Ep67. 初めて“嫌だ”と言いたくて
拒絶という行為は、本来きわめて簡単で、かつ明快なものであるはずだった。少なくとも、前世の俺にとってはそうだった。
無駄なものを削ぎ落とし、効率と合理性だけで構築されていたかつての人生において、他者を、あるいは他者の感情を拒むことに何の躊躇も要らなかった。「いらない」「必要ない」「帰れ」。ただその一言を、何のリスク管理も必要としない事務作業のように淡々と告げれば、それで全ては事足りたのだ。湧き上がろうとするわずかな感傷など、発生した瞬間に頭脳の片隅で切り捨てればいい。相手との関係性をその場で断ち切り、踏み込ませないための強固な距離を作る。それこそが最も合理的で、最も効率的で、結果として誰も傷つかない最善の選択肢なのだと、当時の俺は本気で信じ込んでいた。……いや、違ったのだろう。今にして思えば、そんなものはただの傲慢な現実逃避に過ぎなかった。傷ついていなかったわけがないのだ。俺に冷徹に突き放された相手も、そして、そうやって世界から孤立していくことを選んだ俺自身も、心のどこかで確実に血を流していたはずだった。ただ、その頃の俺は、あまりにも未熟で、あまりにも冷酷だったために、その痛みを理解しようとさえしなかったのだ。感情を動かすこと自体が、人生における最大の損失であるかのように思い込んでいた。
だが、生まれ変わって手に入れたこの新しい生において、その鉄の規則は呆気なく崩れ去ることになる。
「今日ね、そのお兄ちゃんも来るかも!」
始まりは、オリヴィアが何気なく口にした、本当に他愛のないその一言だった。窓から差し込むうららかな陽光の中で、彼女はいつも通りの優しい微笑みを浮かべながらそう言った。その瞬間、俺の小さな胸の奥が、どくりと嫌な音を立てて激しく脈打った。心臓を冷たい手で直に掴まれたかのような、そんな強烈な違和感。
(――嫌だ)
それは思考による判断ではなかった。ほとんど生存本能に近い、反射的な拒絶。脳が状況を分析して答えを導き出すよりも早く、この未熟で小さな身体そのものが、明確な拒絶反応を示していた。嫌だ。来るな。頼むから邪魔をしないでくれ。俺とオリヴィアだけの、この穏やかで満ち足りた時間に、他人を、知らない誰かを介入させないでくれ。
頭のどこかで、前世の冷徹な俺が冷ややかに嘲笑う声が聞こえた気がした。なんてひどく幼稚で、独善的で、身勝手な感情だろう。あまりの醜悪さに、自分自身で眩暈がするほどだった。……終わっている。本当に、今の俺は一体どこまで落ちてしまったのだろう。前世であれほど嫌悪し、排除してきたはずの泥臭い人間らしさが、今や俺の心を完全に支配している。かつての俺なら、こんな醜い嫉妬や独占欲、そして露骨な拒絶反応など、強靭な理性という名の足の裏で粉々に押し潰していただろう。下らないバグの一種だと断じて、システムから永久に切り捨てていたはずだ。だが、今の俺には、どうしてもそれができなかった。どれほど論理的に自分を説得しようとしても、嫌なものは、どうしても嫌だったのだ。
「ルーク?」
突然黙り込んだ俺の顔を、オリヴィアが不思議そうに覗き込んできた。その澄んだ瞳に困惑の色が浮かんでいるのを見て、俺はまたしても自分が失態を犯したことに気づく。どうやら、心の中の激しい動揺がそのまま顔に出てしまっていたらしい。感情制御が甘すぎる。元一流の人間として、これほど不覚なことがあろうか。早くいつも通りの無表情を作らなければ、そう焦れば焦るほど、身体は俺の統制を離れていく。
だが、その時だった。俺の意志に反して、小さな口が勝手に、むずがゆそうに動き始めた。
