直接撫で上げていったかのような、不吉で、そして圧倒的な恐怖を伴うざわめきだった。
……もし、この人が今、この瞬間に倒れてしまったら。
もし、この優しい女性が、過労や病によって動けなくなってしまったら、その時、俺は一体どうする?
自問自答の答えは、あまりにも明白で、残酷だった。俺は、何もできない。彼女に布団を掛け直してやることも、その額に手を当てて看病してやることもできない。外へ飛び出して、誰かに「助けてくれ」と叫び声を上げることもできない。かつて世界を破滅から救った、あるいは破滅へと導いたあの至高の魔術の数々も、今のこの小さな身体からは一滴たりとも引き出すことはできないのだ。
彼女の身に何かが起きたとき、俺に許されているのは、ただ腹を空かせた獣のように、あるいは分を弁えない愚者のように、無力に泣き叫ぶことだけだ。昨日、体勢を崩したオリヴィアを前にして、ただ虚しく手を伸ばすことしかできなかったように。この部屋で一人、誰かがその声に気づいて偶然通りかかってくれるのを、ただ祈るように待つことしかできない。
その厳然たる事実が、ひどく、ひどく歯痒かった。己の無能さに、これほどまでの怒りと悔しさを覚えたことは、前世の全生涯を通じても一度だってなかった。かつての俺は、力を持たない弱者を心のどこかで見下し、彼らが不条理に泣き叫ぶ姿を「自己責任だ」と冷ややかに切り捨てていた。しかし今、俺はその弱者の最底辺に位置している。そして、その立場になって初めて、己の無力という刃が、どれほど深く心を切り裂くかを知ったのだ。
守らなければならない対象は、昨日手を伸ばしたオリヴィアだけではない。俺の目の前で、青白い顔をして眠っているバーバラもまた、俺が守るべき、そして守りたいと切に願う大切な存在だった。
それなのに、現実の俺は守られてばかりだ。彼女たちの温かい手によって冷えた身体を温められ、自らの手では掴めない食事を口に食べさせられ、不安に震える夜にはその細い腕で強く抱きしめられる。俺はただ、彼女たちが注いでくれる無償の愛と、命の糧を、何も返さぬまま一方的に受け取ってばかりの存在だった。
前世の、傲慢極まりなかった頃の俺であれば、このような状況をこの上ない屈辱と感じていたに違いない。他者から施しを受け、誰かの庇護下でしか生きながらえることができないなど、魔導を極めた者としての死を意味するとさえ考えていただろう。他者からの依存は拒絶し、孤高であることこそが強さの証明だと信じて疑わなかった。
だが、今は違う。この小さな、不自由な肉体に生まれ変わり、バーバラやオリヴィアの温もりに触れ続けた今の俺は、かつての俺とは決定的に異なっていた。
俺は知ってしまったのだ。誰かから何かを受け取ることの、言葉にはできないほどの温かさを。凍えそうな夜に差し伸べられる手の熱が、どれほど深く魂を救うかを。それは、前世の俺がどれほど魔導を極め、どれほどの富と名声を築き上げても、決して得ることのできなかった本物の輝きだった。
だからこそ、俺の心の奥底から、かつて抱いたことのない全く新しい感情が湧き上がってきた。
返したい。この温かさを、このまま掠め取るだけで終わらせたくはない。彼女たちが俺にくれた、この計り知れないほど深い慈愛と温もりを、今度は俺自身の力で、ちゃんとした形で誰かに返せるようになりたい。ただ守られ、貪るだけの存在から脱却し、彼女たちを支え、包み込めるだけの大樹になりたい。そのためなら、俺はどんな試練でも受け入れる。そのための力が、どうしても欲しい――。
その時だった。俺の魂の、さらにその奥深く、肉体の中心にあるはずの「核」が、明確な脈動を刻んだのは。
胸の奥底で、かすかな、しかし強烈な存在感を放つ熱がぽつりと灯った。
それは、俺がこれまで何十年、何百年と付き合ってきた、片時も忘れることのなかったあの感覚だった。魔力。紛れもない、世界の理を書き換えるための神秘の力。
量としては、本当にほんの微量だった。かつての俺が有していた、海をも干上がらせるような莫大な魔力に比べれば、砂漠の砂一粒、あるいは大海の一滴にも満たないほどの、あまりにもささやかで、儚い灯火に過ぎない。
だが、俺は確かにそれを感じ取っていた。それは幻覚でもなければ、ただの願望が見せた都合の良い夢でもない。体内を巡る、あの独特の、そしてあまりにも馴染み深い力の流れ。俺の意思に従って、かすかに、しかし従順に蠢くエネルギーの気配。
……来たか。
俺は、声にならない吐息を漏らし、思わず息を呑んだ。全身の産毛が逆立つような、強烈な歓喜と興奮が脳髄を駆け抜ける。
これまでにも、確かに兆しのようなものはあった。夢と現実の狭間で、魔力の残滓のようなものが肌をかすめたり、感情が高ぶった瞬間に、一瞬だけ体内の回路がパチパチと火花を散らすような感覚を覚えたことはあった。しかし、それらはすべて一時的な現象であり、掴もうと手を伸ばした瞬間に霧のように消え去ってしまう幻に過ぎなかった。
だが、今この瞬間に胸の奥で拍動している熱は、明確に違っていた。それは俺の体内に定着し、根を張り、自らの意思で維持できる本物の魔力だった。これほどまでにハッキリとした感覚を得たのは、この第二の人生が始まって以来、間違いなく初めてのことだった。
