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Ep59. “いなくなる”という想像

死は、俺にとって少しも珍しいものではなかった。

——前世の、あの果てしなく冷え切った世界において。


耳を澄ませば、今でも聞こえてくるような気がする。規則正しく脈打つ魔導心音計の電子音が、ある瞬間を境に一本の平坦な直線へと変わる、あの無機質な警告音。あるいは、治療室の冷たい床に滴り落ちる、凝固しかけた黒い血液の匂い。


患者は死ぬ。どれほど手を尽くしても、どれほど高度な治癒魔術を編み上げても、死ぬ時は呆気なく死ぬ。

それは確率の論理であり、生命というシステムの限界だった。


「先生、もう蘇生術式の限界です。魔力核が崩壊を始めています」

「……分かっている。術式を停止しろ。死亡時刻を記録せよ」


前世の俺は、感情の起伏を一切排した声でそう告げる男だった。白衣の袖を血で汚しながら、次の患者のカルテへと視線を移す。そこに涙はなかった。感傷に浸る時間があるなら、その一秒を次の生存確率の計算に回すべきだ。それが効率的であり、医療従事者としての「正解」だと信じて疑わなかった。


治療が間に合わないこともある。魔術の深淵に手を伸ばしたところで、神の領域から命を毟り取ることなどできはしない。救えない命は、最初から「救えなかった命」として処理するしかなかった。


だから、俺は慣れていた。

割り切っていたのだ。


感情を挟めば、判断が鈍る。

術式を構築する指先が僅か一ミリ震えただけで、救えるはずだった別の命が零れ落ちる。一人の死に心を痛めていては、この過酷な現場で精神が摩耗し、やがて誰も救えなくなる。


「医者は冷酷であるべきだ。患者を人間として見るな。ただの、不具合を起こした肉体というオブジェクトとして扱え」


それが俺の処世術であり、生きるための盾だった。そう思っていた。そうやって、自分の心の周りに分厚い氷の壁を張り巡らせ、誰の体温も通さないように生きてきた。それが完成された、完璧な生き方なのだと。


……だが。


   ◇ ◇ ◇

「ねえ、ルーク? 聞いてる?」


不意に、鼓膜を心地よく震わせる声がした。

氷の世界が、一瞬にして弾け飛ぶ。


「あ、ううん。ごめん、ちょっと考え事をしてた」

「もう、また難しい顔をして! せっかくお天気がいいんだから、そんな顔してたらもったいないよ?」


目の前で、オリヴィアが小首を傾げて笑っていた。

窓から差し込む柔らかな午後の木漏れ日が、彼女の艶やかな髪を黄金色に縁取っている。その瞳は、濁りのない澄んだ光を宿して、真っ直ぐに俺だけを映し出していた。


彼女の笑顔を見る。その瞬間、俺の胸の中に奇妙な違和感が走った。


ふと、考えてしまったのだ。


——もし。

もしも、この目の前にある笑顔が、ある日突然、前触れもなく消えてしまったら?


その思考が脳裏をよぎった瞬間、肺の空気がすべて引き抜かれたかのように、呼吸が止まりそうになった。


心臓がドクンと大きく跳ね上がり、冷たい汗が背中を伝う。

嫌だ。

強く。どうしようもなく、暴力的なまでの拒絶感が、胸の奥底から突き上げてきた。


(……理解不能だ)


俺の rational な意識が、必死に警報を鳴らす。

前世の俺なら、こんな生産性のない、ただの不可能性のシミュレーションなど即座に切り捨てていただろう。

人間は死ぬ。生き物である以上、いつかは終わりが来る。

終わり。それだけだ。例外はない。オリヴィアだって人間だ。いつかは老い、あるいは病み、あるいは事故で、その生命活動を停止する。それは確定した未来であり、怯えるだけ無駄な自然の摂理。


それだけのことのはずだった。


だが、今の俺は違う。

オリヴィアがいなくなる未来を、ほんの数秒、頭の中で描いただけで。

胸が引き裂かれるように苦しい。

世界中の熱が奪い去られたかのように、指先が寒い。

得体の知れない暗闇に突き落とされるようで、怖い。


……弱い。本当に、情けないほどに弱い。

前世の俺が今の俺を見たら、きっと冷ややかな目で軽蔑しているだろう。


「おい、お前は何のために前世の記憶と経験を持っているんだ? 感情に流されず、常に最適な選択をするためだろう。一人の人間にここまで深く依存して、失うことを恐れて、一体どうするつもりだ。感情に振り回される凡夫に成り下がったか」


脳内で、かつての自分が嘲笑う。

その通りだ。今の俺は、自分で自分をコントロールできていない。


だが。

今なら、少しだけわかる気がする。


人間は。

“いなくなってほしくない”と、心の底から願う相手ができた瞬間から、どうしようもなく弱くなるのだ。

守るべきものができるということは、明確な弱点を持つということだ。その存在を人質に取られれば、どんな合理的な判断も狂ってしまう。前世の俺は、それを知っていたからこそ、誰とも深い関係を結ばなかった。


でも。

たぶん、それだけじゃない。


   ◇ ◇ ◇

「ルーク……?」


オリヴィアが、不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。

さっきまでよりも、彼女の顔が近い。

彼女の呼気が、俺の頬にかかる。その微かな息遣いすらも、信じられないほどに温かい。


生きている。

彼女は今、確かにここで、心臓を動かし、血を巡らせ、息をしている。


その、前世では数え切れないほど観察してきた「生命活動」という当たり前の事実が。

今の俺には、妙に、どうしようもないほどに愛おしかった。


俺は、無意識のうちに手を伸ばしていた。

引き寄せられるように、彼女の衣服の袖を、指先で小さく掴む。

ぎゅっと、力を込めて。


まるで、彼女が本当にここに存在しているかどうかを、確かめるみたいに。

幻となって、消えてしまわないように。


「えへへ、どうしたの? くすぐったいよ、ルーク」


オリヴィアが、照れたように、嬉しそうに身をよじる。

その鈴を転がすような声。

こちらを見つめる、慈愛に満ちた笑顔。

衣服越しに伝わってくる、確かな体温。


その全部が。

俺の、何にも代えがたい宝物だった。

絶対に、失いたくなかった。神がそれを奪おうとするなら、世界の理を捻じ曲げてでも拒絶したいと、本能が叫んでいた。


……そこで、ふと思う。

前世の俺は。

誰かの“いなくなってほしくない未来”を、一度だって本気で想像したことがあっただろうか。


いや、ない。

想像する前に、俺はいつも、自ら一歩引いて距離を取っていたからだ。

「深く関わらなければ、失った時、苦しまなくて済む」

そう信じて、それが最も賢明な防衛策だと疑わなかった。


だが、それは違った。

それは、“失う痛み”を避ける代わりに。

“誰かを大事だと思う、この震えるような喜び”まで、最初からすべてドブに捨てていただけだったのかもしれない。


胸の奥が、静かに、しかし消えることのない熱を持って燃えている。


怖い。大切な人がいる世界は、こんなにも脆く、臆病になる。

それでも。

この圧倒的な温もりを知ってしまった今。


もう。

あの何も感じず、誰も愛さなかった、冷たい氷の頃には、二度と戻れそうにない。

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