Ep54. 初めて願ったこと
願いとは、弱さだ。
少なくとも、前世の俺は、本気でそう信じて生きていた。
願うという行為は、その対象に対して「自分の力だけでは届かない」と白旗を上げることに他ならない。それは自らの不足を認め、欠落を晒し、自らの無力さを証明する無様な儀式だ。だから、俺は決して願わなかった。
欲しいものがあれば、手段を選ばず奪い取った。必要なものがあれば、泥を啜ってでも手に入れた。そして、どうしても手の届かないもの、あるいは手に入れる価値に見合わないものは、未練など一欠片も残さず切り捨ててきた。
それで十分だった。いや、それこそが「強さ」というものの定義だと、疑いもしなかったのだ。
……そのはずだった。
夜は、あまりに静かだった。
窓の外では、行き場のない夜風が木々を揺らし、低く唸るような音を立てている。明かりを消した部屋は深く濃い闇に包まれ、わずかな月光すら届かない。少し離れた場所では、バーバラが安らかな寝息を立てて眠っている。世界から隔絶されたようなこの空間で、俺だけが意識を研ぎ澄ませたまま、天井を見つめていた。
眠れない。理由は、自分でも呆れるほど明確だった。
脳裏に焼き付いて離れないのは、昼間に別れたオリヴィアの、あの最後の言葉だ。
『また明日来るよ!』
弾けるような笑顔と共に投げかけられた、その何気ない言葉。
「また明日」。それは未来に対する無邪気な約束だ。だが、前世の俺の価値観に照らし合わせれば、これほど不確定で、論理性を欠いた言葉はなかった。
未来など、不確定要素の塊でしかない。突発的な事故、逃れられぬ病、あるいは気が変わったというだけの些細な気まぐれ。人間という生き物は、驚くほど簡単にこの世から消え、あるいは心を変えてしまう。期待するという行為は、それらが起きた際に受けるダメージを、自ら増幅させるだけの愚行だ。
期待しないこと。信じないこと。それが最も合理的で、傷つかない生き方だった。
……なのに。今の俺は、どうだ。
まるでそれが確定した真実であるかのように、俺は明日を待っている。彼女と再び会える未来を、当然のことのように待ち望んでいる。
――異常だ。本当に、自分でも制御できないほどに。
胸の奥が、ざわざわと落ち着かない。得体の知れない不安と、それを上回るほどの期待。そして、その両方を包み込むような奇妙な安心感。それらすべてが泥泥に混ざり合い、俺の思考をかき乱す。
面倒だ。感情というものは、これほどまでに厄介なものだったか。
前世での俺は、もっと単純な感情の積み木でできていたはずだ。他者に対する嫌悪、現状への苛立ち、そして弱者への軽蔑。それらは刃のように鋭く、ただ切り捨てるだけで処理できるものだった。
だが、今は違う。
温かいものに触れれば触れるほど、それを失うことが怖くなる。大事なものが増えるたびに、夜の静寂は不安を連れてくる。
人は、失いたくないものができた瞬間から、弱くなる。その「弱さ」を、かつての俺は何よりも忌み嫌っていた。
ふと、自分の思考の奥底に横たわっている「本音」に気づいてしまった。
(――明日も、来てほしい)
その言葉を脳内で認めた瞬間、あまりの衝撃に呼吸が止まりそうになった。
願った。この俺が。自分以外の誰かに、自分では制御できない未来を、切に願ってしまった。
ありえないことだった。前世では、死ぬ間際でさえ一度もなかったというのに。誰にも期待せず、何も願わず、ただ冷徹に牙を研ぎ続けていた方が、どれほど楽だっただろうか。
だが、今の俺は、認めざるを得ない。
オリヴィアが笑って、再び俺の名前を呼び、この扉を開けてくれる明日を、俺は心の底から願っている。
……弱い。本当に、どうしようもなく弱くなったものだ。
しかし、不思議なことに、俺はその弱さを完全に嫌うことができなかった。
なぜなら、不確定な未来に怯え、期待に胸を焦がしながら願っている今の方が。
万能感に酔いしれ、何もかもを切り捨てていた前世の空っぽな自分よりも――。
ずっと、ずっと、「生きている」という手触りがしたからだ。




