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Ep56. 初めての“いてほしい”

人は、一人で生きられる。

前世の俺は、本気でそう思っていた。


否――正確には、そう自分に言い聞かせ、納得させていたのだと思う。

一人で生きる方が、何倍も、何十倍も「楽」だったからだ。


誰かに期待しなければ、その期待を裏切られて絶望することもない。

誰かを信じなければ、手のひらを返されて傷つくこともない。

誰かと深く関わらなければ、煩わしい感情の機微に振り回されることもない。


それは非常に合理的で、計算の成り立つ生き方だった。

だから、俺は人を遠ざけた。

自分の周囲に不可侵の壁を築き、必要以上に他者を近づけなかった。

「孤高」という言葉は、俺にとって最大の賛辞であり、同時に最強の防衛手段でもあった。


……その結果、最後に何が残ったか。


人生の幕が下りるその瞬間、俺の視界には誰もいなかった。

死の間際に聞こえるのは、無機質な医療機器の音か、あるいは風の音だけ。

広すぎる部屋。整いすぎた静寂。

それはあまりに静かで、耐え難いほど冷たく、そして救いようがないほどに空っぽだった。


だが、今はどうだ。


「ルークー! 聞いてるー?」


その声が耳に届くだけで、思考の霧が晴れていく。

オリヴィアの声だ。

鈴を転がしたような、少し高くて、一点の曇りもない響き。

ただそれだけで、あんなに冷え切っていた胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。

まるで凍土に春の陽光が差し込むように、内側から溶かされていく感覚。


それが、今の俺にとっては「当たり前」の日常になっている。


――異常だ。

かつての俺を知る者が今の俺を見れば、きっと鼻で笑うだろう。

合理的であることを至上命題としていた男が、一人の少女の声に、これほどまで心を揺らしている。

完全に、前世の俺が軽蔑していた「感情に支配された弱者」そのものだ。


だが。

もう、否定しきれない。


「今日はね、お母さんにおつかいを頼まれたの! それでね、それでね……」


目の前で、オリヴィアが身振り手振りを交えて話し始める。

その表情は、まるで宝物を見つけた子供のように輝いている。

彼女が語るのは、パン屋で焼きたてのパンの匂いに包まれたこと。

道端で出会った大きな犬が、とても賢そうにこちらを見たこと。

石垣の隙間に、名前も知らない小さな花が力強く咲いていたこと。


どれもこれも、客観的に見れば「くだらない」話だ。

前世の俺であれば、一秒たりとも時間を割く価値を見出さなかっただろう。

「それで? 結論は? その話にどんな有益な情報があるんだ?」と、冷たく切り捨てていたはずだ。


だが、今の俺は。

その“くだらない話”を、もっと聞いていたいと願っている。

彼女がパンの香りに鼻をくすぐられ、犬の瞳に驚き、花の色に目を細めた――その一つ一つの断片を、こぼさず拾い集めたいと思っている。


「好き」なのだ。

彼女の話を聞いている、この緩やかな時間が。


そこで、俺は自分の思考の末路に気づき、愕然とする。

……終わっている。

完全に、これまでの自分を積み上げてきたロジックが崩壊している。


前世の俺は、“誰かがいる状態”を、ただただ煩わしいノイズだと断じていた。

静かな方が思考は研ぎ澄まされ、孤独の方が生存戦略としては合理的だった。

なのに。


今、オリヴィアがひとしきり話し終え、満足そうに帰路についた後の静けさは。

どうしようもなく、寒い。


彼女がいなくなった途端、部屋の空気が数度下がったような錯覚に陥る。

賑やかだった声が消え、無邪気な笑い声が霧散する。

それだけで、この見慣れた部屋が、不自然なほどに広く感じられた。

先ほどまで満たされていた空間が、急激に真空へと変わっていく。


……理解した。

認めたくはなかったが、認めざるを得ない。


俺は。

“いてほしい”と、心の底から願っている。


オリヴィアに。

特別な用事があるわけでも、何かを成し遂げてほしいわけでもない。

ただ、ここに。

俺の視界の端に、彼女という存在が揺れていてほしい。

彼女が笑っていてほしい。

彼女の声が、この部屋の空気を震わせていてほしい。


それだけを、乞うように願っている。


――弱い。

本当に、今の俺は無様に弱い。


どうしようもなく、自分以外の誰かを必要としている。

一人では完成できない自分を、不完全なまま晒している。

それは、前世の俺が最も軽蔑し、忌み嫌っていた「依存」という名の病に近い状態かもしれない。


だが、そこでふと、ある考えが脳裏をよぎった。


前世の俺は、確かに他人からの評価を求めていた。

才能を認められたい。

技術を世界に知らしめたい。

誰よりも優れていることを証明し、頂点に立ちたい。

それは「必要とされたい」という強烈な承認欲求だった。


だが、俺は一度たりとも、相手に対して「いてほしい」と思ったことはなかった。

俺が求めていたのは「評価」という報酬であり、相手そのものではなかったのだ。

相手が誰であるかは重要ではなく、俺の価値を鏡のように映し出す「機能」であればそれで良かった。


だから。

俺の周りには、最後に誰も残らなかったのだ。

機能を果たし終えたパーツが捨てられるように、俺もまた、誰の記憶にも残らない孤独な終焉を迎えた。


「ルーク?」


沈黙に沈んでいた俺を心配したのか、オリヴィアが顔を覗き込んできた。

その距離が、あまりに近い。

肌から伝わってくる体温。彼女がまとっている、日向のような柔らかな匂い。


俺は、無意識のうちに右手を伸ばしていた。

そして、彼女の服の袖を、ぎゅっと掴んだ。


(行くな)


言葉にすれば、彼女を困らせるかもしれない。

(もっとここにいろ)

(俺をこの静寂の中に一人にしないでくれ)


そんな身勝手な言葉を飲み込む代わりに、指先に力を込める。

子供じみた、けれど今の俺にできる精一杯の抵抗。


「えへへ」


オリヴィアは驚く様子もなく、むしろ嬉しそうに目を細めて笑った。

俺が掴んだ手を振り払うこともせず、それどころか、空いている方の手で俺の手をそっと包み込んでくれる。


その笑顔を見た瞬間。

胸の奥に空いていた、あの不気味で寒々しい「空洞」が、温かな熱で一気に満たされた。


……ああ、そうか。


人は、一人で生きられる。

それは物理的には正しいのかもしれない。

けれど、人は。

案外、“誰かにいてほしい”と願うために、そしてその願いが叶う瞬間の温もりを知るために。

生きているのかもしれなかった。


俺の築いてきた合理性の城壁は、彼女の小さな手によって、いとも簡単に崩れ去った。

けれど、その瓦礫の上に今、初めて「幸福」という名の芽が吹いたような気がした。

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