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Ep65. 初めての嫉妬

嫉妬は、愚かな感情だ。

前世の俺は、吐き捨てるようにそう断じていた。


他人を羨み、自分が持っていないものを数えては夜も眠れなくなる。他人に何かを奪われることを恐れ、まだ起きてもいない未来に怯えて猜疑心を募らせる。そうして、己のコントロール下にあるべき感情を無様に乱していく。

実に非合理的で、生産性の欠片もない時間の無駄だと考えていた。


欲しいものがあるなら、手段を選ばず奪い取ればいい。

実力が足りないというなら、血を吐くまで己を磨き上げればいい。

それで全て済む話だ。解決策は常にシンプルであり、感情に溺れて立ち止まる暇があるなら、一歩でも前に進むための行動を起こすべきだ。それが前世の俺が信奉し、実践してきた絶対のルールだった。


……だが。

そんな傲慢な鉄則が、いかに脆く、いかに狭い世界だけで通用していたものだったかを、今の俺は思い知らされている。


「ルーク、聞いて聞いて! 今日はね!」


弾んだ声が、静かな部屋に響く。

目の前で嬉しそうに身を乗り出しているのは、オリヴィアだ。

彼女はいつものように、ひまわりが咲いたような眩しい笑顔を俺に向けている。いつもの心地よい、鈴を転がすような愛らしい声。その存在そのものが、この退屈で窮屈な世界において、俺の唯一の安らぎだった。


だが、彼女が満面の笑みで告げた次の言葉を聞いた瞬間、俺の思考は完全に凍りついた。


「隣のお兄ちゃんがね、すっごく可愛いお花の冠を作ってくれたの!」


頭の上に、不器用ながらも色とりどりの野花で編まれた冠を載せ、オリヴィアは誇らしげに胸を張る。

その言葉が鼓膜を震わせた瞬間、胸の奥深く、目に見えない領域が妙にざらついた。


(……何だ、これは?)


不意に襲ってきたその感覚に、俺は眉をひそめる。

喉の奥が急に狭まり、呼吸が詰まるような感覚。心臓の内側を、尖った爪でじりじりと引っかかれたような、嫌な痛みがじわじわと広がっていく。

不快だ。明確に、かつて経験したことのないレベルで不快だった。


「そのお兄ちゃんね、手がすごく器用で、あっという間に作っちゃったんだよ! 私、お花の冠をもらうの初めてだから、本当に嬉しくって!」


オリヴィアは俺の内心の動揺など露知らず、なおも楽しそうに話を続ける。

彼女のその純粋な笑顔が、今の俺にはどうしようもなく……気に入らない。


思考が強制停止する。

なぜだ。意味がわからない。


合理的に考えろ、と前世の俺が脳内で冷徹に囁く。

オリヴィアが誰と何をしようが、基本的には俺の関知するところではないはずだ。ただの近所付き合い、子供同士の無邪気な交流。そこに何の問題がある? 彼女の交友関係が広がることは、この世界で生きていく上での社会的リスクを軽減することにも繋がる。歓迎すべき事態であっても、不快感を覚える理由などどこにもない。


それなのに、胸のざらつきは消えるどころか、ますます黒く澱みながら広がっていく。


   ◇ ◇ ◇

「ルーク……? どうしたの?」


突然黙り込んだ俺を不審に思ったのだろう。オリヴィアが小首を傾げ、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。

その瞬間、俺の身体は脳の命令を無視して、無意識に彼女から顔を背けていた。


自分自身の行動に、俺は激しい衝撃を受ける。

これは明確な拒絶反応だ。それも、理性が介在する余地のない、本能的な拒絶。


「え……?」


拒まれたオリヴィアの声が、小さくショックに揺れた。

その微かな震えを耳が拾った瞬間、今度は胸がちくりと刺すように痛んだ。


違う。俺は彼女を傷つけたいわけじゃない。彼女に拒絶を示して、悲しませたいわけでもない。

じゃあ、俺は何に憤っている? 何がそんなに不快なんだ?


