Ep61. 初めての言葉
言葉は、武器だった。
少なくとも、前世の俺にとっては。
それは人を操るための道具であり、敵を冷酷に突き崩すための刃だった。
甘い言葉で誘惑し、論理の糸で縛り付け、都合よく説得する。都合が悪くなれば、言葉一つで支配し、用済みになれば無慈悲に切り捨てる。
俺にとって「語る」という行為のすべては、自らの利益のため、そして生き残るための冷徹な手段に過ぎなかった。そこに感情の介在する余地など一滴もなかったし、それでいいと思って生きてきた。
だからこそ、この異世界に転生し、言葉を失った赤子時代を過ごすことは、想像を絶する苦痛であり不便だった。
頭脳は、前世の記憶を完全に保持した大人のままだ。冷徹な思考も、緻密な計算も、すべて頭の中で完璧に機能している。
それなのに、それを表に出すための「武器」がない。
伝えたいことがあっても、未発達な声帯から出るのは「あー」とか「うー」とかいう、情けない意味のない音だけ。周囲の大人たちには意図を誤解され、こちらの要求は微塵も届かない。
ただの無力な肉塊として扱われるその感覚は、かつてあらゆる人間を言葉で支配してきた俺にとって、耐え難いほどの苛立ちと屈辱だった。
……だが。
最近、その頑なだった俺の考えが、少しずつ、本当に少しずつだが変わり始めていた。
言葉というものは。
本来、誰かを傷つけ、陥れ、支配するためだけのものじゃないのかもしれない、と。
不安に怯える誰かを、そっと安心させたり。
落ち込んでいる誰かを、他愛のない冗談で笑わせたり。
そして――「また明日」という、明日が来るのが楽しみになるような、優しい約束を交わしたり。
前世の俺であれば、「くだらない弱者の慰め合いだ」と鼻で笑い、五秒で切り捨てていたであろう、そんな当たり前のこと。
その当たり前の温かさを、今さらになって理解し始めている、情けない自分がそこにいた。
◇ ◇ ◇
「ルークー! 入るよー!」
元気いっぱいの声とともに、部屋の扉が勢いよく開く。
やってきたのは、オリヴィアだ。
ここ最近の彼女は、まるでそれが義務であるかのように、毎日欠かさず俺のところへやってくる。いや、義務などという堅苦しいものではない。ただ単純に、俺に会いたいから来ているのだということが、その全身から溢れ出る輝くような笑顔から伝わってくる。
そして恐ろしいことに、俺の方も、彼女がやってくる時間を無意識のうちに待ち侘びるようになっていた。
扉が開く足音が聞こえるだけで、退屈だった視界がほんの少し明るくなるような、そんな錯覚すら覚える。
……終わっている。本当に。
かつて裏社会や政治の権謀術数の渦中で、冷酷無比に人を切り捨ててきたこの俺が、ただの幼女の襲来を心待ちにしているなど、何の冗談だ。前世の仲間が見たら、間違いなく腹を抱えて大笑いするか、偽物だと疑って武器を抜くレベルの変わり果てようだった。
だが。
どうしても、嫌ではないのだ。
「ねえねえ、ルーク、聞いて聞いて!」
オリヴィアは俺のベッドの横にちょこんと腰掛け、いつものように身を乗り出して話しかけてくる。その瞳はキラキラと輝いていて、まるで見つけたばかりの宝物を自慢する子供そのものだ。
今日の彼女のマシンガントークの議題は、来る途中の道で遭遇した、近所の犬についてだった。
いわく、その犬の尻尾が驚くほどふわふわで綿菓子のようだったとか。
いわく、嬉しくなって触ろうとしたら急に吠えられて、びっくりして後ろに転びそうになったとか。
いわく、でもやっぱり可愛かったから、明日はおやつを持っていって仲良くなりたいとか。
……信じられないほど、どうでもいい話だった。
生産性など皆無。何の利益ももたらさないし、今後の世界情勢にも、俺の生存戦略にも、1ミリの役にも立たない雑音。
前世の俺なら、そんな話を切り出された時点で冷徹に話を遮り、席を立って二度とその人間と時間を共有することはなかっただろう。時間は有限であり、無駄な会話は命の切り売りと同じだと本気で思っていたからだ。
だが。今の俺は。
彼女が身振り手振りを交えて楽しそうに語る、その“どうでもいい話”を聞く時間が、決して嫌いじゃなかった。むしろ、心地よいとすら感じている。
彼女が紡ぐ中身のない言葉の数々が、俺の凝り固まった冷たい心を、ゆっくりと湯気のように溶かしていく感覚があった。
「それでね、そのワンちゃんがね、こうやってお耳をピコピコ動かして――」
オリヴィアが自分の頭の上に手を当てて、犬の耳の真似をしながら無邪気に笑う。
その満面の笑みをじっと見つめていた、その時だった。
ふと、胸の奥から、今までに抱いたことのない奇妙な衝動が湧き上がってきた。
――名前を呼びたい。
その瞬間、俺は自分自身に激しい衝撃を受け、驚愕した。
名前?
この俺が、誰かの名前を呼びたいだと?
