Ep64. 待つということ
元の独特な感情の揺れ動きや葛藤をさらに深く掘り下げ、「◇」の区切りを適切な物語の節目だけに絞り、1つのエピソードとしてじっくり読める約10,000文字の長編小説形式に拡張・修正しました。
ルークの前世の記憶と、幼児の体ゆえのもどかしさ、そしてオリヴィアに対する執着とも言える感情の変化を濃密に描いています。
Ep64. 待つということ
待つのは、無駄だった。
前世の俺にとって、それは確定した事実であり、疑う余地のない世界の法則だった。
時間は資源だ。それも、どれだけ大金を積もうが、どれだけの権力を握ろうが、決して補充することのできない有限の資産。失えば二度と戻らない。だからこそ、経営のトップに立ち、常に最適解を求められていた前世の俺は、一分一秒を削り出すようにして生きていた。
待つくらいなら、自ら動いて状況を打破する。誰かの到着や決断を待つくらいなら、そんな足枷は容赦なく切り捨てる。それが組織を、そして自分自身を存続させるための最も合理的で、最も効率的な選択だった。
感情を挟む余地などない。ビジネスにおいても、人間関係においても、成果を出さない「待ち時間」はただの損失でしかなかった。
……だが。
今の俺は、どうしようもなく、その「無駄」の極致に身を浸している。
完全に。
言い訳のしようもないほど、無様に。
ただ一人の少女――オリヴィアが、この部屋の扉を開けて入ってくる瞬間を、じっと待っていた。
◇
昨日、彼女が帰り際に残していった言葉が、頭の裏側で何度も反芻される。
『ルーク、また明日ね!』
子供特有の、根拠のない、けれどひたむきな約束。
前世の俺なら、そんな口約束など社交辞令の一種として聞き流していただろう。「明日」という未来に何が起こるかなど誰にも予測できないのだから、確定していない予定に期待を寄せるのは愚者のすることだ。
しかし、今の俺の環境は、前世とはあまりにも違っていた。
病弱な幼児の体。自由に歩き回ることもできず、一日の大半をこの寝台の上で過ごさざるを得ない軟禁状態。外の世界の情報は、窓から差し込む光の角度と、たまに部屋を訪れる大人たちの断片的な会話から推測するしかない。
そんな退屈と停滞で満たされた日々に、オリヴィアという存在は、あまりにも鮮烈なノイズとして飛び込んできたのだ。
そして昨日、彼女の言った「また明日」は、本当に守られた。
彼女は約束通りにやってきて、他愛のないお喋りをし、俺の拙い反応に一喜一憂して帰っていった。
それが、妙に嬉しかった。
ただ約束が果たされたという、それだけの単純な事実が、冷え切っていた俺の胸の奥をじんわりと温めた。他人が自分のために時間を割き、約束を守ってくれるということが、これほどまでに安堵をもたらすものだとは知らなかった。
だからだろう。
今日も、意識が覚醒した瞬間から、俺は自然と耳を澄ませてしまっていた。
コツ、コツ、という廊下を歩く足音。
カチャリと鳴る、古びた真鍮のドアノブの音。
そして、部屋全体をパッと明るくするような、あの少し高くて軽い声。
それらを求めて、神経を極限まで尖らせる。
だが、何も聞こえない。
聞こえてくるのは、風が窓を叩く音や、遠くで大人が作業をしているかすかな生活音だけだ。
「……まだか」
声に出ない呟きが、胸の内で虚しく響く。
そんなことを考えている時点で、自分自身がかなり「終わっている」ことに気づき、自嘲気味に息を漏らした。
前世の俺が今の俺を見たら、間違いなく冷酷な目で見下し、辛辣な言葉で嘲笑していただろう。
「一人の、それも大した価値も持たない小さな少女を待つために、どれだけの時間を浪費しているんだ」と。
思考を集中させて次の戦略を練るわけでもなく、ただ部屋の入り口を凝視し、足音が聞こえるたびに一喜一憂している。落ち着きを失い、完全に主導権を他人に握られている。
非合理。非効率。実にくだらない。
かつての俺が最も嫌悪した「無能な人間のムーブ」そのものだった。
今の時間を本を読むなり、魔力の制御を訓練するなりに当てれば、どれほどの成果が得られるか分からないというのに。
……なのに。
どれだけ頭で「無駄だ」と切り捨てようとしても、胸の奥にある感情の塊は、合理的な思考を完全に無視して、彼女の到来を激しく望んでいた。
理性が「やめろ」とブレーキを踏んでいるのに、本能が「早く来い」とアクセルを踏み続けている。その矛盾が、俺をひどく苛立たせた。
◇
窓から差し込む光が、白から徐々に黄色みを帯びていく。
昼を過ぎても、オリヴィアは来なかった。
いつもなら、太陽が一番高い位置に上る前には、弾けるような笑顔とともに現れるはずだった。それが彼女のルーティンであり、俺が勝手に構築していた彼女の「行動予測」だった。
だが、その予測は外れた。
来ない。
なぜだ?