必死に己の精神をスキャンし、この異常なエラーの原因を分析しようと試みる。

前世で培った冷徹な観察眼を、初めて自分自身の醜い感情に向けて突き立てる。


オリヴィアが、俺の知らない場所で、俺の知らない時間を、他の誰かと分かち合っていた。

彼女を笑顔にしたのが、俺ではなく、見ず知らずの「隣のお兄ちゃん」だった。

その厳然たる事実が、どうしようもなく……俺のプライドと、独占欲を逆撫でしている。


(……終わっているな、俺は)


心の中で、自嘲気味に呟く。

本当に、ここまで堕ちたか。


前世の俺なら、こんな男を見れば鼻で笑い、軽蔑していただろう。

幼稚。狭量。非合理的の極み。

他人の行動を縛る権利など誰にもないというのに、ただ自分が特別でありたいがために、相手の自由な時間を妬むなど、愚者のすることだ。


だが、いくら言葉で、理屈で、理論で理解したところで、この胸を焦がすような感情は一向に消えてくれない。むしろ、分析すればするほど、その輪郭がはっきりと浮き彫りになっていく。


これは――嫉妬だ。


   ◇ ◇ ◇

「ルーク、どこか痛いの? 体調が悪いの?」


なおも顔を背け続ける俺の袖を、今度はオリヴィアがそっと引っ張った。彼女の声には、純粋な心配と、俺を気遣う優しさが満ち溢れている。

その声を耳にした瞬間、不思議なことに、胸の奥を焦がしていたざらつきが、ほんの少しだけ和らぐのを感じた。


彼女の視線が、しっかりと俺を捉えている。

彼女の意識が、あの「隣のお兄ちゃん」から離れ、今は完全に俺だけに向いている。

その事実を確認できただけで、泥のように濁っていた心が、安直なまでに静まっていく。


……情けない。本当に情けない。

こんな些細なことで一喜一憂し、安心を得るなど、かつての俺が見れば全否定するだろう。


だが、もう否定することはできなかった。

認めざるを得ない。俺は、オリヴィアにとっての“特別”でありたいのだ。彼女の世界の、中心にいたいのだ。

だからこそ、他の誰かが彼女の笑顔を引き出したという事実に、これほどまでに胸が激しくざわついてしまう。


これが嫉妬。

愚かで、非合理で、コントロール不能な、どうしようもなく人間らしい感情。


俺は言葉にならない感情を飲み込みながら、ぎこちなく手を伸ばした。

そして、オリヴィアの服の裾を、指先に力を込めてぎゅっと掴む。


(どこにも行くな)

(他の奴を見るな)

(俺だけを見ていろ)


そんな、口にすればあまりにも子供じみた、幼稚な主張を込めるように。


「……ふふ」


すると、オリヴィアの口元から、緊張の解けた小さく優しい笑みが出た。

彼女は俺の行動をどう解釈したのか、慈しむような目で俺を見つめ、その小さな手で俺の頭を優しく撫でる。


「なーんだ。ルーク、もしかして甘えたかったの?」


違う、と反論しようとして、言葉が喉に詰まった。

……いや、完全に否定することはできない。俺は彼女の関心を惹きたくて、こんな無様な真似をしているのだから。


その厳然たる事実に気づいてしまい、俺は己の器の小ささに静かに絶望する。

前世の全知全能感はどこへ行った。今の俺は、ただの一人の少女の態度に一喜一憂する、ただの無力な子供だ。


しかし、絶望と同時に、俺は一つの真理を理解し始めていた。


嫉妬とは、ただの醜い独占欲ではないのかもしれない。

己の理性を狂わせ、計算を狂わせ、それでもなお失いたくないと願う。

それは、自分が誰かを心の底から「大切だ」と思ってしまったことの、何よりの裏返しの証明なのだ。


俺は掴んだ彼女の裾を離さないまま、小さくため息を突き、その心地よい温もりに身を委ねることにした。

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