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Ep53. “また明日”の意味

「明日」という言葉を、俺はかつて一度も信用したことがなかった。

少なくとも、前世の俺にとっては、それは最も無価値で、もっとも残酷な概念だったからだ。


未来とは常に不確定なものだ。積み上げてきた努力も、育んできた関係も、一瞬の理不尽で霧散する。人は死ぬし、平気で裏切る。そして、何の予兆もなく目の前から消えていく。そんな光景を嫌というほど見てきた俺にとって、「また明日」という言葉は、何の本質も伴わない空虚な挨拶に過ぎなかった。意味の薄い、形式的な、ただの音の羅列。……そのはずだった。


「——それじゃあ、そろそろ帰るね」


夕刻。窓の外は燃えるような茜色に染まり、部屋の中に長い影を落としている。

オリヴィアが椅子から立ち上がり、手際よく自分の荷物をまとめ始めた。その瞬間、俺の胸の奥が、石を落とされた沼のように少しだけ沈んだ。


「帰る」という言葉が意味するのは、すなわち「この時間が終わる」ということだ。

それはひどく不快な感覚だった。完全に、生理的なレベルで胸がざわつく。


前世の俺であれば、こんな感情を抱くことさえなかっただろう。他人と過ごす時間が終わる。それだけのことだ。むしろ、邪魔者がいなくなって静かになれば、自分の思考に没頭できる。一人の方が効率的で、何より楽だ。そう考えていたはずだった。


だが、今の俺は違う。

彼女が去り、この部屋が静寂に包まれる瞬間を想像しただけで、指先から冷えていくような感覚を覚える。


「……ルーク?」


オリヴィアが足を止め、不思議そうにこちらを覗き込んできた。彼女の瞳には、夕陽の赤が反射してキラキラと輝いている。そして、悪戯っぽく、けれどどこか慈しむような笑みを浮かべて言った。


「もしかして、さみしい?」


——図星だった。

だが、それを認めるわけにはいかない。そんな感傷的で、脆弱な感情。前世の俺が今の姿を見たら、きっと腹の底から失笑していただろう。他人が家に帰るというだけで、子供のように寂しがる。合理性の欠片もない、弱者の露呈だ。


しかし、頭でいくら否定しても、胸の奥にある「本音」は沈黙を守らなかった。むしろ、行くな、まだここにいてくれと、醜い叫びを上げている。


これは独占欲か、それともただの依存か。

これほどまでに感情に支配されている自分に嫌悪感を抱きながらも、その一方で、彼女の存在を渇望する心を完全に切り捨てることもできなかった。


「でもね、安心して」


オリヴィアが歩み寄り、俺の頭を優しく撫でた。

その手のひらは、いつものように温かかった。俺を構成する氷のような理屈を、簡単に溶かしてしまう魔法の温度だ。


「また明日、来るから。約束だよ!」


その言葉が鼓膜に触れた瞬間、胸の奥が大きく揺れた。

また明日。

それは未来の約束だ。何の保証もない。絶対に守られるという証拠などどこにもない。明日になれば、天変地異が起きるかもしれないし、彼女の気が変わるかもしれない。前世の俺なら「不確かな未来に期待を寄せるのは愚者のすることだ」と断じていただろう。


それなのに。

俺は、その不確かな言葉に、心底から安堵してしまったのだ。


——終わっている。本当に、完全に。

かつての俺は、決して未来を信じなかった。期待すれば、裏切られた時のダメージが大きくなる。だから最初から期待を捨て、冷徹な現実だけを見つめて生きてきた。それが賢明な生き方だと信じて疑わなかった。


だが、今の俺は、たった一言の「また明日」という言葉を糧にして、明日という未知の時間を待ち望んでいる。来るかどうかもわからない未来を、幼子のように楽しみにしている。


理解不能だ。極めて非合理的で、脆弱な在り方だ。

だが、オリヴィアの手が離れた後も、彼女が触れた場所が、そして言葉を投げかけられた胸の奥が、確かな熱を持って拍動し続けていた。


「じゃあね、ルーク! おやすみなさい!」


オリヴィアが元気に手を振り、部屋の扉が閉まる。

バタン、という軽い音とともに、部屋に静寂が戻ってきた。


……やはり、寂しい。

空気が冷え、世界から色が抜け落ちたような錯覚に陥る。


だが、以前の俺が知っていた「空っぽな孤独」とは、決定的に違っていた。

部屋は静かだが、心は空っぽではない。

明日がある。彼女は「また来る」と言った。


その言葉が、暗くなり始めた部屋の中で、小さな、けれど決して消えることのない灯火のように、俺の胸を温め続けていた。

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