Ep60. “失いたくない”の正体
執着は、醜い。
前世の俺は、そう断定していた。
手放せない。諦められない。失うのが怖い。
そんなものは、己の足で立つことのできない弱者が抱く、見苦しい依存心に過ぎないと切り捨てていたのだ。
だから、俺は何にも執着しなかった。
人にも、場所にも、未来にさえも。
すべてはいつか壊れ、消え去るものだ。最初から期待しなければ、裏切られることもない。執着しなければ、心が摩耗することもない。ただ淡々と、合理的に、最適解だけを選び取って生きる。それが完璧な生存戦略であり、孤高であることの「強さ」なのだと、前世の俺は信じて疑わなかった。
……だが。
「ルークー!」
遠くから響く、鈴を転がしたような高い声。
その響きが鼓膜に届いた瞬間、俺の胸の奥は、情けないほどあっさりと安心の感情で満たされてしまう。
来た。今日も。ちゃんと。
その事実を確認できただけで、張り詰めていた身体の糸がふっと緩み、安堵している自分がいる。
——終わっている。
本当に、完全に、今の俺はかつての俺から見れば「終わって」いた。
前世の俺なら、間違いなく鼻で笑っていただろう。他人一人の存在に、、たった一言の声に、ここまで精神状態を左右されるなど非合理にも程がある。感情のコントロールもできないのかと、冷徹に蔑んでいたはずだ。
だが、今の俺は、この非合理な安心をどうしても失いたくなかった。
「ルーク、聞いて聞いて! 今日ね、パン屋さんのおじさんに『いつも元気で偉いね』って褒められたの! それでね、おまけで小さなクッキーももらっちゃった!」
駆け寄ってきたオリヴィアが、ひまわりが咲いたような満面の笑みを浮かべる。小さな手には、紙に包まれた不揃いなクッキーが大事そうに握られていた。
嬉しそうに、誇らしそうに胸を張る彼女の顔を見ていると、俺の胸の奥がじんわりと、熱いくらいに温かくなっていく。
……理解不能だ。
前世の俺の辞書には、こんな感覚は存在しなかった。他人の喜びを自分のことのように喜び、他人の幸福で自分まで満たされるなど、脳のバグか何かに違いないと思っていた。
だが、今は違う。
オリヴィアが笑うと、理屈抜きで嬉しい。
彼女が傷つくと、胸が締め付けられるように苦しい。
少しでも姿が見えなくなると、世界の色彩が落ちたように寂しい。
——そして。
もしも彼女を失ったらと、その光景を頭の片隅で想像するだけで、指先が凍りつくほどに怖い。
そこまで思考を巡らせて、俺は、ようやく理解した。
これが、“失いたくない”という感情の正体なのだと。
それは、歪んだ独占欲ではない。ただ自分の所有物にして、檻に閉じ込めたいわけでもない。
ただ、彼女に笑っていてほしい。
ただ、明日も明後日も、この場所にいてほしい。
今日も、明日も、その先も、また当たり前のように「またね」と声を交わしたい。
そんな、どこまでもささやかで、傲慢で、狂おしいほどの「小さな願いの積み重ね」こそが、執着の正体だった。
……弱い。本当に、人間はなんと脆く、弱い生き物なのだろう。
誰かを特別に、大事に思った瞬間から、人間は簡単に壊れる。
手放す恐怖に怯え、些細なことで不安になり、それまで恐れるもののなかった未来が急に怖くなる。守るべきものができるということは、明確な弱点を作るということと同義だ。
だが、そこで俺はふと思う。
前世の俺は、確かに壊れなかった。傷つくことも、不安に夜を明かすこともなかった。
なぜなら、誰も大事じゃなかったからだ。
……でも、あれは、本当に「強さ」だったのだろうか?
今ならわかる。違う。あれは強さなどではなかった。
ただ、最初から何も持たないことで、傷つくことから、失う怖さから、必死に逃げ回っていただけだったのだ。無菌室に閉じこもって「私は病気にならない、強い人間だ」と豪語しているような、滑稽で臆病な逃避行。
「ルーク? どうしたの、難しい顔して。またお本のお勉強?」
考え込んで黙り込んでしまった俺の顔を覗き込み、オリヴィアが人差し指で俺の頬をちょん、とつつく。
柔らかい指先。生きている人間の、確かな温かさ。
それが俺の冷え切った思考を、現実へと引き戻す。
俺は、彼女のその手に、自分の小さな手を重ねた。
前世の記憶のせいで、他人との距離の測り方が分からず、いつも通りぎこちなく、不器用に。
まるで、二度と離れないように繋ぎ止めるみたいに、そっと握りしめる。
「えへへ、ルークの手、あったかいね」
手を握られた理由も深く考えず、オリヴィアはただ嬉しそうに、無邪気に微笑んだ。
そのかけがえのない笑顔を見つめながら、俺は、胸の中で静かに、確信していた。
人間は、傷つかない無敵のままでいるうちは、まだ始まってすらいないのだ。
身を焦がすような“失いたくないもの”ができて、それを守るために怯え、悩み、足掻くようになって初めて。
人は本当の意味で、生き始めるのかもしれない。