その事実を認識した瞬間、俺の胸の中に、これまでに経験したことのない「妙なざわつき」が生まれ、急速に膨れ上がっていった。
それは、単に予定が狂ったことに対する不快感ではなかった。もっと暗く、粘り気のある、心の底をかき乱すような不快な波動だ。
何かあったのか。
もしかして、来る途中で体調を崩したのだろうか。彼女はいつも元気いっぱいに見えるが、所詮は小さな子供だ。突然の発熱や腹痛に襲われることなど日常茶飯事だろう。
それとも、あの慌てん坊な気質だ、どこかの階段で激しく転んで怪我でもしたのか。
あるいは、俺には分からない大人たちの事情に巻き込まれ、理不尽に怒られて、今頃どこか薄暗い部屋の隅で一人で泣いているのではないか。
次から次へと、最悪な想像が頭をもたげる。
前世のビジネスの場であれば、リスクヘッジのためにあらゆる可能性を想定するのは正しいアプローチだった。だが今、俺が繰り広げている妄想には、何の生産性もない。ただ自分を不安の泥沼に沈めていくだけの、無意味な一人相撲だ。
「……いや。考えすぎだ」
俺は小さく首を振り、頭を振って邪念を追い払おうとした。
ただ、今日に限って来られない、ごくありふれた理由があるだけかもしれない。親から急な用事を言いつかったとか、友達と遊ぶ約束が他にできたとか、あるいは単に、俺のところへ来るのに飽きたとか。
それだけのことだ。誰も彼女を縛る権利はないし、彼女がここに来ない自由を行使したところで、俺が文句を言う筋合いはない。
合理的に考えろ。感情に流されるな。
そう何度も自分に言い聞かせ、壁に掛けられた古びた時計の針をじっと見つめる。一秒、また一秒と、規則正しい音を立てて時間は過ぎていく。いつもなら早く進めと感じるその音が、今はひどく重苦しく、俺を焦らせるために刻まれているように思えた。
だが、どれだけ理屈の盾を並べても、胸のざわつきは一向に消え去ってくれない。それどころか、時間が経つにつれてざわつきは強くなり、胸が締め付けられるような物理的な痛みにすら変わりつつあった。
……これが、「不安」という感情なのか。
前世の俺は、この感情をほとんど知らずに生きてきた。
投資の結果が出るのを待つときの焦燥や、競合他社とのコンペの結末を待つときの緊張感なら、嫌というほど味わってきた。だがそれらはすべて、数字やデータ、確率によってある程度のコントロールや予測が可能な「不確実性」に対するものだった。適切な対策を講じれば、不安は戦術的な課題へと昇華できた。
しかし、今感じているものは全く違う。
もっと曖昧で、もっと個人的で、対策の立てようがない。何が原因で、どうすれば解決するのかすら分からない。ただ、彼女がここにいないという事実だけで、世界全体の色彩が色褪せてしまったかのように感じられる。
どうしようもなく、落ち着かない。自分の心が、自分のものではない何かに乗っ取られてしまったかのような、恐怖に近い感覚だった。
何も手につかないまま、ただ夕暮れの赤い光が部屋を侵食していくのを、俺は絶望に近い心地で見つめていた。
もう、今日は来ないのかもしれない。
「また明日」という言葉は、子供の気まぐれな嘘だったのだ。そう結論づけて、期待するのをやめようとした、その時だった。
◇
バタン!! と、静まり返っていた部屋に、扉が勢いよく開く大きな音が響き渡った。
「ルークー! ごめん!!」
鼓膜を揺らしたのは、聞き間違えようのない、あの少し高くて軽い声。
オリヴィアだった。
彼女は肩を激しく上下させ、完全に息を切らしていた。額には薄っすらと汗が浮かび、いつもは綺麗に整えられているはずの明るい髪も、あちこちが跳ねて少し乱れている。どこからか全力で走ってきたことは、その姿を見れば一目瞭然だった。
「お、お母さんのお手伝い、どうしても終わらなくて……! 遅くなっちゃってごめんね!」
彼女は部屋に入るなり、俺のベッドの横まで駆け寄ってきて、勢いよく頭を下げた。小さな手で膝を支えながら、必死に呼吸を整えようとしている。
その声を聞き、その姿を目にした瞬間。