もちろん、まだまだ弱い。あまりにも未熟で、細く、頼りない回路だ。かつて使っていたような高位の魔術など、発動するどころか、構築の初期段階で肉体が負荷に耐えかねて崩壊してしまうだろう。制御することだって、今の段階では到底できそうにない。少しでも気を抜けば、すぐにでも体内のどこかへ霧散してしまいそうなほど、危ういバランスの光でしかない。
それでも、これは確かな始まりだった。ゼロがイチになったのだ。何もない無力な赤子という絶望の荒野に、初めて俺自身の意志でコントロールできる、未来への種火が蒔かれた瞬間だった。
俺は、自分の意思で、布団の中で小さな拳を固く握りしめた。
短く、柔らかく、まだ骨だって完全に固まりきっていない、他者が力を込めれば簡単に折れてしまいそうなほど頼りない手。大人の指一本を握るのが精一杯の、無力さの象徴のような拳。
だが、その皮膚のすぐ下には、そしてその奥深くには、今や確かに「力」の胎動が存在している。前世の俺が、寝食を忘れて研究し尽くし、戦場で、あるいは玉座の上で、あれほど使い慣れていた最強の武器。その片鱗が、今再び、俺の手の中に引き戻されようとしていた。
ただし、俺は自分自身に強く誓う。今度は違う。かつての俺とは、この力の使い道も、力を求める理由も、すべてが決定的に異なっているのだと。
もう二度と、己の名声を高めるためにこの力を振るうことはない。世界に俺の名を轟かせ、畏怖の念を抱かせるためだけに、強大な魔術を誇示する必要などどこにもない。誰かからの評価を求め、承認を飢え渇くように探すためでもない。 choirそして何より、自分より劣る者を見下し、己の優位性を確認して自尊心を満たすための道具として、この神聖な力を汚すことは絶対にしない。
守るために。俺に生きる歓びを教えてくれた、この手を引いてくれた人々を、不条理な運命から守り抜くために。
支えるために。疲れたときに寄り添い、歩みを止めてしまいそうなときに、その背中をそっと押してあげられる存在になるために。
自力で体勢を立て直した彼女の強さに甘えることなく、次こそは俺の力で、その笑顔を脅かす全てから遮断するために。
そして、返すために。この小さな、何もない俺に注がれた、数え切れないほどの温もりと慈愛を、何倍もの大きさにして彼女たちの未来へと還元するために、俺はこの新しく目覚めた力を使いたい。
己の内側から湧き出たその誓いの言葉に、俺は自嘲気味な笑みを浮かべそうになった。こんなふうに、他者のために力を尽くしたいなどと思う日が来るなんて、前世の、孤独の中で世界の頂点に君臨していたあの頃の俺が見れば、一体どんな顔をするだろうか。「狂ったか」と吐き捨てて、哀れみの目を向けるかもしれない。想像すらしていなかった未来が、今、この小さな胸の中で確かに形作られていた。だが、その変化が、俺にとっては堪らなく愛おしく、誇らしかった。
その感傷に浸っていた、まさにその時だった。
部屋の厳かな静寂を破るように、木製の扉の向こうから、聞き慣れた、しかしこれ以上ないほどに愛おしい歌うような歌声が響いてきた。
「ルークー! 起きてるー?」
オリヴィアの声だった。
いつもの、ひまわりが太陽に向かって咲き誇るような、濁りのない明るい声。周囲の冷たい空気を一瞬で吹き飛ばし、部屋全体に春の温かさを連れてくるかのような、彼女の生命そのものの響き。昨日の危うい一幕など微塵も引きずっていないその快活な声に、俺の閉ざされた世界がパッと色づく。
その声が俺の鼓膜に届いた、まさにその瞬間だった。
胸の奥底でじっと息を潜めていた微小な魔力が、まるで彼女の声に、その存在に呼応するかのように、微かに、そして激しく揺れ動いた。
それは、俺の意思によるコントロールを超えた現象だった。まるで、俺の魂が彼女の声を感知し、自発的に「俺はここにいる」と歓喜の声を上げているかのような、あるいは彼女という光に向かって、引き寄せられるように波打っているかのような感覚。共鳴するみたいに、俺の体内の魔力は、彼女の声の振動に合わせて心地よいリズムを刻んでいた。
その不思議な感覚の中で、俺は静かに、しかし絶対的な確信を持って理解した。
これが。この瞬間こそが、俺の新しい物語の、真の始まりなのだと。
言葉も話せず、自ら動くこともできず、ただ与えられるだけの存在として、赤子として生きていた時間は、もう終わる。ただ受け取るだけで、自らは何も生み出せなかった、あの長く、もどかしい猶予期間は、今この瞬間を境に幕を閉じたのだ。
ここから先は、俺が歩みを進める番だ。
例えその一歩が、大人の目から見れば、ほんの数センチメートルの、頼りない赤ん坊の這い進みでしかなかったとしても。どれほど時間がかかろうとも、俺は俺の意志で、この力を育て上げ、俺が誰かにもらったものを返していく。少しずつ、一歩ずつ、確実に。
順に包む空気の密度が、劇的に変わったのを感じた。
ただ生かされているだけだった、どこか夢見心地だったこの二度目の人生が。
今、初めて、本当に、俺の意志を乗せて動き始めた気がした。




