Ep58. 初めて怖くなった未来
未来という言葉に、かつての俺はこれっぽっちの価値も抱いていなかった。
前世の俺にとって、未来とは「予測」し「制御」すべき対象でしかなかった。必要なのは、積み上げた計算の果てに導き出される『結果』だけ。成功か、失敗か。そこに投資したリソースに見合うだけの価値があるのか。それ以外はすべて、取るに足らない些細なノイズだった。
十年後の自分がどうなっているか、老後に誰と笑っているか。そんな不確定な要素に興味を抱く暇があるなら、今この瞬間の勝率をコンマ一秒でも上げるべきだ。どうせ最後は一人で死ぬのだから、途中の過程に情緒を挟むのは効率が悪い――そう、本気で思っていたのだ。
だが。
「ルークー!」
その声が、静寂に慣れきった俺の鼓動を容赦なく揺さぶる。
聞き慣れたオリヴィアの声。彼女が駆けてくる、いつもの軽やかな足音。視界に飛び込んでくる、春の日差しをそのまま形にしたような、いつもの笑顔。
それを見た瞬間、俺の脳裏に、かつては存在しなかった「不吉な仮定」がふと浮かんでしまった。
――もし、いつか、これがなくなったら。
その思考が形を成した刹那、背筋に氷を押し当てられたような戦慄が走った。
胸の奥がひやりと冷え、指先が微かに震える。
(……怖い)
理解した瞬間、自分自身に驚愕した。俺は今、未来を恐れている。
前世の俺にとって、未来とは単なる結果の延長線上に過ぎなかった。だが、今の俺にとっての未来は――「失うかもしれない時間」へと変貌してしまっていた。
オリヴィアが俺の元へ来なくなる未来。
その瞳から光が消え、笑わなくなる未来。
俺の名前を呼ぶ声が、二度と届かなくなる未来。
そんな想像の断片がよぎるだけで、呼吸が浅くなる。胸が締め付けられ、立っていることさえ危ういほどの喪失感に襲われる。
「……終わっているな、俺も」
自嘲気味に呟いた言葉は、誰にも届かずに消えた。
本当に、完全に、取り返しがつかないほど。俺は「誰かを失うこと」を恐れる、弱くて愚かな人間になってしまった。
前世の俺なら、今の自分を見て鼻で笑っていただろう。
『失うのが怖いなら、最初から持たなければいい。期待するから苦しくなるし、執着するから壊れた時に耐えられないのだ』と、冷徹に切り捨てていたはずだ。
だが、今ならわかる。
それは、痛みを避ける代わりに、人生の「温度」まで根こそぎ捨て去る生き方だったのだ。
「ルーク? どうしたの、変な顔して」
いつの間にか目の前まで来ていたオリヴィアが、心配そうに俺の顔を覗き込む。
近い。肌の温もりが伝わってくるほどに。
俺は反射的に、彼女の服の袖をぎゅっと掴んでいた。
行くな。離れるな。そんな、子供じみた、けれど剥き出しの感情が指先に込もる。
「……どうしたの?」
重なる優しい声。その響きさえも、今の俺には痛烈な楔となって打ち込まれる。
怖い。こんなにも、たった一人の人間に自分の感情のすべてを預けてしまっている。もし彼女を失ったら、きっと前世の最期に感じた虚無よりも、数千倍、数万倍の苦しみにのた打ち回ることになるだろう。
だが。それでも。
あの、空っぽで、凪のように静かだった日々に戻りたいとは、微塵も思わなかった。
誰も必要とせず、誰からも必要とされず、ただ効率だけを愛した人生。
傷つかない代わりに、何一つ温かくなかったあの世界を、今の俺はもう「幸せ」とは呼べない。
「ルーク、本当に変な顔ー。お腹でも痛いの?」
オリヴィアが屈託なく笑う。
その笑顔を見るたびに、胸の奥がじんわりと、熱いくらいの温度で満たされていく。
怖い。恐ろしいほどに。
けれど、失うのが怖いと思えるほどの大切なものが、この手の中にある。
それはきっと、前世でどれほどの結果を積み上げても、一度として手に入れることができなかった、本物の「生」の証なのだ。




