Ep57. “特別”になっていく
「特別扱い」という言葉には、常に苦い後悔と、冷ややかな拒絶感が付きまとっていた。
少なくとも、前世の俺――あの乾いた合理性の世界で生きていた俺にとっては、それは避けるべき「バグ」のようなものだった。
前世の俺は、常に「平均」と「距離」を重んじていた。
誰かを特別視するということは、その人間に過度な期待を寄せることと同義だ。そして期待は往々にして、目に見えない鎖となって相手を縛り、己をも縛る。
期待が外れれば、そこには失望という名の亀裂が生まれる。そんな不確実なものにリソースを割くのは、あまりに効率が悪すぎた。
だから、俺は人を特別にしなかった。
誰か一人を選び、心の一等地を明け渡せば、そこに「執着」という名の歪みが生まれる。執着は判断を狂わせ、隙を作り、やがては致命的な弱点へと変わる。
それは戦場においても、あるいは組織を統率する上でも、決して許されない非合理の極みだった。
……そのはずだった。その理屈こそが、俺という人間を形作る背骨だったはずなのだ。
「これ、ルークに! 食べてほしいなと思って!」
目の前で、オリヴィアが弾んだ声を上げる。彼女の両手に包まれているのは、小さな布の包みだった。
差し出されたそれを開くと、中から現れたのは、少し不格好で、端の方が少しだけ焦げた小さな焼き菓子だ。
「……お菓子か?」
「うん! ちょっと……ううん、結構失敗しちゃったんだけどね。でも、ルークに食べてほしくて」
オリヴィアは照れくさそうに、けれど心の底から嬉しそうに笑った。
その瞬間だった。
俺の胸の奥で、閉じ込めていたはずの何かが、強い熱を帯びて脈動し始めた。
俺に。
俺のために。
その事実を脳が処理した瞬間、肺の空気が急激に薄くなったような感覚に陥る。
前世の俺なら、間違いなくここで「警戒」という名の盾を構えていただろう。
なぜ俺に渡すのか。その行動の裏にある「理由」は何だ。彼女は何を求め、どのような見返りを期待しているのか。
微笑みの裏に隠された計算を、透視するように分析していただろう。
だが、今、目の前にいるオリヴィアの瞳には、そうした打算の欠片すら見当たらない。
ただ、自分が作ったものを、俺に渡したいと思った。
ただ、俺が食べてくれることを想像して、胸を躍らせて持ってきた。
それだけの、あまりに純粋で、あまりに透明な動機。
合理性の極致にいた俺からすれば、それは到底理解不能な挙動だった。
失敗したものをわざわざ他人に贈るリスク。時間をかけてそれを作るコスト。それに見合わない、ただ「笑顔を見る」というだけの報酬。
計算式は成り立たない。ロジックは崩壊している。
なのに。
それなのに、どうしようもなく「嬉しい」と感じてしまっている自分がいる。
完全に、感情が理屈を追い越し、俺の防壁を軽々と飛び越えて、心臓の最も柔らかい場所を直撃していた。
「ルークは、私にとって特別だからね!」
オリヴィアのその言葉が、俺の胸の奥を大きく揺さぶった。
「特別」。
それは、俺が前世で最も忌避し、遠ざけてきた呪いのような言葉だ。
誰かにとって特別になること、そして誰かを特別にすること。それは、いつか訪れる「別れ」や「裏切り」の際、より深く傷つくための準備をしているのと同じだと思っていた。
だから俺は、世界を平等に切り離した。
誰に対しても等間隔の距離を保ち、誰も、俺の内側に踏み込ませなかった。
そうしていれば、失う恐怖に怯えることもない。空っぽのままでも、美しく機能的な「個」でいられるから。
……だが、今の俺は、その言葉を否定することができなかった。
否定するには、あまりに多くの証拠が積み上がりすぎていた。
彼女の声を聞くだけで、騒がしかった思考が凪ぐ。
彼女の姿が見えなければ、どこか落ち着かない空虚さが付きまとう。
彼女が笑えば、世界が色づいたように感じ、彼女が泣けば、己の身を裂かれるよりも鋭い痛みを感じる。
もし彼女が傷つくことがあれば――俺はきっと、理性のすべてを投げ打ってでも、その原因を排除しに行くだろう。
ここまで、俺という人間の根幹を揺さぶり、支配してしまう存在を、どうして「特別ではない」などと嘘を吐けるだろうか。
「……ルーク?」
返事のない俺を不思議に思ったのか、オリヴィアが少しだけ首を傾げて顔を覗き込んできた。
近い。彼女の放つ、日向のような柔らかな温度が伝わってくる。
俺は気づけば、無意識のうちに彼女の細い指を掴んでいた。
驚いたように瞬きをする彼女の指は、驚くほど細く、そして温かい。
俺の冷えた合理性を、容易に溶かしてしまうほどの熱量。
「えへへ、どうしたの?」
オリヴィアが、はにかむように笑う。
その笑顔を見つめながら、俺はゆっくりと、そして決定的に理解していった。
人間は、誰かを特別にしてしまうから、弱くなる。
守るものが増え、執着に縛られ、合理的な判断力を失っていく。
だが、同時に。
その「特別」という名の重みがあるからこそ、人間は、ただの空虚な容れ物ではなくなれるのかもしれない。
かつての俺は、強さを求めて心を捨てた。
今の俺は、彼女という「弱点」を得ることで、初めて自分が「生きている」ことを実感している。
たとえこれが、いつか自分を焼き尽くす執着になったとしても。
俺はこの特別を、二度と手放すつもりはなかった。




