Ep52. 戻ってくる場所
待つ時間は、大嫌いだった。
少なくとも、前世の俺にとっては。
かつての俺にとって、待機とは「無駄」の同義語だった。それは何も生まず、一歩も進まず、ただ生を停滞させるだけの空白。だからこそ、俺は常に何かをしていなければ気が済まなかった。
研究、計算、あるいは新しい術式の構築。止まれば最後、自分の内側が空っぽになって、そのまま霧散してしまうのではないかという恐怖があった。俺の存在価値は、生み出す成果の積み重ねでしか証明できなかったからだ。
……だが、今の俺はどうだ。
俺はただ、静かに扉の方を見つめている。手元には魔導書もなければ、思考の海に沈むこともない。ただ、オリヴィアという一人の少女が帰ってくるのを、じっと待っている。
前世の俺が見れば、きっと呆れ果てて言葉も失うだろう。何もしない時間。誰かを待つだけの時間。これほど非効率で無意味なものはないと、一言の下に切り捨てていたはずだ。
しかし、今の俺にはこの時間が、妙に落ち着かない。
「遅い」「まだか」「本当に戻ってくるのか」
そんな、かつての俺なら「ノイズ」として処理していたはずの思考ばかりが脳裏を支配する。完全に感情に振り回されている。かつて万象を操らんとした俺が、たった一人の少女の不在にこれほど不自由を強いられるとは。
その時、外から軽やかな笑い声が届いた。
すぐさま理解する。オリヴィアだ。声だけで、彼女の輪郭が、温度が、鮮明に脳裏に浮かぶ。
その瞬間、冷え切っていた胸の奥に、急速に熱が戻ってきた。詰まっていた呼吸がふっと軽くなり、世界に色が戻る。異常だ。たった一声、空気を震わせただけの振動が、俺のすべてを変えてしまうなんて。
「ルークー!」
勢いよく扉が開く。
駆け込んできたオリヴィアは、外の冷たい空気を含んだまま、頬を赤く染めていた。少しだけ上がった息が、彼女がここまで走ってきたことを物語っている。
「ただいま!」
その言葉が鼓膜を叩いた瞬間、胸の奥が大きく揺れた。
「ただいま」――それは、帰ってきた人間が口にする言葉だ。つまり彼女は、俺のいるこの場所を、当たり前のように「戻る場所」だと定めている。
その事実を理解した瞬間、理屈ではない熱が全身を駆け巡った。嬉しい。そのあまりに素朴で強烈な感情を、もう誤魔化すことなんてできない。
「ちゃんと戻ってきたよ!」
オリヴィアが屈託なく笑い、俺の頭を無造作に撫でる。
その手は驚くほど温かかった。身体が、細胞が、この温度を、この声を、この存在を、待っていたのだと深く記憶してしまっている。
ふと、思い至る。
前世の俺には、戻ってくる人がいなかった。
待つ相手も、帰ってくる相手もいない。だから、どこまで行っても場所はただの「地点」であり、部屋はただの「箱」に過ぎなかった。
だが、今は違う。
オリヴィアが来る。彼女が笑い、俺の名前を呼び、「ただいま」と言う。
それだけで、この場所はただの部屋ではなく、かけがえのない「居場所」へと変貌する。
人間というのは、案外、場所そのもので生きているのではない。
「誰といるか」――ただそれだけのことで、呼吸の意味すら変わってしまう生き物なのかもしれなかった。




