Ep55. 朝が来るという奇跡
朝は、来て当然のものだった。少なくとも、前世の俺にとっては。
かつての俺の世界において、夜が終われば朝が来るのは、重力があることと同じくらい無機質な物理法則に過ぎなかった。時間はただ一定の速度で上流から下流へと流れ、世界はその器としてそこに在り続ける。それだけのことだ。
だから、朝という現象に対して感謝を抱いたことなど、ただの一度もなかった。
前世の俺にとって、朝の光は「目覚まし代わりの刺激」であり、窓の外で鳴く鳥の声は「集中を妨げる雑音」でしかなかった。目を覚まして最初に考えるのは、昨夜の魔法数式の続きであり、今日中に積み上げるべき研究成果であり、己を高めるための野心だった。
朝は、単なる「次の作業時間の開始」を告げるチャイムに過ぎなかったのだ。
……だが、今の俺は。
意識が微睡の淵から這い出し、まぶたの裏に薄明るい光を感じた瞬間、心の中に真っ先に浮かび上がる問いがある。
「――今日も、彼女は来るだろうか」
オリヴィアのことだ。
自嘲するまでもなく、認めざるを得ない。終わっている。本当に、完全に、魔術師としての俺はどこかで壊れてしまったらしい。
もし前世の俺が今の俺を見れば、間違いなく呆れ果てて言葉を失うだろう。「朝一番に考えることが、それか」と。「研究はどうした、魔術の深淵はどうした、かつての気高い向上心と、世界を跪かせようとしたあの野心はどこへ消えた」と、冷徹な声で問い詰められるに違いない。
だが、不思議なことに、胸の奥はその批判を拒絶しない。むしろ、その「堕落」とも呼べる変化を、当然のような顔をして受け入れている自分がいる。
窓の外が少しずつ白んでいく。カーテンの隙間から差し込む光が、寝室の床に細長い線を描く。庭の木々では鳥たちが騒がしく鳴き交わし、朝の風が木の葉を揺らす音が聞こえる。
そして、今日という新しい一日が動き出す。
以前の俺なら、この静かな喧騒を煩わしく感じていただろう。一刻も早く思考を研ぎ澄ませ、孤高の探求に戻らねばと焦っていただろう。
だが今は違う。
今日、誰に会えるか。
誰が、どんな顔をして笑うか。
その口から、どんな声を聞くことができるか。
そんな、かつての俺なら「生産性の欠片もない」と切り捨てていたはずの事柄が、今の俺にとっては一日の存立基盤になっている。
人間らしい。不本意なほどに、俺は人間になってしまった。
「ルーク、起きてる?」
階下から、あるいは扉の向こうから、バーバラの呼ぶ声が聞こえる。
バタバタと近づいてくる、遠慮のない足音。
以前の俺なら、聖域を侵されるような不快感を覚えていただろう。静寂こそが魔術師の友であり、他人の気配など、思考を鈍らせる不純物でしかなかったからだ。
だが、今はどうだ。
この、少しばかり騒がしい生活の音に、俺の耳はすっかり慣れてしまった。いや、慣れたどころではない。誰かがそこにいて、自分の名前を呼び、朝の準備をしている。その気配があることに、深い安堵を覚えている自分がいる。
変わったのだ。本当に、少しずつ、だが決定的に。
前世で無駄だと切り捨て、削ぎ落とし、忘却の彼方に置いてきたはずの感情が、砂利が積もるように、今の俺の胸の中には温かな層を作っている。
「ルークー!」
今度は、窓の外から突き抜けるような明るい声が届いた。
オリヴィアだ。
その瞬間、心臓が跳ね、胸の奥がぱっと熱を帯びる。
それは安堵であり、喜びであり、ずっと待ち焦がれていたものがようやく届いた時に感じる、魂の充足感だった。
異常だ。自分でも、この反応は完全に異常だと思う。一人の少女の声を聞いただけで、これほどまで世界の色が鮮やかに塗り替えられるなど、魔法の理でも説明がつかない。
だが、嫌ではない。むしろ、彼女が今日もここに来てくれたことが、たまらなく嬉しい。
「おはよう!」
勢いよく扉が開く。
逆光を背負い、朝の光を全身に浴びて、オリヴィアが太陽のような眩しい笑顔で立っている。
その光景を見た瞬間、俺はふと思った。
朝が来るというのは、決して当たり前のことではないのだと。
宇宙の法則がどうあれ、誰かが今日も健やかに生きていて、昨日と同じように……あるいは昨日よりも少しだけ愛おしい姿で目の前に現れ、再び会うことができ、その名前を呼ぶことができる。
それは、計算や論理で導き出せる結果ではない。
案外、これは奇跡みたいなことなのかもしれない。
前世の俺は、そんなこと、ただの一度も考えなかった。命も、時間も、出会いも、すべては利用すべき資源か、克服すべき課題に過ぎなかった。失ってからしか、その価値に気づけなかった愚か者だ。
だからこそ、誓う。
今度の人生では、この二度目のチャンスでは。
ちゃんと、大事にしたい。
肌に伝わる空気の温度を。
ゆっくりと流れるこの時間を。
そして何より、「また会えた」と心の底から安心できる、この奇跡のような朝を。




