Ep63. 初めての約束
約束という言葉が、昔から嫌いだった。
いや、正確に言うならば――前世の俺にとって、それは忌むべき忌避対象でしかなかったのだ。
前世における約束とは、何一つとして利益を生み出さない、ただの「守るべき義務」に過ぎなかった。破れば他者から失望され、自分の評価を不当に下げることになる厄介な枷。あるいは、他人の行動を制限し、都合よくコントロールするために張り巡らされた、見えない鎖のようなもの。
だからこそ、俺は人生において、必要最低限の約束しか交わさなかった。
誰かと予定を合わせる時も、言葉の端々を曖昧に濁し、必ず直前で方向転換ができるような逃げ道を残しておく。他人が自分に踏み込ませないよう、そして自分も他人に深く関わらないよう、いつでも関係を切り捨てられるだけの冷徹な距離を保ち続ける。
それが、過酷な競争社会を生き抜くための、最も効率的で合理的な生存戦略だった。
……だが。
「ルーク、また明日ね!」
夕暮れ時の淡い茜色の光が差し込む部屋の中で、オリヴィアが満面の笑みを浮かべて手を振っていた。
それは、彼女がこの部屋を去る際、いつも口にする決まり文句だった。何の変哲もない、子供同士の、あるいは親しい者同士が別れ際に交わす、ありふれた挨拶。
それなのに、どうしてだろうか。
今日のその言葉は、まるで心臓の奥深くに直接突き刺さったかのように、妙に生々しく胸の残響となって響き続けていた。
「また明日」
たったの四文字だ。前世の俺なら、意識に留めることすらなく聞き流していたであろう、中身のない社交辞令。
だが、今の俺には、その言葉の裏にある重量が理解できてしまう。
その四文字の中には、彼女が明日もこの場所へと足を運ぶという明確な「意思」が含まれている。明日という未来に、俺の元へと会いに来るという確固たる「予定」が組み込まれている。
つまり、それは――形を持たない、世界で最も小さな、けれど純粋な約束だった。
その事実に思い至った瞬間、胸の奥底が、じわりと不快ではない熱を帯び始めた。
……理解不能だ。思考回路が、自分の感情を正しく処理しきれていない。
前世の俺であれば、こんな不確定要素の塊のような言葉に、一片の価値も見出さなかったはずだ。
明日、世界が崩壊するかもしれない。彼女の気が変わるかもしれない。途中で気が変わって、別の魅力的な遊びを見つけるかもしれない。そもそも、明日という未来が誰にとっても平等に保証されているわけではないのだから、来る保証などどこにもない。ただの、その場限りの口約束かもしれない。
そうやって冷酷に分析し、一瞬で思考のゴミ箱へと切り捨てていたはずだった。
だが、今の俺は。
情けないことに、その不確かなはずの明日を、じっと息を潜めて待っている。
本当に、自分でも呆れるくらいに、どうしようもないほど、彼女の言葉を信じようとしていた。
その夜、俺は一睡もすることができなかった。
眠れない理由など、恐ろしいほどに単純明快だった。脳が、強制的に彼女のことばかりを思考の演算回路に組み込んでしまうからだ。
明日。
オリヴィアは、この扉を開けて入ってきたとき、最初に何を話してくれるのだろうか。
彼女は、どんな風に瞳を細めて、どんな顔をして笑うのだろうか。
今日は庭に咲いていた花を持ってきたが、明日はまた、何か新しい珍しいものでも持ってきてくれるのだろうか。
気がつけば、そんな生産性の欠片もないことばかりを、暗闇の中で延々と反芻していた。
……終わっている。客観的に見て、今の俺の精神状態は完全に破綻していると言わざるを得なかった。
ここまで他人に自分の思考リソースを占有されるなど、前世の俺からすれば、文字通りの異常事態であり、あってはならない危機的状況だ。精神の主導権を他者に握られているも同然なのだから。
だが。
不思議と、その状態が不快ではなかった。
むしろ、毛布に包まれているような、奇妙な安心感さえ覚えていたのだ。
明日がある。
明日になれば、彼女が来る。その彼女を待つための、正当な理由が今の俺にはある。
ただそれだけの事実が、暗闇の先にある未来に、少しだけ確かな輪郭を与えてくれるような気がした。
前世における未来とは、常に過去の成果の延長線上でしかなかった。
積み上げた研究。書き上げた論文。他者からの客観的な評価。グラフに示される冷たい数字。それらをただひたすらに積み重ねていくだけの、乾いた荒野のような一本道。
だが、今は違う。
数字や成果ではない、“誰かに会うための明日”。
それが、これほどまでに人間の心を温かく満たすものだとは、生まれて初めて知った。
そして、待ち望んだ翌日。
朝の光が窓から差し込んだ瞬間から、俺は妙に落ち着きを失っていた。
赤ん坊の身体には時計などないため、正確な時間感覚は曖昧だ。太陽の位置や、部屋を訪れる乳母の動きから時間を推測するしかない。
まだか。
まだ来ないのか。
陽の光はもう随分と高くなっているはずなのに、どうして彼女の足音が聞こえないのか。
ベッドの上で小さな寝返りを繰り返しながら、そんなことばかりを考えている。
……実に情けない。前世の自分がこの姿を見たら、きっと冷笑を浮かべて罵倒していただろう。ここまで不確定な他人の行動に期待し、一喜一憂するなど、非合理の極みであり時間の無駄だと。
そうやって自分を冷ややかに自嘲し、高鳴る鼓動を抑え込もうとしていた、その時だった。
カチャリ、と静かに扉の鍵が外れる音が室内に響いた。
勢いよく、けれどどこか遠慮がちに、木製の重厚な扉が開け放たれる。
「ルーク! 来たよ!」
鈴を転がしたような、聞き慣れたその声。
その瞬間、俺の胸の奥に澱んでいた焦燥感が、ぱっと霧散するように明るく弾けた。
来た。
本当に、来てくれた。
何の義務もないはずなのに、ただの挨拶だったかもしれない昨日の言葉通りに、彼女はちゃんとここに立っている。
その厳然たる事実が、どうしようもないほどに嬉しかった。胸の奥から湧き上がる感情を、もう論理の盾で抑えつけることなどできはしなかった。
「……おり」
気づけば、まだろくに回りもしない小さな口を動かし、必死に声を絞り出していた。
声帯が未発達なため、それはまだ不完全極まりない発音だった。名前すらまともに呼べない、ただの幼児の消え入りそうな声。
それでも。
「わっ!」
オリヴィアは、その大きな瞳をひときわ大きく見開き、顔全体をパッと輝かせた。
彼女は小走りでベッドの傍らへと駆け寄ると、俺の小さな手をそっと包み込むように握りしめる。
「ルーク、今、私の名前を呼ぼうとしてくれたの? ……もしかして、ちゃんと待っててくれた?」
弾んだ声で問いかけられる。
……待っていた。ああ、認めよう。もはや否定する余地など、どこにも残されていなかった。
そして、そのみっともないほどに他人に依存した事実を彼女に知られてしまっても、以前のように「弱みを握られた」というような嫌悪感や恐怖は、微塵も湧いてこなかった。
俺は胸の内で、静かに、そして深く理解する。
約束とは、決して人を縛り付けるための冷たい鎖などではない。
それは、明日の見えない不確かな世界の中で、孤独に凍えそうになったとき――「また会える」という未来を信じるために、お互いの心に灯し合う、小さな温かい灯りなのかもしれなかった。