「……や」
それは、酷く掠れた、消え入りそうな声だった。まだ発声器官も十分に発達していない、赤ん坊の、未完成で拙い発音。だが、それは確かに、明確な空気の振動となって部屋の中に響き渡った。
オリヴィアが、弾かれたように丸い目をさらに大きく見開く。「え?」と、驚きに満ちた声が彼女の唇から漏れる。
驚いていたのは、他ならぬ俺自身も同じだった。今のは、単なる幼児の喃語のような偶然の産物ではない。明確な、強烈な拒絶の意思が、俺の喉を震わせて生み出した本物の言葉だった。
(嫌だ。来てほしくない)
その強い拒絶の念が、生まれて初めて、世界に向けて「言葉」という形になりかけたのだ。もしこれが前世の俺であれば、もっと鋭利な、もっと正確で洗練された言葉を選び、容赦なく相手を傷つける形で吐き捨てていただろう。刃物のように冷たく、一切の反論を許さない完璧な拒絶。だが、いま俺の口から零れ落ちたそれは、それとは全く異なるものだった。あまりにも不器用で、幼くて、みっともなくて、ただ、どこまでも自分の感情に正直なだけの、剥き出しの叫びだった。
「……もしかして」
オリヴィアが、探るように、だけどどこか愛おしむような眼差しで、じっと俺の顔を見つめてくる。逃げ出したいほどの沈黙が部屋を満たす。やがて、彼女の端正な顔立ちが、困ったように、そして少しだけ悪戯っぽく、ふわりと和らいだ。
「ルーク、やきもち?」
その言葉が鼓膜に触れた瞬間、全身の血が逆流するような猛烈な熱さが、一気に顔へと駆け上がっていくのが分かった。違う、そんな俗っぽい、子供じみた感情ではない、俺はただ合理的に時間を――そう必死に脳内で弁明を試みる。……いや、違わない。違わないのだ。完全に、彼女の言う通りだった。何の言い訳も通用しない、否定不能な、圧倒的な事実。前世のプライドも知性も形無しだ。本当に、俺という人間は終わっている。
言葉にできない感情の爆発に耐えかねて、俺は気がつけば、オリヴィアの衣服の裾を小さな手で力任せに強く掴んでいた。自分の顔の赤さを誤魔化すように、だけど、全く誤魔化しきれていないことを自覚しながら、必死に彼女の胸元に顔を押し付ける。
「ふふ」
頭上から、鈴を転がすようなオリヴィアの優しい笑い声が聞こえた。だが、その笑い方は、俺の醜態をからかったり、馬鹿にしたりするようなものでは決してなかった。むしろ、宝物でも見つけたかのように、心の底から嬉しそうな響きを孕んでいた。
「じゃあ今日は、ルークとふたりでいるね」
その慈愛に満ちた言葉が耳に届いた瞬間、あれほど俺の胸の奥で激しく暴れ回っていたどす黒いざわつきが、まるで嘘のように、一瞬で凪いでいくのが分かった。……単純すぎる。我ながら呆れるほど、この身体と心は彼女の言葉一つで簡単にコントロールされてしまう。かつての自分が今の俺を見たら、間違いなく軽蔑の眼差しを向けるだろう。
だけど、それでも――俺は、猛烈に安心していた。張り詰めていた緊張が解け、心の底から満たされていくのを感じていた。
オリヴィアの温もりを感じながら、俺は静かに、ひとつの真理を理解し始めていた。
他者に対して“嫌だ”と口にすることは、かつての俺が思っていたような、ただ関係を断ち切り、相手を拒絶するための冷たい道具ではないのかもしれない。それは、自分の中に生じた本当の、誤魔化しようのない大切な気持ちを、傷つくことを恐れずに誰かに伝えるための、そして、その相手とより深く繋がるための、何よりも温かい、大事な言葉なのだ。前世の俺が捨て去った泥臭い感情の全てが、今、この優しい世界で、新しく意味を持ち始めようとしていた。