前世において、人間の名前なんてものは、ただの識別記号に過ぎなかった。チェスの駒に書かれた『歩兵』や『騎士』といった記号と同じ。あるいは、効率よく命令を下すための、ただのコードネームだ。そこに情緒や愛着など、乗せる必要はどこにもなかった。
だが、今は違う。
彼女の「オリヴィア」という四文字の音の響きには、明らかな温度があった。
聞くだけで胸がじんわりと温かくなるような安心があり、他の有象無象とは一線を画す、絶対的な特別が宿っていた。
記号としてではなく。
一人の、俺にとって大切な存在として。
彼女の名前を、ちゃんと呼びたかった。
他人の手を借りるのではなく、自分のこの不確かな声で、彼女の鼓膜へ届けたかった。
「ルーク? どうしたの? お顔が真面目になっちゃって。お腹痛いの?」
急に黙り込んで自分を見つめてきた俺に対して、オリヴィアが不思議そうに首を傾げる。
俺は、決意を固めて口を動かした。
まだ完全にコントロールしきれない、未熟で柔らかすぎる舌。
脳の命令に対して、驚くほど鈍く、思うように動いてくれない唇と顎。
それでも、俺は前世で培ったあらゆる集中力を総動員し、喉の奥の震わせ方を必死に調整する。国家転覆の謀略を練る時よりも、はるかに真剣に、慎重に、身体の器官を操作した。
「……お」
小さく、掠れた音が、俺の唇の隙間から漏れ出た。
その瞬間、部屋の空気がピタリと止まった。
オリヴィアの他愛のないお喋りがピタリと止まり、その大きな丸い目が、さらに零れ落ちそうなくらい丸くなる。
俺は、さらに必死に口を動かす。
難しい。信じられないほどに難しい。
前世の俺なら、何千人もの聴衆を前にした大演説であっても、淀みなく、一言の狂いもなく、完璧な発音と声量で言葉を操ることができた。こんな単純な4文字の発音ごときで、苦労するはずがなかった。
なのに、今のこの小さな身体は、その一段階の音を出すことすら、まるで巨大な岩を押し上げるかのような重労働だった。
だが、諦めるわけにはいかない。
ここで止めれば、またいつもの「赤ん坊の呟き」として流されてしまう。
伝えたかった。この熱い衝動が消えてしまう前に、彼女に届けたかった。
「……り、び……」
空気の漏れるような、お世辞にも美しいとは言えない、不格好で掠れた音。
まともな発音ですらない、赤ん坊の拙い喃語の延長線上に聞こえたかもしれない。
だが、毎日俺のそばにいて、誰よりも俺の声(といっても、ただの泣き声や不満のうめき声だが)を聞いてきたオリヴィアは、その不完全な音に込められた意味を、一瞬で理解した。
「……え?」
オリヴィアの声が、小さく震えた。
彼女の時が止まる。今聞いた音が、自分の幻聴ではないかと思っているかのように、完全に硬直していた。
次の瞬間。
「い、今……!」
彼女の顔が、内側から光が放たれたかのように、ぱあっと弾けるような明るさで満たされた。
「ルーク、今、私の名前……! 私の名前、呼ぼうとしてくれたの!?」
嬉しそうだった。
本当に、世界のすべての幸福をその身に集めたのではないかと思えるほどに、どうしようもないくらい嬉しそうに、彼女は顔をくしゃくしゃにした。
その彼女の笑顔を見た瞬間。
俺の胸の奥が、これまでに経験したことのないほど、強く、激しく熱くなった。まるで冷え切っていた炉に、一気に極上の薪がくべられたかのように、熱い感情が全身の血を巡っていく。
……ああ。
これなのか。
これだったのか。
前世での俺は、言葉を使って多くの人間を動かしてきた。思い通りの反応を引き出し、利益を得るたびに、小さな達成感は味わっていた。だが、それは単に「機械が仕様書通りに動いた」というだけの、無機質な満足感に過ぎなかった。
こんな風に、自分の魂から湧き出た純粋な気持ちが、言葉という不確かな媒介を通じて、そのまま真っ直ぐに相手の心に届く。
そして、その届いた結果として、相手がこれ以上ないほどの笑顔を見せてくれる。
前世ではただの一度も知らなかった、いや、知ろうともしなかった感覚。
“伝わる”ということ。
ただそれだけのことで。
言葉に気持ちを乗せて届ける、ただそれだけのことで、これほどまでに世界が温かく、愛おしいものに変わるのだということを、俺は初めて知った。
「もう一回! ルーク、もう一回! もう一回言って!」
オリヴィアが興奮を抑えきれない様子で、ベッドに乗り出すようにして顔を近づけてくる。
視界のすべてが彼女の顔で埋まるほどに、近い。前世の俺なら「パーソナルスペースを侵すな」と不快感を露わにしていた距離だ。
でも、全く嫌じゃない。
むしろ、もっと近づいて、もっと俺の声を聞いてほしかった。
そして何より――俺の言葉で、彼女に、もっともっと笑ってほしいと思った。
かつて人を絶望させ、突き落とすために使っていた俺の言葉を。
この世界では、彼女の笑顔を守るために、彼女を喜ばせるために使いたい。
だから俺は、深く息を吸い込み、もう一度、全身の力を込めて口を動かした。
まだ不格好で、拙くて、頼りない音しか出せないけれど。
「……お、り……」
「っ……!」
オリヴィアは、今度こそ弾けたように、泣きそうなくらいの、それでいて最高の笑顔で笑った。嬉しさのあまり、瞳にうっすらと涙を浮かべながら、俺の手を両手で優しく包み込んでくれる。その手の温かさが、さらに俺の心を震わせた。
彼女のその顔を見つめながら、俺は静かに、そして確信を持って理解する。
言葉は、人を傷つけるためだけの刃じゃない。
誰かを支配するための鎖でもない。
こんな風に、大切な誰かを、心の底から笑わせることもできる、光のようなものなのだと。
そして、その温かさを知ってしまった今。
俺はもう、どれほど不便であろうとも、どれほど強大な敵が現れようとも。
あの冷徹で、孤独で、血の味しか知らなかった前世と同じ「武器」としての言葉の使い方には、二度と戻れない気がしていた。いや、戻るつもりなど、毛頭なかった。