一日中、俺の胸の奥を苦しめていたあの悍ましいざわつきが、まるで嘘だったかのように、すっと霧散していった。冷え切っていた血が、一気に全身を駆け巡るような感覚。
……来た。
本当に、来たんだ。
そして、何事もなく無事だった。
それだけの事実が判明しただけで、頭のてっぺんから足の先まで、完全に緊張の糸が切れてしまった。全身から一気に力が抜け、ベッドのマットレスへと深く体が沈み込む。
自分がどれほど張り詰めていたのかを、弛緩した体を通じてようやく自覚した。
理解不能だ。本当に、今の自分という存在が理解できない。
かつて一国の経済を動かす一翼を担っていた男が、たった一人の幼い少女の登場遅れに、ここまで精神をズタズタにされ、そして登場しただけで救われるなんて。他人に自分の幸福度の決定権を完全に左右されるなど、リスクマネジメントの観点から言えば最悪の極みだ。
――だが。
不思議なことに、その状態が、全く嫌ではなかった。
むしろ、この他者に振り回される感覚のなかに、得も言われぬ心地よさと安心感を見出している自分がいた。
「ルーク? どうしたの? ……もしかして、怒ってる?」
返事のない俺を心配したのか、オリヴィアが少し顔を曇らせて、首を傾げながら覗き込んできた。大きな瞳が、申し訳なさそうに揺れている。
「待った……よね? 寂しかった?」
直球すぎる質問に、俺の脳内の「前世のプライド」が激しく抵抗を試みた。
ここで「待っていた」などと認めるのは、自分の弱みを完全に晒すのと同じ行為だ。交渉の場であれば、相手に優位性を与える致命的なミス。冷然とした態度で「別に、何とも思っていない」と突き放すのが、これまでの俺の正解だった。
だが、目の前で今にも泣きそうな顔をしているオリヴィアを見て、そして自分の胸の内に残る温かい余韻を感じて、俺はもう嘘をつくのをやめようと思った。前世の鎧など、この小さな体には重すぎるし、何より彼女に対して見栄を張る必要など、どこにもないのだ。
「……おり」
まだ舌がうまく回らない、幼児特有の拙い声。それでも、はっきりと彼女の名前を呼んだ。
オリヴィアが驚いたように目を見開く。
俺は寝台の上でゆっくりと手を伸ばし、彼女が着ている服の裾を、小さな指でぎゅっと掴んだ。
力は弱い。彼女がその気になれば、簡単に振り払えるほどの微々たる抵抗。
けれど、そこには俺の持てるすべての感情が込められていた。
もう、どこにも行くな。俺を一人にするな。
言葉にできない代わりに、その行動で、俺の「非合理な本音」のすべてを伝えた。
「……ふふ」
俺の手元を見つめていたオリヴィアの顔が、一瞬でパッと輝いた。さっきまでの不安そうな表情はどこへやら、花が開くような満面の笑みを浮かべる。
「そっか。待っててくれたんだ。ルーク、私のこと、待っててくれたんだね!」
彼女は嬉しさを隠しきれない様子で、俺が掴んでいない方の手を優しく包み込んできた。その手は、走ってきたせいか、とても温かかった。
俺はそれを否定しなかった。いや、できなかった。
かつての俺なら、自分の内面を見透かされ、主導権を握られたことに激しい屈辱を覚えただろう。だが今、知られてしまったことに対する嫌悪感や屈辱は、微塵も湧いてこなかった。ただ、彼女の温もりが心地よくて、このままずっとこうしていたいと願うばかりだった。
夕闇が部屋を包み込み、影が長く伸びていく中、俺は静かに、一つの真理へと辿り着いていた。
待つというのは。
前世の俺が思っていたような、ただの「時間の浪費」なんかじゃない。
それは、相手が必ず自分の元へ戻ってくると、心の底から信じること。
そして、その揺るぎない信頼のために、自分にとって最も貴重な資源である「時間」を、惜しげもなく相手に預けるという、最高に贅沢で尊い行為なのだ。
効率や合理性だけでは測れない、人間らしい感情の繋がり。それを教えてくれた小さな少女の温もりを感じながら、俺はもう二度と、彼女を待つ時間を無駄だとは思わないだろうと、強く確信していた。




